3-4 貴族は少女の赤い花に溺れる(上)
夕食は七時に始まった。ミカは青紫のドレスを着て、淡水色の絹のショールを羽織った。アリトは黒い燕尾服に白いタイ、黒いズボンを身に着けている。ふたりは向かい合わせに座った。レストランはホテルの一階にあり、大きな窓から通りが見渡せた。
青いカーテンは裏地が金で、タッセルで両端にまとめられている。闇夜に白い雪が荒れ、通行人は少ない。ぼんやりと橙色のガス灯が、雪道に輪を落としていた。
吹雪から守られた室内は、人びとのざわめきで満ちている。シャンデリアの硬質な輝き、鏡面張りが連なる壁、白いテーブルクロスには銀の皿。
始まりは、透んだウミガメのスープ。終わりは、黒すぐりのシャーベット。
その間に交わされた会話の多くはミカからで、アリトは相槌だけだった。不機嫌というよりむしろ、心ここにあらず、といった様子だった。
「部屋に戻ったら、懐中時計の裏蓋、開けてみようと思うんだ」
「ああ……まだ開けてなかったのか」
「いやほら、開けたとたん、現代に帰りました! ってなったらどーしよって」
「ああ……」
「タイムトラベルも鍵巻いたらいきなりだったし。まあ……多分、大丈夫だと思うけど。嫌じゃん?」
「なにが」
「二度とアリトに会えないまま、さよならとかなったら」
「…………ああ」
ミカは無意識に金鎖に手をふれた。首元で弄ぶ指を、アリトがじっと眺めている。給仕がコーヒーを運んできた。アリトは赤ワインを口に含んだ。
「……おまえさ」
「うん?」
「…………」
「どうした?」
「……あいつとどうなりてーの?」
「は?」
「あいつの望みどおり、結婚してこっちに残るつもりなのか?」
「はっ⁈ まさか‼ ないない、そんなの絶対ないし‼」
「じゃ、それは? ……成り行き?」
金色の瞳は、首元をはなれない。視線に誘われるように、ミカは指先を鎖骨にすべらせた。肌は小さく窪み、わずかに表皮がめくれていた。
「これは……」
「邪魔した?」
「え?」
「もっと遅く戻ればよかったか?」
言葉の意味を理解して、ミカは大きく首を横にふった。
「や‼ なんていうか…………たぶんそういうんじゃないと思う……」
「そういうって?」
「恋愛とか……なんかそんなんじゃなくて……」
「そんなんじゃなくて?」
「…………ごめん。うまく言えない」
「…………あっそ」
透明なグラスの底に、薄っすらと赤い輪が残る。ミカもコーヒーを飲み干して、ふたりは席を立った。
◆
ふわりと石鹸の香りが空気に溶ける。濡れた髪の毛は、黒い鳥の羽のように艶めいていた。長椅子の端にミカが腰かけ、アリトは反対の端に腰を下ろした。ふたりの間には、ひと一人分の距離が残っていた。
ミカは隣をちらと見て、テーブルに手を伸ばした。大理石の天板に金鎖がこぼれ、硬い音を鳴らした。懐中時計を左手にもち、右手には小さな鍵をもつ。もう一度、アリトの横顔を見つめた。
「……開けるね」
「……ああ」
鋭利な横顔は、いつもと同じに見えた。鍵を持つ右手がかすかに震えた。ミカだって、このままタイムトラベルするとは思っていない。今夜は満月でもないし。だけど万が一、これでほんとにさよならだったら? そう思うと、のどの奥が詰まるようだった。
(……大丈夫。たぶん、大丈夫)
裏蓋を開け、鍵を差しこんだ。教えて貰わなければ気付かない、小さな鍵穴だった。カチ、と金属音が響いた。ミカはごくりと喉を鳴らした。
アリトが上体を寄せてきた。ミカの横から、懐中時計をのぞきこむ。裏蓋のなかは、アーサーの言葉どおり空洞になっていた。ミカの指先が、栗色の束にふれた。自分と同じ色の髪の毛だった。
「これ……」
「おまえ……」
アリトは裏蓋の一方の、写真を見つめていた。一組の若い男女の写真だった。日本の着物を着た女性と、西洋人の青年。青年の顔は、いつか北の間で見たトランクの写真や絵と同じだった。つまり、ミカとそっくりだった。
「マイケルと……誰だ?」
「…………お祖母ちゃんの、曾ばあちゃん」
「……なんて?」
「お祖母ちゃんが写真見せてくれたことある。でも違うよ……旦那さんは日本人だったし……こんな……なんで……」
「マイケルといるんだって?」
ミカは途方に暮れて、アリトにうなずいた。お母さんもお祖母ちゃんも、外国人が血縁にいるなんて一言も言わなかった。だけど……。
「……あたし。ほんとにマイケルと血が繋がってるのかも」
「ああ……だな」
金色の瞳が、じっとミカを見つめている。ミカが瞬きすると、ふっと視線が和らいだ。
「……残念だったな」
「え……」
「帰れなくて」
「あ……」
そうだ。結局、蓋を開けてもなにも変わらなかった。ミカはじっとアリトを見つめた。
帰りたいって。
思ってたはずなのに。
…………あたし。
帰れなくて、ほっとしてる?
視線を絡ませたまま、ふたりとも黙って互いに向き合った。
沈黙を破ったのは、アリトが先だった。ミカから目を逸らし、迷うように、何度か唇を開いては閉じた。
「…………おまえさ」
「うん?」
「……………………」
「どうした?」
「…………どうする?」
「え?」
「もし…………俺とセットじゃなきゃ帰れねーとしたら……どうする?」
「……え」
「あの満月の夜、帰れなかったのは俺が墓にいなかったからで。俺がマイケルの墓石に触れて、一緒にじゃなきゃ帰れないんだとしたら…………おまえ、どうする?」
息をつく間もないほどに、強く視線を注がれた。ミカは薄く唇を開いて、だけど声にはならなかった。アリトは目を逸らさない。
「……それって。え……一緒って。アリトも一緒じゃなきゃ、帰れないってこと?」
「ああ。もしそーだとしたら?」
「そんな……そんなの……アリ?」
「分かんねえ。あくまで仮定の話だ。でもあんとき、おまえが帰れなくて……ずっと考えてた」
「……そうなんだ」
「塾の帰り、墓参り行ったって言ったろ? あれ、マイケルの墓」
「え……」
「俺んち、代々あいつの墓参りしてんだ」
「なんで……」
「さあな。でも俺はマイケルの墓にいて、おまえと同時に、マイケルの墓にタイムトラベルした。だから……帰るときも、同じ条件じゃなきゃ帰れねーんじゃねえかって」
「それは……可能性……あるかも……」
「で。どうする?」
「え……」
「おまえは。帰るのか? それとも残る? 俺と……ずっとこの時代に」
胸の奥がざらりと冷えた。
そっか。
もしふたり一緒じゃないと、帰れないんだったら。
アリトが帰るか。
あたしが残る。
…………その二択しか、ないんだ。
アリトが眉を落として、薄く笑った。
「……まあ。もしあいつに惚れてて、結婚でもするっつーなら……言わなくてもいっかって思ったけど」
「……それはないよ」
「……帰りてーんだ?」
「……かえ……」
ミカは口を閉ざした。
あたしが帰るためには。
アリトが帰らなきゃならないとしたら?
ミカは金の瞳を見つめ返した。
何度も目を瞬かせて。
ついに目を閉じた。
……………………だって。アリトは。
「……………………かえらない」
「…………」
「…………もしそーなら。そんときは……のこる」
「……………………」
互いに見つめ合ったままで、身じろぎもしなかった。
気づけば、距離は縮まって、目の前にアリトの顔がある。
「…………なんで。帰りてーんだろ?」
「…………まあ、うん」
「あんだけ帰りてーって言ってたじゃんか」
「…………うん」
アリトは浅く唇を上げた。
「おまえ……なんでそんな自己犠牲? なんだ?」
「そんなことな……」
「同情? あいつにも? だからこれ許したのか?」
指先がつい、と鎖骨の痕をなでた。
冷やりとした感触に、ミカは背中を震わせた。
「…………」
「それとも、俺に惚れてんの?」
「…………」
アリトの手が頬にふれた。風呂上がりなのに、冷たい、冷たい手のひらだった。
「……泣くなよ」
「……泣いてないし」
「帰りてーんだろ? 帰りてえって言えよ」
「か……かえらないし」
「…………腹立つな」
どさ、と背中が天鵞絨に押しつけられた。
両腕にはさまれて、身動きできなかった。
親指の腹で、濡れた頬をぬぐわれる。
「言えよ。帰りてーって」
「かえらない」
アリトは顔を沈ませた。鼻先が擦れ合い、唇に息がかかった。
「言えよ」
「やだ」
「…………なんで」
「あたしは…………大丈夫だから」
「だからおまえのそーいう捨て身なとこほんと腹立つ」
「……ちがうし。捨て身とかじゃないし」
「じゃあなに」
もう距離はほとんどなかった。
「あたしは…………あっちでも、19世紀でも……生きてけるけど。アリトは……あっちじゃだめでしょう?」
「……なにそれ」
「現代に帰りたいのはほんとだけど……お母さんにも会いたいけど。でも……こっちにもアリスとかエロル夫人とかいるし……それに……アリトも……アンソニーも……いるし。メイド暮らしも悪くない……てほどじゃないけどさ。あたし勉強より身体動かすほうが好きだし」
「会いてえんだろ……母親」
「まあね……でも大丈夫。あたしが帰らなくても……たぶんお母さん、第二の人生楽しんでけると思うし。いつまでも落ちこむよーなひとじゃないし。美人だし、あたしがいなかったら、新しい旦那さんも見つかるかも」
へへ、と笑ったら、金の目が辛そうに細められた。
「アリトはさ。こっちにいたいじゃん。あっちに、思う人は誰もいないんでしょう? あたしはあっちにも、こっちにも、大事だなって思う人はいるし……だから、あたしは大丈夫。もしどっちか一つしか選べないんなら…………あたしが残るよ」
ミカが笑っても、アリトは笑わなかった。
もう涙は乾いていて、だけど指先は頬から離れなかった。
「じゃあなんで泣いた? 帰れねーから泣いたんじゃねえのか?」
「わかんない……なんか勝手に……」
「黙ってようかと思ってた」
「…………」
「このまま黙ってたら。おまえは何度満月を迎えても、あっちに帰れねえ…………だから……黙ってようかと思ってた」
息はほのかに甘く、ワインの残り香がした。
「……こんな狡いのに。残るなんて言うな。俺のことなんか考えんな。自分のことを大事にして、自分の望みを一番に考えろ」
「あたしの望みは…………アリトが幸せになることだよ」
アリトの顔がまた滲んでいく。
自分でも、なんで泣いているのかもう、ミカには分からなかった。
「おまえは」
「自己犠牲とかじゃないよ。捨て身でもないし。あたしはどっちの世界にいても、それなりに幸せだったもん。だから、次はアリトが幸せになる番だよ」
「……だから、屋敷を去った?」
「…………」
「あいつはサザランド夫人に証言を強要された、って……それしか言わなかったけど。あの人が関わってんなら……跡取りのことだろ。俺のことでなんか脅された?」
「…………べつに」
「おまえ嘘下手。いつも眉ぴくぴくしてる」
ぱっと顔にふれるミカに、忍び笑いがかかる。
「…………嘘。してねえし」
「…………っ‼」
両手で顔を覆うと、すぐに開かれた。
「なんで? なんでそんなしてくれんの?」
「……だって。あんたが……」
「……俺が?」
アリトの指先が、痕をくすぐった。背中が跳ねた。
「……………………大事だから」
濡れた眼で、目の前の男を見上げた。
ふわりと微笑を残して、
アリトの頭が沈みこんだ。
二、三分、もしくは五分ほどだった。
自分のものではないような声が漏れ、ミカは口元を手でふさいだ。
鎖骨に激しい痛みはなく、甘く疼くだけだった。
顔を上げ、上体を起こすと、アリトはぼそりと呟いた。
「散歩」
「……は?」
「散歩。してくる」
「……へ?」
ミカも半身を起こして、窓を見た。暗闇に白の嵐が舞い上がっている。
「なに言ってんの。無理でしょ」
「してくる」
長椅子を下り、アリトは黒いコートを手に持った。扉にむかう後ろ姿を、ミカは慌てて追いかけた。
「ちょ……ちょっと⁈ こんな嵐のなか……風邪ひくよ‼」
「ひかねえ」
ドアノブにふれた手に、ミカの手が重なった。
「いやほんとなに考えてんのあんた」
「…………あっちだったら」
「ん?」
「……あっちだったら……あのまま押し倒してやってんのに」
「んん⁈」
「19世紀なんて……妊娠したら洒落になんねえし……おまえが産みたくても堕ろしたくても……命がけだし……」
「はっ⁈」
「……どーせなら、ティッシュとかスマホじゃなくてゴム入れときゃよかった……」
「はあ⁈」
ミカは口をぱくぱく開き、言葉が出ずに、しばらく息を整えた。
「い……やそれ……てかそこにあたしの意思は……⁈」
アリトはふっと小首を傾げた。
「いや?」
「…………い」
「い?」
「…………い……い……いや……じゃない……けど」
「へえ」
一瞬、嬉しそうな顔が浮かび、すぐに唇を引きしめて、アリトは廊下のむこうに消えていった。
暖炉の上の鏡には、真っ赤になったミカの顔。それから、鎖骨の痕が、雪原に咲く赤い花のように映っていた。
15分後。
勢いよく、扉が開いた。
「さっっ……………………むっ‼」
黒い頭とコートを白く染め、アリトは暖炉の前に立った。
「……ねえアリト」
「ああ?」
「……ばかなの?」
「うるせ」
バスルームからタオルを持ってきて、ミカはがしがしと頭を拭いてやる。
冬の冷気が、暖炉の熱に散っていった。




