3-3 紳士は少女の赤い蕾を愛でる(下)
ふたりが宿泊中のホテルは、ロンドンに着いた朝、ミカが最初に見た建物だった。
ミカは四日ぶりにカツラを外して、髪を洗った。この時代に来てから、バスタブに浸かるのは初めてだった。全身が温かさに包まれて、ミカは心地よさに目を閉じた。着替えには、朝靄のような青紫のドレスが用意されていた。ストッキングにガーターベルトと、順に身に着けていった。
二階の部屋は、居間をはさんで、両側の扉から二つの寝室に繋がっている。居間に戻ると、青い天鵞絨の長椅子に、アンソニーが寝そべっていた。
「着替え、ありがとうございます」
「ああ。マーシャル&スネルグローブに用立てさせた。既製品だけど」
ミカは居間を見まわした。アンソニーが上体を起こした。
「アリーなら、駅だ。屋敷に電報を送ってる」
厚い絨毯の上を歩きまわり、ミカは窓辺で立ちどまった。降りしきる雪のなかを、黒のコートや毛皮のケープを着こみ、人びとが足早に通りすぎていく。まるで夕刻のような薄暗さだった。
「座りなよ」
長椅子の一方を視線で示され、ミカは腰を下ろした。身じろぎすれば、膝が擦れ合うような距離だった。
「ごめんなさい。突然いなくなって」
冷たい指先が、頬をなぞった。
「腫れ、ひいたね」
「うん、もう大丈夫」
「ごめんね」
あの襲われた夜以来、初めて彼と目が合った。澄んだすみれ色の双眸も、軽く上がった口角も、いつもと変わらずに、でもどこか違う空気をまとっていた。
「あいつはロンドン警視庁に引き渡したから」
「うん」
「サザランド夫人もジョージも、もう屋敷を去ったから」
「うん」
「帰っておいで」
「うん」
「僕はもう消えるから」
「……え」
アンソニーの手が、ミカの頬にあてられた。
冷やりとして、硬い、手のひらだった。
「好きだよ」
ミカは唇を閉ざし、彼を見つめた。
「好きなのに…………僕はきみを傷つけてばかりいる」
「そんなこと」
「僕の従者がきみを襲った。僕の愛人がそれを指示した。サザランド夫人はきみに証言を強要して……きみは屋敷から去った」
「でもそれはアンソニーのせいじゃ」
「僕のせいなんだ」
薄い金の眉が、苦痛にゆがんだ。
「遊びだと思ってたのは、僕だけだった。僕はあの人の気持ちを見誤った。僕の言動があの人を煽ったんだ……すまない。きみが襲われたのも、屋敷を去ったのも、全部僕のせいだ」
アンソニーは絨毯に膝をつき、ミカに頭を垂れた。
「すまなかった」
「そんなの……」
目の前の肩にふれると、アンソニーが顔を上げた。
「アリーがきみを連れて帰る。僕はこのまま消える。もう二度ときみにも屋敷にも近づかない。だから……安心してくれ」
「消えるって……」
「そんな顔しないで。オクスフォードに戻るだけだ」
「屋敷にはマイケルのお墓だって……」
「……いいんだ。僕はマイケルに嫌われてる」
苦笑いが浮かんだ顔を、ミカは困惑して見つめた。
「そんな……なんで……」
アンソニーは自嘲するように、唇をゆがめた。
「……マイケルは留学先で亡くなった。渡航の前日にケンカして……僕は見送りに行かずに、愛人のひとりと遊んでた。帰ってきたら謝ろうと思って……あいつは帰ってこなかった。遺体も彼の荷物も、海に沈んでしまった」
「でも……嫌われてなんて……」
「公爵には何度か手紙が届いたけど、僕には一通も届かなかった。僕も出さなかったし……あいつは僕に愛想が尽きたんだ」
「そんなことな……」
「いつかワガシを作ってくれたね。美味しかった。あいつも食べたんだろうか……なんて思ったら堪らなくなった」
「……留学先って」
「日本」
ミカの右手に、アンソニーの右手が重なった。
優しく掴まれ、彼の肩からはなされた。
「きみも……あいつも……僕はいつも大切なひとを大切にできずに、失ってしまう。後悔したくなくて……先手を打ったつもりがこのざまだ」
「……アンソニー」
「きみがアリーの傍にいたいなら、屋敷で過ごせばいい。独立を望むなら、いつでも力になる。屋敷を用意して、学びたければ家庭教師をつける。弁護士を介して、僕は一切きみとは会わない。資金が必要なときは、いつでも頼ってくれ」
「アンソニー」
すみれ色の目が、切なげに細められた。
「ごめん。きみには悪いけど……きみと出会えて、僕は幸せだった。束の間でも、ほんとうに嬉しかった。ありがとう、ミカ」
「ア……」
「さよなら」
立ち上がろうとする彼の、両肩を強く押さえつけた。
「なに」
「あなたじゃない」
「なにが……」
「傷つけたのは、あなたじゃない」
「僕のせいだ」
「あなたのせいじゃない」
「僕が……」
「襲ったのはラチェットだし。指示したのも、証言を強要したのもエリザベスだし。あなたじゃない」
アンソニーは口を噤み、ミカを見上げた。
「嬉しかったし」
「……え」
「舞踏会キラキラしててすごい楽しかったし。エリザベスから庇ってくれたのも。詩を教えてくれたのも。部屋で休ませてくれたのも。軟膏くれたのも。ラチェットから助けてくれたのも。全部、嬉しかった」
「でも……僕と出会わなかったら」
「出会わなかったら良かったとか思ってないし」
ミカはすみれ色の瞳をのぞきこんだ。
「マイケルは亡くなったけど……あたしはここにいるよ。失ってなんかないし、傷つけたりしてない。そんなふうに自分を虐めないで。もっと自分を大事にして」
美しい青紫の眼球に、ミカの姿が映りこんでいる。
その目が異様なほど輝いてみえた。
「……なんて?」
「自分を虐めないで。大事にして」
「なにそれ」
「お祖母ちゃんの口癖だったんだ。自虐的になっちゃダメだって。自分を大事にしなきゃ他人も大事にできないからって……はは、でもあたしも逃げちゃってるし。全然、ひとのこと言えないんだけど」
「マイケル」
「え?」
「それはマイケルの口癖だ」
「え……」
「マイケルとミシェル……彼の母親の」
「そう……なんだ……」
五本の指が、頬にふれた。愛おしそうに包みこまれる。
「きみは……ほんとうに……ミシェルの娘なのか?」
「まさか……違うよ」
「じゃあ……きみはだれ?」
「あたしは……あたしだよ」
親指がひらき、ミカの唇をなぞっていく。
ミカは、彫像のように、されるがままになっていた。
身じろぎすれば、彼の張りつめた糸が、ぷつん、と切れてしまいそうだった。
「……………………いい?」
請うような声が空気をふるわせた。
ミカは唾を飲みこんだ。
喉が渇いていたのだと、今さら気づいた。
「な……に」
「……………………いい? ミカ?」
突き刺すような、懇願するような、まなざしだった。
熱く潤んで輝きながら、
重く沈んで曇りそうで、
尋ねなければ、とミカは思った。
なにが、と。
尋ねなければと。
だけど尋ねても、
彼は答えてくれない気がした。
答えをくれずに、
そのまま消えてしまいそうな気がした。
この美しいすみれ色の瞳を、
失わせたくない、とミカは思った。
いつか、ミカが突然いなくなったとしても。
彼を拒絶するためではないのだと。
知っていてほしかった。
だから。
少女は答えた。
「……………………いいよ」
アンソニーは微笑した。微笑して、ミカに覆いかぶさった。
ミカの悲鳴が、部屋を貫いた。
◆
アンソニーは、自分の紅い唇をなめとった。
目の前の顔を、ミカは放心して見つめていた。
「た……食べられるかと……思った……」
「食べてもいいの?」
「だめです」
「ごめんね。吸うつもりが」
居間の向こうで扉が鳴った。アリトが帰ってきたようだった。
アンソニーは立ち上がり、ちらと扉のほうを見やった。
「もう行くよ」
「どこに……」
「父に用事を頼まれてるんだ。もう議会が始まってるから。メイフェアの自邸に泊まって、明日の列車で戻る」
「戻るって……屋敷に?」
「……いい? 戻っても」
「うん、消えないで。戻ってきて」
「ああ…………きみが望んでくれるなら」
硬い親指の先が、ミカの鎖骨にふれる。その肌の痛む部分を、アンソニーは愛でるように撫でた。美しいすみれ色の瞳で見つめられ、ミカは身じろぎ出来なかった。指先をはなし、愛しそうに目を細め、アンソニーは背中をむけた。
◆
ミカは暖炉に近づき、金縁の鏡に自分を映した。
アンソニーの噛み痕は赤く、くっきりと歯形が残っている。
まるで赤い蕾のようだった。
(……うわ。容赦ないな。痕残るかも)
足音が止み、振りむくとアリトが立っていた。口を閉ざし、じっとミカを眺めている。その視線は、ミカの右の鎖骨から動かなかった。
「……おかえり」
「ああ」
「雪の中、ありがとう」
「ああ」
黒いコートの雪片を払いのけ、アリトは長椅子に放った。丸テーブルに近づき、グラスに注いだブランデーをひと息で流しこんだ。
ミカは椅子の背からショールを取り、鎖骨を隠すように巻きつけた。
「あいつは?」
「お父さんの用事があるから、自分の家に泊まるって」
「……へえ」
「もう屋敷に帰る? 荷物まとめようか?」
「帰らねえ」
「え?」
「雪で列車が運休になった。帰らねえ……てか帰れねえ。今夜はここに泊まる」
「……泊まるって」
「……ああ。二人きりだな」
金色の瞳が、ミカを刺す。
ピンで留められた蝶が頭をよぎった。
窓の外は、白く、白く、吹き荒れて。
雪の中に閉じこめられているようだった。
ラチェットの手記を書きました。どなたか、彼の人生を読んでくださる読者様はいらっしゃるでしょうか…。
『ラチェットの手記 ‐19世紀・暴行罪の男の生涯‐』
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