3-2 はなればなれに(下)
馬が草地を駆けていく。
乾いた蹄の音が、草を踏みしだいた。
金髪が風になびき、馬の白いたてがみが揺れる。
広大な緑のなかを、青年と馬は、どこまでも駆けまわった。
手綱をひき、滑るように馬から下りて、
アンソニーは草むらに倒れこんだ。
遠くで蹄が鳴り、やがて彼のそばに陰ができた。
男が彼をのぞきこむ。
「なにをしている」
「…………自己嫌悪で死にたくなってる」
唾棄するような声が吐きだされた。
「死ぬのか?」
「…………死なない」
アリトは彼の隣に腰を下ろした。
くだけた様子で、脚のあいだで指を組んだ。
風が吹きぬけていく。
アンソニーは顔から腕をのけ、ちらりと横目をむけた。
「きみはいいな」
「……は?」
「いつもすまして。間違ったことなんて、一つもなさそうだ」
「なにか間違ったのか?」
「……僕が見誤ったせいで、ふたりの女性を傷つけた。最低だ……」
彼の目に、空が映りこむ。
白い刷毛を滑らせたような、薄い雲が広がっていた。
アリトは左足をのばし、乗馬靴の紐をほどいていった。アンソニーが怪訝な顔で、その動作を眺めている。アリトは靴下を脱いだ。アンソニーが顔をしかめた。
「生まれつきか?」
「自分でやった」
足の甲には、薄紫のあざが広がっていた。
「……なんで」
アリトは羞じらうように目を伏せた。
「ガキんとき……気づいたら家を飛び出して、知らない町を走りまわってた。河原に行って、拾った石で何度も叩きつけて。通行人が止めてくれて、警察に連れてってくれた。保護されて病院に行って……骨にひびが入ってた。ぜんぶ覚えてんだけど……自分の記憶って気がしねえ。なんか……映画とか見てるよーな気分で」
「映画?」
「あ……や、なんでもねえ。忘れてくれ」
「……なんでそんなこと」
「俺も見誤った。俺も……ふたりの人間を傷つけたから」
吸い寄せられるように、アンソニーはあざを見つめた。
「それで? どうした?」
「どうもしない。いまでも後悔してる」
「それは……辛いな」
「おまえもだろ?」
唇の端を軽く上げ、アリトは靴紐を結びなおした。
アンソニーは上体を起こし、胸元から煙草を取りだした。
「いる?」
「いらねえ」
煙が立ちのぼり、白い雲に溶けていった。
「なんで跡継ぎになりたい? きみは……地位や財産に目が眩むような奴には見えない」
「ああ。金も名誉もどうでもいい。ただ……父の家族になりたいだけだ」
「きみのほうが本当の息子みたいだな」
「え……」
「なんて……はは、マイケルに怒られそうだけど。彼は公爵と折り合いが悪くて……ずっとギクシャクしてたから」
「なんでだ?」
「どっちが悪いってわけじゃないんだ。彼は学術を好んでおっとりしていて……公爵は物怖じしない奴のほうが好きで……きみみたいな。互いに嫌ってるわけじゃなくて。だけど居心地悪そうにしてた。特にミシェル……彼の母親が亡くなってからは」
「折り合いが悪かったから……屋敷にマイケルの物が残ってないのか?」
「違うよ。きみのためだろう?」
金の瞳が丸くなり、すみれ色の瞳と交差した。
「きみが彼に遠慮しなくていいように……屋敷からマイケルの痕跡を消したんだろ。マイケルを知ってる屋内使用人は全員入れ替えて、訪問者も極力減らして……きみが彼と比べられたり、心無いことを言われたりしないように。そうして一年かけて、きみを迎える体制を整えていったんだ。あの人は」
「俺のため……」
こぼれた言葉は、風に攫われていった。
アリトはぷいと横を向いた。泣きそうな顔を隠すかのように。
気づかない素振りで、アンソニーは空を見上げた。
煙草をもみ消して、立ち上がる。
「……探しに行かなきゃ」
「探しに?」
「ああ。きみは平然としてるんだな。執着してるのかと思ったけど……違った?」
「なんの話だ?」
「ミカに夜食を運ばせてただろう?」
「……ミカがどうした?」
「聞いてないのか?」
「なにが?」
「いなくなった」
「…………なに?」
「部屋に制服とメモが残されてたって。Thank you. Good bye. それだけが書かれてた。昼にこっちに戻ったら、エロル夫人が教えてくれた」
アリトが勢いよく立ち上がった。
「行き先は⁈ まだ見つかってねーのか⁈」
「分からない。今からジョンに尋ねに行く。きみも一緒に…………おい、アリー⁈」
背後では、白い馬と黒い馬が、草を食んでいる。
アリトは馬に飛び乗ると、手綱を操り、葉群れのなかに消えていった。
「せっかちな奴だな……置いてくなよ……」
アンソニーは口を尖らせて、白い馬に飛び乗った。
◆
両手を背後で組んで、公爵は窓を眺めていた。
細い桟が連なるガラスは、薄曇りの空を映している。
公爵の息がガラスを濁らせた。
「……ミカがどこに行ったか?」
「はい。ジョンに尋ねても答えてくれませんでした。教えてください」
窓からはなれ、公爵は後ろを振りむいた。
「おまえがそれを聞いてどうする? ジョンとホワイトリーが探している。おまえは気にしなくていい」
「教えてください」
公爵の滑らかな額に、深いしわが刻まれた。
「それを聞いて、どうするんだ」
「探しに行きます」
「……おまえが?」
暖炉の前で、ふたりの男が向き合った。
マイケルと違い、アリトの背丈は公爵に並ぶほどの高さがあった。
ふたりの視線は、今、同じ位置にある。
「このあと、伯爵夫人が訪ねてくる。顔を合わせておけばいい。お茶をご一緒しなさい」
「父上」
「……ミカの行方は、見当がついている」
「どこですか⁈」
「……彼女をここに寄越した主だ。今頃は、主の屋敷に帰っているだろう」
「……なんの話です?」
公爵は口ひげを撫でつけ、息を吐いた。
「彼女はおそらく……私の義兄……妻の兄が寄越したんだ。おまえを跡取りにしようとする、私の行動をよく思わずに……警告の意味でな。おまえが彼女と親しくするのは、どうかと思っていたが……彼女が情にほだされて、屋敷を去る気になったのなら……結果としては良かった」
「違います」
「なに?」
「ミカは違う……そんなんじゃない……とにかく行方を教えてください!」
「まさか……彼女に惚れているのか?」
静寂のなかで、炎の爆ぜる音が響いている。
「公爵家の跡取りがメイドに惚れているなどと。言わないだろうね? アリー」
アリトはまぶたを伏せた。葡萄色の絨毯が、足元に広がっている。
「ミカは……」
「ミカは?」
「ミカは……大事なひとです」
「アリー」
「結ばれるとは思っていません。なにも……望んでいません。ただ大事なんです」
「…………」
「俺が探しに行かなければなりません。俺だけが……この時代に取り残された不安を知ってるんです……俺が探さないと」
「……時代?」
「……場所の間違いです」
公爵はアリーを眺め、観念するように首をふった。
「……ロンドン行きの始発に乗ったと。駅員が覚えていた」
「ありがとうございます!」
踵をかえすアリトに、低い声が投げられた。
「結婚するなんて、言うなよ?」
アリトは振りかえり、淋しそうに笑った。
「絶対に言いません。あいつは…………帰るんで」
扉が閉められた。
公爵は、また窓辺に歩いていった。
「まったく……皆いなくなるとは。アンソニーは当てにならんし……あの堅苦しい伯爵夫人の相手を……私ひとりでするのか……」
顔をしかめ、公爵は重いため息を吐いた。




