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3-4 貴族は少女の赤い花に溺れる(下)

 その夜、ミカは夢を見た。

 遠い昔の、長い長い夢だった。




 バスルームを出ると、アリトが長椅子でコーヒーを飲んでいた。窓のむこうは、朝陽で白く、雪はもう止んでいる。通りの端には、灰白色の塊が積み上がり、馬車は氷を削るような音を立て、人びとはそろそろと歩いていた。窓からはなれ、長椅子の背後を通りかかると、アリトが首を後ろに反らした。ミカを見上げる格好になる。


「帰るから」

「うん。もう列車動いてそうだね」

「俺があっちに帰るから…………選ばせてごめん」


 アリトの指が、こぼれ落ちる栗色の髪を梳いた。馬の尾のように、さらさらと指に流れていく。彼の手をつかみ、指を絡ませ、ミカは微笑んだ。


「……ありがと。でも大丈夫だよ」

「いや、俺が……」

「あんたは残るし、あたしは帰る」

 ミカを見上げる金の瞳が、丸くなる。

「アリト……あたしね。屋敷に帰ったら話そうと思うんだ。公爵とアンソニーに……」


 続けた言葉に、アリトの瞳がさらに見開かれた。問いたげな視線に、もう言葉は重ねなかった。絡んだ指先に力がこめられる。ミカは一度だけ強く握り返して、手をはなした。



 時間は三日前にさかのぼる。ミカが屋敷を去った翌日のことだった。


 潮風が茶色の髪をゆらした。灰色の目が細められる。

 男はポーツマス港から船に乗り、ワイト島北部の港町・カウズで降りた。グレート・ブリテン島の南部に位置するワイト島。女王が好んだ避暑地であり、かの桂冠詩人の終の棲家であり、また英国人のリゾート地としても名を馳せる島である。


 男は馬車に乗り、島の西部・フレッシュウォーターに向かった。およそ一時間半で、目的の館に着いた。両側には楡の大木が、館を隠すように植えられていた。黄灰色の壁には蔦が這い、その緑で窓が覆われるほどだった。交際の少ない主人にぴったりの、隠れ家のような館であった。


 一階の応接間からは、庭が見え、黄梅が茂り、スノードロップが可憐な花を咲かせていた。深紅のカーテンが、窓の両端に垂れ下がっている。その紅と黄と白とを眺めていると、背後で扉が音を立てた。


「待たせたね。こんな場所までようこそ……久しぶりだな」

「事前のご挨拶もなく、不躾な訪問をお詫び申し上げます」

「なに、構わない。休暇でこの島に来たそうだね? そうだな。執事も少しは休みべきだ」

 館の主人は、男にワインをすすめた。男は丁重に辞退した。

「一切のアルコールはっておりますので」

「そうか。ぼくも見習いたいものだな」


 主人は窓辺に向かい、グラスを半分空にして、男に振りかえった。


「それで?」

「……ミカはもう、戻って来られましたか」

「……ミカ?」

「はい……あなたが遣わされたものと、拝察しておりますが」

「……なんの話だい?」


 男は言葉を続けた。主人の蒼白な頬は薔薇色に染まり、眉根は寄せられ、唇はさらに紅くなり、目は潤むように充血した。その空色の目と栗色の髪は妹とよく似て、怒りさえも美しい様相だった。男が話を終えると、主人はソファに腰を落とした。ほとんどよろめく様だった。


 窓を見上げ、主人は口を開いた。


「知っているかい、ホワイトリー? この丘の先の、テニスン氏の屋敷の窓からは、英国海峡が見えるんだ。窓を通りぬける風に、この空気には一パイント六ペンスの価値があると。彼はそう言っていた。ねえ、ほんとうに美しい景色だろう? この島は」

 男は同意の意をこめて、口は開かず、ただ目を伏せた。

「この美しい景色も……そんな下劣な話の前では、色褪せてしまうねえ」

 ソファに背をもたれ、主人は酷薄な笑みをこぼした。

「帰ってもらえるかい? 体調があまり良くないんだ」


 男は気遣いの言葉を述べ、執事らしく、静かな礼を返した。




 坂を下り、小一時間ほど西に歩いて、男はアラム湾にでた。白く尖った岩が三つ並んで、海から突きだしている。針岩と呼ばれる所以であった。波が岩にあたり、その音を響かせた。海鳥の鳴き声が郷愁をさそう。岩の間は夕陽に染まり、紫と橙がせめぎ合っている。


 男は岸に立ち、波の音と海鳥の声に、耳を澄ませているようだった。

 あるいは、男はすました執事の顔の奥に、実直で素朴な気質を秘めていたので、その景色にすっかり魅了されてしまったのかもしれない。

 男の目が、鉱石に紫や橙の光をあてたように、輝いていた。


「……ご主人様。やっぱり、間違ってやしませんかね」



 駅前には、迎えの馬車が停まっていた。屋敷に着いたのは、昼食の少し前だった。

 四日ぶりの使用人ホールは、なにも変わっていなかった。ミカを目にすると、エロル夫人がにっこりと近づいてきた。


「ミカ。もう体調は良くなったの?」

「え?」

「体調を崩して、ロンドンの専門医に診てもらったんでしょう?」


 そう言って、夫人はきゅっと片目を瞑ってみせた。これまでミカが見たなかで、史上最強に可愛いウインクだった。そっか。そういうことにしてくれたんだ。


「はい……もう大丈夫です。迷惑かけてごめんなさい」

 頭を下げると、軽く背中をたたかれた。

「迷惑なんて……でもそうね。おつかいを頼めるかしら。アリスが礼拝堂にいるの。もう昼食だって知らせてきてくれる?」


 ミカはうなずき、屋敷をでて西側にむかった。キッチンと向かい合う、南側の建物が礼拝堂で、その隣は墓地になっていた。石造りの床に横長の椅子が並んでいる。前方の祭壇には十字架が立ち、窓から光が射していた。暗灰色の床に、十字架の影が黒く伸び、その先に少女が跪いていた。


「どうか無事でありますように」


 ミカが声をかける前に、か細い祈りの言葉が聞こえてきた。

「どうかミカが無事で、今日も元気に過ごしていますように。辛い目に遭ったりしてませんように。どうか……また会えますように」

 椅子の間の通路をすすみ、少女の背後に立った。ミカが屈みこみ、その背中にふれると、ぴくりと身体がはねた。

「あ……エロル夫人。ごめんなさい、もうお昼……」

 目元を拭う少女の手が止まる。ミカは彼女を抱きしめた。


「ただいま」


 アリスの目から、透明な雫が溢れていた。

 ミカは両手で小さな頬を包みこんだ。


「ごめん」

 手のなかで、顔が左右に動いた。

「わたし……わたし……いつも朝ミカに任せてばっかりで……ミカがベッドから落ちた時も……いなくなった時だって……ぜんぜん気づかなくて……一緒にいたのに……わたしだけ眠ってて……なんて……なんてばかなんだろって……わたし……ごめんなさい、ミカ」


 ミカは背中を抱き寄せて、アリスの肩に顔をうずめた。


「全然そんなことない。アリスは全然悪くないんだから。あたしが勝手にいなくなったの……ごめん。自分のことばっかでこんな心配させてるって思わなくて……ごめん。ごめんね、アリス」

「そんなことないってば! ミカは悪くないもん‼」

「アリスだって悪くないし!」


 二つの高い声が、礼拝堂に響いた。ミカとアリスは目を合わせ、互いに吹きだした。ふたりとも涙で顔がぐしょぐしょで、なんだか間抜けで、でもアリスと一緒にいられることが嬉しかった。サラや劇場の話をすると、アリスは目を輝かせた。「ええ⁈ ホワイトチャペルに泊まったの⁈ でも怖い人ばっかじゃないんだね」「すごい‼ ウェストエンドの劇場なんて夢みたい!」ふたりで手を繋いで、使用人ホールに戻った。



 昼食後は、いつものメイド服に着替えて、午後の仕事をした。黒いドレスに白いエプロン。襟元の詰まった制服が、鎖骨の赤い痕をひっそりと覆い隠していた。屋敷の滞在客はアンソニー一人となり、メイドたちの仕事には余裕があった。夕食を終えたあと、ミカはエプロンを外して、三階に上がった。


 公爵の居間には、すでに二人の青年も揃っていた。アリトとアンソニー。深紅の椅子に腰かけ、アリトは足を組んでいた。共布の紅い長椅子にはアンソニーが、上体を半分起こし、腕を組み、寝そべるように座っていた。公爵は書き物机の、黒い革椅子に腰かけていた。


 ミカが扉を開けると、三人の男の視線を一気に浴びた。暗紫色の絨毯に足先を沈ませ、ミカは暖炉の前、男たちの近くに進みでた。アンソニーは上体を起こし、アリトは足を組みかえた。


「話があるそうだね?」

 肘掛けに腕をのせ、ヘーゼルの目を上げ、公爵が口火を切った。

 ミカは首を縦にふった。

「言ってみなさい」


 公爵の目は鋭く、その感情は読み取れなかった。すみれ色の目は、愛おしそうにミカに注がれ…………金色の目は一見冷たく、しかし、その奥に潜む気遣いにミカは気づいた。


 暖炉では乾いた音を立て、火の粉が舞い散っている。

 古めかしい19世紀の象徴のようだった。


「あたしは……」

 喉がひきつれるようで、ミカは唾を飲みこんだ。

「あたしは……21世紀からやってきました。この時代より一世紀半ぐらいあとの未来から……タイムトラベルしてきたんです」


 三人の目が、ミカに集まった。

 ミカは昨夜の長い夢を、男たちに話して聞かせた。

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