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1-2 ミカ、奪われる(上)

 どっしりとした天板の机のむこうで、執事が押し黙っている。

 机をはさんで、エロル夫人が立っていた。


「ミカは悪くないんです! 教え忘れた私のせいですわ!」

「……エロル夫人」


 執事が低くつぶやいた。


「お胸が……ごほ、いえ、お身体が近すぎます」

 彼の顔の正面に、夫人のふくよかなお胸……いや、ドレスがあった。あら失礼、と夫人は机についた手をはなす。執事は何度か咳払いした。

「知らなかったものは仕方ありません。ミカ、メイドはご家族の目に触れてはいけない。先刻のように屋敷内でご家族や客人を見かけたら、視線を下げて黙っていなさい。そこに存在しないかのように振る舞うんだ。わかったね?」

 ミカがうなずくと、執事は夫人を執務室から下がらせた。

「ああ、エロル夫人。午後にはサザランド夫人と、ご子息のジョージ様が到着されます。準備はできていますね」

「ええ、ミスター・ホワイトリー。赤の間と緑の間をご用意しておりますわ」


 執事は満足そうに微笑んで、夫人は扉を閉めた。


「で、なにその髪?」

 がらりと声の調子が変わり、執事は椅子にもたれた。

 さてはこっちが素だな。

「猫かぶり執事……」

「あん? なんだって?」

「なんでもないですー」


 ミカはぐるりと目をまわしてみせた。


「で? なんで短い黒髪が、一日たったら長い栗色になるの」

「ほら髪の毛洗えないじゃないですか。かゆいし、蒸れるし。不衛生なのよくないですよね、あたしメイドだし」

「いやちょっと意味わかんない」

「かつらを外しました」

「かつら……ってなんで」

「さあ? なにしろ記憶喪失なもんで」

「じゃあ目は? なんで黒から青になるんだ」

「え? もとから青でしたけど。見間違いじゃないですか? それか光の加減とか」

「あーいえばこーいう……」


 両腕を組んで、執事は口をへの字に曲げた。

 ミカは心のなかで謝った。

 うさんくさいですよね。

 ごめん。

 許して。

 じっと執事のメガネを見つめていると、ふいに顔が横をむいた。


「……最初からその姿なら、メイドになんかしなかったのに」

「えっ?」

「もういい。仕事に戻りなさい」


 ミカがそのまま突っ立ってると、執事の額にしわができた。


「なんだよ?」

「あのー、お願いがありまして」

「……なに」


 額のしわが深くなる。

 そんな露骨に警戒しなくても。

 ただの女子高生ですよ。


「毎朝、コップにお湯を一杯もらいたいんです」

「お湯? なんでまた」

「アリスが朝起きるの苦手みたいで。温かいもの飲んだら、目覚めやすくなるかなーって。ほんとはカフェオレとかミルクティーとか作ってあげたいけど、勝手にキッチンは使えませんよね? だからお白湯ならいっかなって」


 執事が息をはいた。


「なんだ……そんなこと。別にいいけど」

 よかった、と笑うミカを、分厚いレンズが見上げる。

「朝弱いって知ってて雇ったのおれだし。クビにしたらおれの責任問題だからな。でもきみには関係なくない? なんでわざわざ、そんなことしてやるんだ?」

 ミカはきょとん、と小首を傾げた。

「なんでって……理由はないです。そうしたらいっかなーって思っただけで」

 じっと見つめられて、居心地が悪くもぞもぞしてしまう。

「きみは…………お節介だな」

「ええ? ふつーですよ」


 執事は追い払うように手をふった。


「キッチンは朝5時半から働いてるから。おれが許可したって言っとけ」

 頭を下げたら、無言で扉を指さされた。

 はい、働きますよ。

 メイドだもんね。

 ドアノブを握って扉を開き、廊下に足を踏みだした。

 振り返ったら、執事はまだ顔を上げていた。

「でも……郷に入ればなんとやらって言うし、したがいますけど……変なハナシですね。存在しないかのようにって。そりゃ雇用主と雇用人ではあるけど……同じ人間なのに」


 廊下のむこうにミカの姿が消えた。

 机にメガネを置いて、ホワイトリーは目をこする。

 鉱石のような双眸がにじみ、

 再びレンズのなかに隠された。

 椅子から立ち上がり、彼は棚の鍵を開けた。

 ワインを注ぎ、杯をあおいだ。



 キッチンは屋敷の西側、別棟にある。使用人ホール横の階段を下りて、地下道を通ってまた階段を上がった。扉を開けたとたん、むわっとした熱気と、肉汁と香辛料と野菜の甘い匂いが押し寄せてくる。昼食の準備中みたい。大きな黒いレンジの前で、コックのパウエル夫人が腕まくりして立っていた。


「お湯がほしいって⁈ 朝はパメラが火を起こすから、あの子に言いな‼」


 高い天井に怒鳴り声が響きわたる。

 ミカは耳を押さえて、にっと笑った。

 目の前で汗を浮かべて、夫人は豪快に笑っていた。


(声でっかいなあ! でもいい人だ)


 キッチンメイドのパメラは、調理台の脇でジャガイモをむいていた。部屋の真ん中を占める台には、器具とお皿と食材が並んで、ジャガイモはひと際高く積まれていた。見事な包丁さばきで、するすると皮が台に落ちていく。


「ずいぶん甘やかすんだね」

 パメラはジャガイモを見つめたまま、口を動かした。

「いや低血圧とか貧血とかさ、朝が苦手な子って多くない? ほんとは甘い物とかあげたいけど、血糖値が上がりすぎるのもよくないし。お白湯と、あとついでに蜂蜜とかちょっとほしいなーって。あ、やっぱ蜂蜜はダメ? 贅沢品?」

 えへへ、と笑ったら、呆れたように首をふられた。

「あんたの言ってること、よく分かんない……起きれないのは、あの子の責任じゃないか。クビになってもいいだろ、帰る家があるんだから。帰るあてがなけりゃ徹夜してでも起きてるよ。甘えてるだけだ」


 パメラは顔をそむけ、包丁に目を落とした。

 うーん。困ったな。お湯、ほしい。


「ミスター・ホワイトリーの許可は貰ってるんだけどな。クビになったら、自分の責任になるからって」

 パメラははっと顔を上げた。

「そっか……そっか、ミスター・ホワイトリーの責任に……それはだめだ。わかった。許可があるなら、わたしが口出しすることじゃない。朝、取りにきたらいい」


 パメラに笑ってお礼を言ったら、ぷいとそっぽを向かれた。


「アリスは……わたしと違って愛嬌があるから。助けがいがあるだろ」

「パメラだって同じだよ? 早起きは得意そーだけど……苦手なことってみんな違うもんね。困ってたら全然、助けるし」

「助けなんていらないから、さっさと記憶取り戻せば?」

 そりゃそーだ、とミカは苦笑いした。

 パメラは手を止め、むっつりとミカを眺めていた。



 その夜、部屋に戻って、アリスに話したら涙目で抱きつかれた。


「ありがとう~~ミカ‼ もうわたしお屋敷勤めは無理かなあって思ってたの。徹夜したらお昼に立ったまま白目むいちゃうし、座って寝てもいつのまにか布団のなかにいるし、洗面器に水を這って朝、顔を突っこんだら二度寝して、顔面がパリパリに凍ってたし……あれは痛すぎて死ぬかと思ったなあ」


 遠い目をするアリスを、ぎゅっと抱きしめた。

 パメラ、聞いてよー‼ 甘えてないよ、がんばってるよーー‼

 心のなかで叫びながら、アリスの柔らかな金髪をなでた。


「家ではどうやって起きてたの?」

「チビたちが……あ、わたしこれでも長女でね、順番にベッドに乗ってくるの。最後にはベッドから落とされて、それでやっと目が覚めるんだ」

「……うん、そっか」

 そりゃ声かけたぐらいじゃ起きないね。

「食費も浮くし仕送りもできると思ってこの仕事を選んだけど……心が折れそうになってたんだあ……ありがと、ミカ。うれしい」

 腰にしがみついたまま、アリスは顔中に笑みをひろげた。


(うわあ最高にかわいい生き物が目の前にいる……‼)


「アリスみたいな妹がいたら絶対かわいがっちゃう。そんでお姉ちゃんうざ、とか言われそう」

「うざ?」

「へへ、なんでもないー」


 目があって、二人で声をあげて笑った。


「ミカの髪、とってもきれい。磨き上げた家具の色みたい。昨日までの黒髪も、アリー様みたいで素敵だったけど」

「あーあいつ……」

 ミカは顔をしかめた。

「冷たいよね。お貴族様っていうか」

「え? アリー様は優しいよ」

「うっそ! あいつひどくない?」

「まさかあ。わたしが落ちこんでたら、馬から降りて声をかけて下さったのよ。具合が悪いのかって。朝が苦手ってお話したら、夜は眠れているのかってご心配されて。ぐっすりですってお答えしたら、よかったって、笑って下さったんだから」


 えーっと。


「誰の話をしてるのかな?」

「アリー様?」

「実は双子?」

「ふふっ、まさかあ」

「なんだっけあれ……そうだ、ジキルとハイド?」

「じきるとはいど?」

「んーーと、二重人格者?」

「ってなに?」

「ひとりの人間のなかに何人か違う人間がいる、みたいな」

「ううん、アリー様はいつも優しいよ。ミカはいろいろ知ってるね。記憶が戻ってきた?」

「あー、いやなんか断片的に思い出すだけ……はは」

 あぶないあぶない。

「そっかあ。早く思い出せたらいいね。お父さんもお母さんも、心配してるだろうし」

「あたしお父さんいないんだ」


 翡翠色の目が丸くなる。

 あ、しまった。また余計なこと言っちゃったかな。


「そっかあ……じゃあ、早くお母さんに会いたいね」

 アリスは、それ以上なにも言わなかった。

 ただ優しく笑ってくれた。

 なにも詮索しない気遣いが嬉しくて、ミカはもう一度アリスを抱きしめた。



『ミスター・アンソニー・アシュリー。貴殿を当家に招待したい。当家にはただいま、ミセス・サザランドと、夫人のご子息で貴殿の級友・ミスター・サザランドが逗留中。みな貴殿を歓迎されたし。ただし屋敷に入るにあたり、以前に伝えた条件をお忘れなきように。ウィリアム・サザランド』


『アンソニー、助けてくれ! もうボクの神経は限界だ(まだここに来て半日しか経っていないけど)。ここはさながら、オトラント城のようだ。きみは公爵とも母とも親しいだろう? お茶の時間に、それとなくきみの名前を挙げてみたんだ。公爵はきみを招待すると了承してくれた。頼む! いますぐバッキンガムシャーに来てくれないか。ジョージ・サザランド』


『愛しいアンソニー。クリブデン公爵があなたをこの屋敷に招待されるそうよ。そう、わたくしは今、彼の屋敷にいるの。明日にはあなたに会えるかしら。今夜でも構わなくてよ。わたくしは、南側の赤の間にいるわ。窓にランプが灯っていてよ。エリザベス・サザランド』


 アンソニーは手にした電報を机に置いた。マホガニーの机は学生には高級品だが、このオクスフォードの学寮では、どの部屋も似たような調度品であふれている。机の上には、塔のように積まれた本、レポートの束、インク壺、トレーに入った手紙、あとはよく分からない雑多な物が散らばっていた。本のなかから詩集を抜き取り、インク壺の後ろに転がった煙草をつかんで、アンソニーはフロック・コートを羽織った。野放図に見えても、机の主は、どこになにがあるのか把握しているらしい。手紙を取り上げ、その下敷きになっていたチョコレートを半分に割り、暖炉のそばに放り投げた。


 椅子に腰かけた青年が、チョコを受けとめ、ひと口かじる。手元の本から目を上げて、白金色の髪をゆらした。


「急用か? こんな夜に」

「ああ、呼び出しだ」


 郵便局で電報を打ち、口笛を二回吹いて、辻馬車に乗りこんだ。

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