3-3 紳士は少女の赤い蕾を愛でる(上)
ラドゲート・ヒルはセントポール大聖堂の西隣に位置している。近くには、新聞社と印刷所が集まるフリート街や、商業地の大通り・チープサイドがあり、一日中にぎわっている。
ショーウインドーの窓から、ミカは通りを眺めていた。午後三時。街は灰色の霧に覆われている。どの建物にも煙突があり、煙がもくもくと空にのぼっている。冬は石炭を多く使うから、特に霧(ていうかもうスモッグだと思うけど。時計職人・アーサーに言ったら「なにソレ?」って返された)がひどいらしい。ここに来て、今日で二日目。時計工房は三階建てで、一階は店舗と事務所、二階と三階が工房と倉庫になっている。工房に隣接したテラスハウスが、アーサーの住居。ミカの仕事は、店舗と住居の掃除、洗濯、食事の支度、それに雑用がいろいろ。雑役メイドだから何でもする。昼食にカレーを作ったら、涙目で喜ばれてしまった。
「日曜なのにローストビーフじゃなくてすみません。あたしまだ焼き方分かんなくて」
「いやなにこれめちゃくちゃ美味いんだけど⁈」
「ウスターソースとかマッシュルームとかトマト缶とか、あるもの入れてみたんですけど」
「へえええええ。カレーっていうよりシチューみたいだねえ。美味いっ‼」
この時代の英国のカレーは、ローストビーフの残り肉を使うことが多いみたい。玉ねぎと炒めてカレー粉と小麦粉を入れて、スープと塩を足して味つける。ライスと一緒に食べるけど、辛くて水分が少なくて、日本のカレーライスとは別物って感じ。パメラが作ってくれたのを食べたけど、さっぱりしてて美味しかった。だけど野菜たっぷりの日本のカレーも、アーサーは気に入ったみたい。二杯おかわりしてくれた。
ショーウインドーでは、たくさんの時計が針を鳴らしている。金や銀の懐中時計。艶めいた木製の掛け時計。可愛いらしい陶器の置き時計。店内にも時計が並んでるけど、数はそんなに多くない。お店で見せているのは商品の一部だけ。いつもお客さんの要望に応じて、倉庫から出してくるんだって。
テラスハウスに戻ろうと、ミカは店舗の奥に向かった。廊下をはさんで、右手が事務所、左手の扉が住居に繋がっている。店の入口からベルが聞こえた。お客さんが来たみたい。ミカは事務所をのぞいてみた。誰もいない。アーサーも他のスタッフも工房にいるのかも。ミカは踵をかえし、店舗にむかった。
入口に、身なりのいい青年が立っている。黒い帽子とコートを身に着け、左手にステッキを持ち、いかにも上流階級らしい出で立ちだった。
「すみません。時計が壊れてしまって……」
青年が顔を上げた。ミカはそろりと背中を向けた。
が、遅かった。がっちりと肩をつかまれた。
「おっ……おまっ……なんで……こんなとこっ……⁈」
ミカは目を瞑り、諦めて声の主に振りむいた。
「……ひさしぶり、アリト」
アリトは口をパクパクさせて、長い息を吐き、そのまま床にへたりこんだ。
◆
ミカとアリトが再会する、一日前。
パディントン駅に隣接するグレート・ウェスタン・ホテルに、ふたりの男が泊まっていた。建築家・ハードウィックがデザインしたホテルは、バスルームやトイレを備えた最新式だ。ブリストルの港で船を下りた米国人も、イングランドやウェールズに住む英国人も、ロンドンを来訪する上流階級は、この鉄道ホテルのよい顧客であった。
「……自分の寝室に戻らねーのか」
アリトは声に呆れをにじませた。グラスを手に窓際に腰かけ、アンソニーは夜の通りを眺めている。
「いいじゃないか。一人でいたら気が滅入るんだ」
アリトは答える代わりに、自分のグラスを空にした。
ロンドンに着いたのは、昨日の夕方だった。ホテルに荷物を置いて、ふたりは夜の街を歩きまわった。アンソニーはハイドパークから、自邸のあるメイフェアを中心に。アリトはリージェンツパークとその周辺を。今日は一日中、グリーンパークやチェルシー、ウェストミンスター、ケンジントンやコヴェントガーデンに足を運んだ。収穫はなにもなかった。ジョンは使用人紹介所やホテルに電報を打ち、ホワイトリーは使用人に伝手をあたっているが、そちらの成果も芳しくはない。
グラスを置いて、アリトは懐中時計を取りだした。
「どうしたんだ?」
「壊れた」
「なんでまた」
「娼婦が……」
一時間前、リージェント通りを歩いていたら、貴婦人に声をかけられた。夜も遅くに供もなく、どうしたのかと話を聞いていたら、一緒に来てほしいと請われた。アリトがそれなら警察に、と口にするとたちまち怒り、暴れ出し、揉みあっている内に壊れてしまった。
「ははっ、あの辺りは高級娼婦が多いからね。貴婦人と間違えても仕方ない」
アリトはむっつりと時計を見つめた。秒針が外れてしまっている。
「どこのメーカーだ?」
「B工房」
「ラドゲート・ヒルに工房がある。明日はシティ周辺を探すんだろう? 修理に出したらどうだ?」
「ああ。そうする」
がしがしと頭をかいて、アリトはため息を吐いた。
軽い笑い声が上がった。
「そっちが素なの?」
「は?」
「もっとすました奴だと思ってたけど。意外とくだけてるんだな。言葉遣いも」
「……別に」
「照れてるの? かわいいね」
アリトは苦虫を噛み潰したような、心底嫌そうな顔をした。
「……おまえ、大丈夫か?」
「うん?」
「ずっと軽口ばっかだけど……別に無理して笑わなくていいし」
「……うん」
ヘネシーの瓶をグラスに注いで、アンソニーは口づけた。深夜に通りの人影はまばらで、ガス灯の燈が陰を濃くしていた。窓に彼の顔が映っている。朝靄に似た青紫の双眸は、夜に沈んでいるように昏い。グラスを呷り、アンソニーはカーテンを閉ざした。
◆
ミカは手を差しだした。
「そんなとこ座ったらコート汚れるよ。朝、掃除はしたけど」
「……おまえ。なんでこんなとこいるんだ」
「……ここで働いてるんだ」
アリトは目の前の手をつかみ、立ち上がった。
そのまま手を離さない。
「アリト……?」
「帰るぞ」
「や、帰れないし」
「なに言ってんだ⁈ 帰る……」
ふいにミカの両肩がつかまれ、ぐるん、と回転させられた。
アリトは目を点にした。
ミカを背後に庇い、アーサーが頭をかいている。
「いらっしゃいませ。ええと……うちのメイドに何か御用でしょうか?」
「ふざけんな。ミカは俺の……いや、うちのメイドだ」
「え? でも今はうちのメイドですけど?」
不機嫌な目で、アリトがじっとミカを見ている。
ミカはそろそろと近づき、彼の前に立った。
「あのね、アリト。事情があって……」
「サザランド夫人は屋敷から去った」
「……」
「もうおまえの証言は必要ない」
「そう……なんだ……」
「もうなにも心配しなくていい。だから帰ろう」
白い手袋をはめた手が、目の前にある。
ミカが微笑むと、アリトも笑った。
「ごめん。でも無理」
「はあ? なんで⁈」
ミカはちらりとアーサーを見た。気遣うような目が向けられている。
「アーサーさんにお願いしてることがあるんだ。それに今はここのメイドだし……」
「……お願い?」
「あの懐中時計の鍵、もう一個あるんだって。裏蓋に仕掛けがあって、鍵があれば開けられるって……だから今、作ってもらってる」
「……へえ。どんぐらい掛かんの」
「明日の夜には出来ますよ」
「明日の正午だ」
「……徹夜すればなんとか」
「明日、正午に迎えにくる。それまでに仕上げておけ」
「アリト! でも仕事が……鍵の製作費だって……」
「そうですよ! やっと温かい食事にありつけたのに‼」
「知らん。ミカは公爵家のメイドだ。辞職の許可はしていない。おまえは使用人紹介所にでも登録しろ。製作費は俺が払う」
アリトは冷たく言い放ち、懐から懐中時計を取りだした。
「ついでにこれも頼む。秒針が外れた」
「……明日の正午には間に合わないと思いますが」
「こっちは急ぎじゃない。あとで送って貰えればいい」
相好を崩すと冷たい印象はなくなり、いつもの親しみやすさが露わになった。目をこするアーサーを気にも留めず、アリトはミカを見つめた。
「また明日な…………今度は逃げんなよ。頼むから」
「逃げないよ。約束する」
笑顔を見せたら、アリトの腕が背中にふれた。
冷えたコートから、羊毛と煙がまざった匂いがする。
ミカはコートに鼻を押しつけた。
一度だけ強く抱きしめて、アリトは腕をはなした。
扉のベルを鳴らし、青年は通りに消えていった。
◆
壁掛け時計が、午前8時を報せている。夜半から降り始めた雪は、屋根と通りを白く覆い、まだ止む気配はない。ミカが朝食を並べていると、テーブルに小さな鍵が置かれた。
「できたよ」
「ありがとうございます! すみません。徹夜ですか?」
「はは、好きな仕事だから。これぐらい大丈夫。きみには長くいて欲しかったけど」
「すみません。たった二日で」
「いいよ。最初から、事情があるんだろなとは思ってたから。あの懐中時計を持ってるのに、メイドだなんて……まさか公爵家で働いてたとはねえ。クリブデン公爵家?」
「……はい」
「禁断の恋かあ」
「へっ?」
「貴族のご子息とメイドのままならぬ恋。いやあ、ロマンス雑誌にしか存在しないかと思ってたけど。現実にあるんだねえ! そんなこと」
「……いえ?」
「奥様に追い出されてロンドンに逃げたら、ご子息が追いかけてきた……うん、いい、いいね! あれ? でも公爵夫人はもう亡くなられて……それにマイケル様も……うん? 他にご子息なんていたっけ……」
「ほらアーサーさん! ごはん冷めちゃいますよ!」
「ああそうだ! ゆで卵なんて久しぶりだ!」
アーサーはエッグカップを持ち上げ、スプーンで殻を叩いた。黄身をすくい、手を止めて、またミカを見上げた。
「そういやきみ……公爵夫人に似てるよね?」
「へっ⁈」
「髪が黒いから、ぱっと見じゃ分かんないけど。その時計で思い出したんだ。公爵夫人とは書面しか交わさなかったけど、新聞の写真や、王立芸術院の肖像画は見たことあったし。うん……やっぱり似てるよねえ」
「気のせいだと思いますけど」
「お会いしたことはある?」
「……ないです」
「優しい方だったよ。自分の死期が近いから、マイケル様になにか遺してあげたいと……裏蓋の細工をご依頼されて……なにを入れられたのかは知らないけど」
「一緒に見てみますか?」
アーサーは首をふった。
「公爵夫人のプライベートだ。ぼくが見るべき物じゃない。きみがどんな関係なのか知らないけど……その懐中時計は今、きみの物なんだ。きみが確かめてみたらいい」
トーストに黄身をのせ、ひと口かじり、アーサーは満足げにコーヒーを飲んだ。
ミカは居間を出て、手のひらを見つめた。
巻上げ用の鍵に似た、小さな金色の鍵だった。
懐中時計の鎖につなぎ、またワンピースの首元に戻した。
◆
正午の鐘とともに、訪問者たちがやってきた。
ぶつぶつとぼやくアーサーの前に、若い女性が進みでた。
「初めまして。ヴァイオレットと申します。よろしくお願いしますね」
アーサーがぽかんと見上げていると、女性の隣にアンソニーが立った。
「アシュリー邸のハウスメイドだ。本来なら雑役メイドは業務外だが……一週間だけ派遣してやる。その間に新しいメイドを探しなさい」
「それはどうも……よろしく、ヴァイオレット」
アーサーはぽっと頬を染めた。アンソニーが嫌そうな顔をする。
「いいか? 一週間だぞ。大事なうちのメイドなんだ。引き抜くなよ?」
うっとりと彼女を見つめる彼には、聞こえていない様子だった。
「アーサーさん、短い間でしたけど、ありがとうございます。鍵もほんとに助かりました」
「ぼくも楽しかったよ。自分が作った物を大切に使ってもらえるのは、すごく嬉しいから……きみとも、あの時計ともまた会えてよかった。ありがとう、ミカ」
アーサーはにっと笑って、三人に手を振った。
アンソニーが先頭を歩き、ミカとアリトは並んで歩いた。
通りの角に、馬車が停まっている。
ホテルに着くまで、アンソニーは一度もミカを見なかった。




