表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/46

3-3 紳士は少女の赤い蕾を愛でる(上)

 ラドゲート・ヒルはセントポール大聖堂の西隣に位置している。近くには、新聞社と印刷所が集まるフリート街や、商業地の大通り・チープサイドがあり、一日中にぎわっている。


 ショーウインドーの窓から、ミカは通りを眺めていた。午後三時。街は灰色の霧に覆われている。どの建物にも煙突があり、煙がもくもくと空にのぼっている。冬は石炭を多く使うから、特に霧(ていうかもうスモッグだと思うけど。時計職人・アーサーに言ったら「なにソレ?」って返された)がひどいらしい。ここに来て、今日で二日目。時計工房は三階建てで、一階は店舗と事務所、二階と三階が工房と倉庫になっている。工房に隣接したテラスハウスが、アーサーの住居。ミカの仕事は、店舗と住居の掃除、洗濯、食事の支度、それに雑用がいろいろ。雑役メイドだから何でもする。昼食にカレーを作ったら、涙目で喜ばれてしまった。


「日曜なのにローストビーフじゃなくてすみません。あたしまだ焼き方分かんなくて」

「いやなにこれめちゃくちゃ美味いんだけど⁈」

「ウスターソースとかマッシュルームとかトマト缶とか、あるもの入れてみたんですけど」

「へえええええ。カレーっていうよりシチューみたいだねえ。美味いっ‼」


 この時代の英国のカレーは、ローストビーフの残り肉を使うことが多いみたい。玉ねぎと炒めてカレー粉と小麦粉を入れて、スープと塩を足して味つける。ライスと一緒に食べるけど、辛くて水分が少なくて、日本のカレーライスとは別物って感じ。パメラが作ってくれたのを食べたけど、さっぱりしてて美味しかった。だけど野菜たっぷりの日本のカレーも、アーサーは気に入ったみたい。二杯おかわりしてくれた。


 ショーウインドーでは、たくさんの時計が針を鳴らしている。金や銀の懐中時計。艶めいた木製の掛け時計。可愛いらしい陶器の置き時計。店内にも時計が並んでるけど、数はそんなに多くない。お店で見せているのは商品の一部だけ。いつもお客さんの要望に応じて、倉庫から出してくるんだって。


 テラスハウスに戻ろうと、ミカは店舗の奥に向かった。廊下をはさんで、右手が事務所、左手の扉が住居に繋がっている。店の入口からベルが聞こえた。お客さんが来たみたい。ミカは事務所をのぞいてみた。誰もいない。アーサーも他のスタッフも工房にいるのかも。ミカは踵をかえし、店舗にむかった。


 入口に、身なりのいい青年が立っている。黒い帽子とコートを身に着け、左手にステッキを持ち、いかにも上流階級らしい出で立ちだった。


「すみません。時計が壊れてしまって……」

 青年が顔を上げた。ミカはそろりと背中を向けた。

 が、遅かった。がっちりと肩をつかまれた。

「おっ……おまっ……なんで……こんなとこっ……⁈」

 ミカは目を瞑り、諦めて声の主に振りむいた。

「……ひさしぶり、アリト」


 アリトは口をパクパクさせて、長い息を吐き、そのまま床にへたりこんだ。



 ミカとアリトが再会する、一日前。


 パディントン駅に隣接するグレート・ウェスタン・ホテルに、ふたりの男が泊まっていた。建築家・ハードウィックがデザインしたホテルは、バスルームやトイレを備えた最新式だ。ブリストルの港で船を下りた米国人も、イングランドやウェールズに住む英国人も、ロンドンを来訪する上流階級は、この鉄道ホテルのよい顧客であった。


「……自分の寝室に戻らねーのか」


 アリトは声に呆れをにじませた。グラスを手に窓際に腰かけ、アンソニーは夜の通りを眺めている。

「いいじゃないか。一人でいたら気が滅入るんだ」

 アリトは答える代わりに、自分のグラスを空にした。


 ロンドンに着いたのは、昨日の夕方だった。ホテルに荷物を置いて、ふたりは夜の街を歩きまわった。アンソニーはハイドパークから、自邸のあるメイフェアを中心に。アリトはリージェンツパークとその周辺を。今日は一日中、グリーンパークやチェルシー、ウェストミンスター、ケンジントンやコヴェントガーデンに足を運んだ。収穫はなにもなかった。ジョンは使用人紹介所やホテルに電報を打ち、ホワイトリーは使用人に伝手をあたっているが、そちらの成果も芳しくはない。


 グラスを置いて、アリトは懐中時計を取りだした。


「どうしたんだ?」

「壊れた」

「なんでまた」

「娼婦が……」


 一時間前、リージェント通りを歩いていたら、貴婦人に声をかけられた。夜も遅くに供もなく、どうしたのかと話を聞いていたら、一緒に来てほしいと請われた。アリトがそれなら警察に、と口にするとたちまち怒り、暴れ出し、揉みあっている内に壊れてしまった。


「ははっ、あの辺りは高級娼婦が多いからね。貴婦人と間違えても仕方ない」

 アリトはむっつりと時計を見つめた。秒針が外れてしまっている。

「どこのメーカーだ?」

「B工房」

「ラドゲート・ヒルに工房がある。明日はシティ周辺を探すんだろう? 修理に出したらどうだ?」

「ああ。そうする」


 がしがしと頭をかいて、アリトはため息を吐いた。

 軽い笑い声が上がった。


「そっちが素なの?」

「は?」

「もっとすました奴だと思ってたけど。意外とくだけてるんだな。言葉遣いも」

「……別に」

「照れてるの? かわいいね」


 アリトは苦虫を噛み潰したような、心底嫌そうな顔をした。


「……おまえ、大丈夫か?」

「うん?」

「ずっと軽口ばっかだけど……別に無理して笑わなくていいし」

「……うん」


 ヘネシーの瓶をグラスに注いで、アンソニーは口づけた。深夜に通りの人影はまばらで、ガス灯の燈が陰を濃くしていた。窓に彼の顔が映っている。朝靄に似た青紫の双眸は、夜に沈んでいるように昏い。グラスを呷り、アンソニーはカーテンを閉ざした。



 ミカは手を差しだした。


「そんなとこ座ったらコート汚れるよ。朝、掃除はしたけど」

「……おまえ。なんでこんなとこいるんだ」

「……ここで働いてるんだ」


 アリトは目の前の手をつかみ、立ち上がった。

 そのまま手を離さない。


「アリト……?」

「帰るぞ」

「や、帰れないし」

「なに言ってんだ⁈ 帰る……」


 ふいにミカの両肩がつかまれ、ぐるん、と回転させられた。

 アリトは目を点にした。

 ミカを背後に庇い、アーサーが頭をかいている。


「いらっしゃいませ。ええと……うちのメイドに何か御用でしょうか?」

「ふざけんな。ミカは俺の……いや、うちのメイドだ」

「え? でも今はうちのメイドですけど?」


 不機嫌な目で、アリトがじっとミカを見ている。

 ミカはそろそろと近づき、彼の前に立った。


「あのね、アリト。事情があって……」

「サザランド夫人は屋敷から去った」

「……」

「もうおまえの証言は必要ない」

「そう……なんだ……」

「もうなにも心配しなくていい。だから帰ろう」


 白い手袋をはめた手が、目の前にある。

 ミカが微笑むと、アリトも笑った。


「ごめん。でも無理」

「はあ? なんで⁈」


 ミカはちらりとアーサーを見た。気遣うような目が向けられている。


「アーサーさんにお願いしてることがあるんだ。それに今はここのメイドだし……」

「……お願い?」

「あの懐中時計の鍵、もう一個あるんだって。裏蓋に仕掛けがあって、鍵があれば開けられるって……だから今、作ってもらってる」

「……へえ。どんぐらい掛かんの」

「明日の夜には出来ますよ」

「明日の正午だ」

「……徹夜すればなんとか」

「明日、正午に迎えにくる。それまでに仕上げておけ」

「アリト! でも仕事が……鍵の製作費だって……」

「そうですよ! やっと温かい食事にありつけたのに‼」

「知らん。ミカは公爵家のメイドだ。辞職の許可はしていない。おまえは使用人紹介所にでも登録しろ。製作費は俺が払う」


 アリトは冷たく言い放ち、懐から懐中時計を取りだした。


「ついでにこれも頼む。秒針が外れた」

「……明日の正午には間に合わないと思いますが」

「こっちは急ぎじゃない。あとで送って貰えればいい」


 相好を崩すと冷たい印象はなくなり、いつもの親しみやすさが露わになった。目をこするアーサーを気にも留めず、アリトはミカを見つめた。


「また明日な…………今度は逃げんなよ。頼むから」

「逃げないよ。約束する」


 笑顔を見せたら、アリトの腕が背中にふれた。

 冷えたコートから、羊毛と煙がまざった匂いがする。

 ミカはコートに鼻を押しつけた。

 一度だけ強く抱きしめて、アリトは腕をはなした。

 扉のベルを鳴らし、青年は通りに消えていった。



 壁掛け時計が、午前8時を報せている。夜半から降り始めた雪は、屋根と通りを白く覆い、まだ止む気配はない。ミカが朝食を並べていると、テーブルに小さな鍵が置かれた。


「できたよ」

「ありがとうございます! すみません。徹夜ですか?」

「はは、好きな仕事だから。これぐらい大丈夫。きみには長くいて欲しかったけど」

「すみません。たった二日で」

「いいよ。最初から、事情があるんだろなとは思ってたから。あの懐中時計を持ってるのに、メイドだなんて……まさか公爵家で働いてたとはねえ。クリブデン公爵家?」

「……はい」

「禁断の恋かあ」

「へっ?」

「貴族のご子息とメイドのままならぬ恋。いやあ、ロマンス雑誌にしか存在しないかと思ってたけど。現実にあるんだねえ! そんなこと」

「……いえ?」

「奥様に追い出されてロンドンに逃げたら、ご子息が追いかけてきた……うん、いい、いいね! あれ? でも公爵夫人はもう亡くなられて……それにマイケル様も……うん?  他にご子息なんていたっけ……」

「ほらアーサーさん! ごはん冷めちゃいますよ!」

「ああそうだ! ゆで卵なんて久しぶりだ!」


 アーサーはエッグカップを持ち上げ、スプーンで殻を叩いた。黄身をすくい、手を止めて、またミカを見上げた。


「そういやきみ……公爵夫人に似てるよね?」

「へっ⁈」

「髪が黒いから、ぱっと見じゃ分かんないけど。その時計で思い出したんだ。公爵夫人とは書面しか交わさなかったけど、新聞の写真や、王立芸術院の肖像画は見たことあったし。うん……やっぱり似てるよねえ」

「気のせいだと思いますけど」

「お会いしたことはある?」

「……ないです」

「優しい方だったよ。自分の死期が近いから、マイケル様になにか遺してあげたいと……裏蓋の細工をご依頼されて……なにを入れられたのかは知らないけど」

「一緒に見てみますか?」


 アーサーは首をふった。


「公爵夫人のプライベートだ。ぼくが見るべき物じゃない。きみがどんな関係なのか知らないけど……その懐中時計は今、きみの物なんだ。きみが確かめてみたらいい」


 トーストに黄身をのせ、ひと口かじり、アーサーは満足げにコーヒーを飲んだ。

 ミカは居間を出て、手のひらを見つめた。

 巻上げ用の鍵に似た、小さな金色の鍵だった。

 懐中時計の鎖につなぎ、またワンピースの首元に戻した。



 正午の鐘とともに、訪問者たちがやってきた。

 ぶつぶつとぼやくアーサーの前に、若い女性が進みでた。


「初めまして。ヴァイオレットと申します。よろしくお願いしますね」

 アーサーがぽかんと見上げていると、女性の隣にアンソニーが立った。

「アシュリー邸のハウスメイドだ。本来なら雑役メイドは業務外だが……一週間だけ派遣してやる。その間に新しいメイドを探しなさい」

「それはどうも……よろしく、ヴァイオレット」

 アーサーはぽっと頬を染めた。アンソニーが嫌そうな顔をする。

「いいか? 一週間だぞ。大事なうちのメイドなんだ。引き抜くなよ?」


 うっとりと彼女を見つめる彼には、聞こえていない様子だった。


「アーサーさん、短い間でしたけど、ありがとうございます。鍵もほんとに助かりました」

「ぼくも楽しかったよ。自分が作った物を大切に使ってもらえるのは、すごく嬉しいから……きみとも、あの時計ともまた会えてよかった。ありがとう、ミカ」


 アーサーはにっと笑って、三人に手を振った。

 アンソニーが先頭を歩き、ミカとアリトは並んで歩いた。

 通りの角に、馬車が停まっている。

 ホテルに着くまで、アンソニーは一度もミカを見なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ