3-2 はなればなれに(上)
ミカが屋敷をはなれた午後のことだった。
朝食室の扉が、音を立てて開かれた。公爵、アリト、ジョージ、サザランド夫人が、一斉に顔をむけた。不作法な音の主は、部屋の一点だけを見つめていた。澄んだ茶色の瞳が、彼を見つめ返した。
サザランド夫人は目元を和らげた。
「あら、ミスター・アシュリー。ロンドンから戻られたのね。一緒に昼食を……」
「話があります。サザランド夫人」
「それなら昼食が終わっ……」
「今すぐに」
視線を交わすふたりを、舞台の上の役者のように、他の三人が眺めていた。サザランド夫人は優雅な所作で、ナイフとフォークを置いた。
「……皆さま。失礼いたしますわね」
アンソニーはすでに背をむけ、二ヤードほど先を歩いている。宮殿に赴くデビュタントのように、夫人は静かにあとを追った。幕は下ろされ、役者たちは扉のむこうに消えた。
◆
赤の間の扉が開き、ふたつの影が横ぎると、また扉が閉まった。
サザランド夫人はベッドの端に腰かけた。幾度もの夜、ふたりの肌にそよいだ羽毛布団が、赤い花畑のように咲いている。夫人の両手が、小花を握りつぶした。
「どうしたの? 食事を中断させるだなんて。あなたらしくない不作法だこと」
「あなたがけしかけた?」
「いやね、ずいぶん怖い顔をして」
「とぼけないで! あなたがラチェットをけしかけたのか⁈」
花畑に佇む夫人を、陰がおおった。彼女の目の前で、荒い息が吐きだされる。夫人は紅い唇に笑みをたたえた。
「そうよ」
可憐な花の群れに、不似合いな獣じみた声が漏れた。アンソニーは彼女を睨みつけた。
「なんでっ……」
美しい唇の弧が、自嘲するように歪む。
「…………なんでと。坊や。あなたがそれを聞くのね」
「なにを言って……」
「ラチェットは? どうしたの?」
「ロンドン警視庁に連れていった」
「そう。あの人、わたくしの名前を出したのね」
「ああ。あなたが助けてくれるはずだと」
「……愚かね」
夫人は柔らかな吐息をもらし、アンソニーの前髪をゆらした。
「ミカが消えたのも、あなたが仕組んだのか?」
「消えた? 確かに今朝は、別のメイドがお茶を運んできたけど……ミカは具合が悪いって……そう。あの子、消えたの」
わずかに眉をひそめ、夫人の白い指先が唇にそえられた。しかしすぐに、完璧な笑みを愛人に見せつけた。
「仕組んだなんて人聞きが悪いわ。わたくしはただ、お願いしただけよ。伯爵夫人にお話なさいって」
「なにを⁈」
「あの子の両親は、ミシェルと彼女の実兄だと」
「そんなわけないだろうっ‼」
硬い指先が、夫人の薄い肩に食いこんだ。揺さぶられながら、夫人は微笑をたたえていた。
「あなたはほんとうに、ミシェルが好きなのね」
「そんなの、今はどうでも……」
「わたくしは大嫌い」
アンソニーの手が止まる。年上の愛人は、微笑みを崩さない。
「ミシェルも、彼女にそっくりなあの子も。それでもあの子は、わたくしの役に立ってくれるかと思ったのに……消えるなんて、ばかな子ね」
「あなたのせいだろう」
「…………そうね。わたくしのせい。もっと策を講じればよかったわ。ラチェットと結婚していれば、すべてが上手くいったのに」
「あの子の意思を無視するな」
「意思? 意思なんて必要ないでしょう? いつかは結婚して、主人の物になるんだから。彼はホテル経営をするつもりだったの。メイドが経営者の妻になれたのよ。願ってもない結婚じゃない」
「あいつは……無理やりミカを襲って……」
「襲われたの?」
「途中で……僕が止めた……」
「間に合ったの?」
「……ああ」
夫人の眉尻が下がり、かすかに安堵の表情がうかんだ。しかし、それは一瞬のことで、すぐに挑発の笑みに変わった。
「余計なことをしたわね、アンソニー」
「黙れ」
「朝になれば、すべて事が終わっていたのに」
「エリザベス、黙れ」
「残念だわ。未遂で済んだなんて」
「黙れっ‼」
夫人のあえぎ声が漏れた。
華奢な白い首に、男の指が十本、絡みついている。
赤い花が散るベッドの上に、夫人の背中が押しつけられた。
アンソニーの瞳に獰猛な炎が燃えている。
「……なんてことを……あなたはっ……」
夫人は艶然と笑った。美しい笑みだった。首を締めつける愛人の指が、まるで愛撫であるかのように。
「アンソニー、わたくしが憎い?」
「憎い」
「なら、殺しておしまいなさい」
すみれ色の瞳が、両腕のなかの夫人を刺した。
「……煽るな。本気なんだ。あなたが憎い。憎くてたまらない」
「殺しなさい」
夫人のたおやかな指が、男の指に重ねられた。彼を手助けするように、夫人は自らの指を立てた。
「ふざけるな。本気で……殺したくなる」
「殺しなさいよ」
「エリザベス‼ いいかげんにっ……」
「愛しているわ」
とっておきの秘密を打ち明ける、少女のような笑みだった。
「わたくしの骨が砕ける音を、その感触を、わたくしが最期に漏らした声を、アンソニー、あなたは一生覚えているでしょう? その手でわたくしを殺めれば、あなたは絶対にわたくしを忘れられないわ。だから、よくてよ。あなたに殺されるのなら……悪くはない人生だわ」
「…………なにを……ばかなことを……」
アンソニーの声が震え、その指先がゆるんだ。サザランド夫人は、彼の指を首に押しもどした。
「アンソニー。あなたを愛しているの」
「…………だって……ただの遊びだと……あなたはいつもそう言って……」
「本気だと言えば、どうしたの? わたくしの愛が重荷になって、あなたは逃げてしまったでしょう?」
「……………………」
「あなたが誰と結婚しても構わないと思っていたわ。でもあの子だけは……ミカだけは。絶対に、いや」
「…………ミシェルと似てるから?」
夫人が笑みを深くした。苦悶にも見える表情だった。
「死んでしまった女を……あなたがいくら懐かしもうと構わなかったわ。だってもういないんですもの。でもあの子は……よりによってあの子と結婚しようだなんて……」
「どうしてミシェルを……あなたとは接点がなかっただろう」
「ええ、わたくしも主人も、この屋敷に出入りさせて貰えなかったもの。でもミシェルからはときどき手紙を貰ったわ。親切で、気遣いに溢れていて、とても温かな文面だったわ」
「だったら……なんでそんなに嫌って……」
「同じ公爵家の妻として、親しくなりましょうと書かれていたわ。手紙の端々から幸せが伝わってきて……公爵のこと、息子のこと……病で臥せっていても彼女は幸せだったと思うわ。愛されて、慈しまれていたんですもの。亡くなった今だって……こうしてあなたに愛されて」
「それは……」
「わたくしが主人にどんな扱いを受けていたか、誰が知っていたかしら。宝石のように大切にされる彼女と、物のように扱われるわたくしと……同じ公爵家の妻だとは、とても思えなかった」
「……エリザベス」
「主人が放蕩者で、公爵家から絶縁されていたなんて知らなかった。わたくしは若くて、愚かだったわ。公爵家の三男に言い寄られたと浮かれて……ミカのように助けられもせず……結婚する以外になかったわ」
「…………エリザベス」
「最初は、ミシェルから手紙を貰って嬉しかった。でも同時に打ちのめされたわ。彼女とわたくしの違いに……それからは、手紙を貰うたびに、どんどん自分が惨めになって……情けなくて……彼女が憎らしくなった。でも憧れて……苦しくて……彼女が死んだと聞いてほっとしたわ」
「…………公爵は、あなたの夫の虐待を……」
「知らないわ。絶対に言わないわ。あの男に同情されるぐらいなら、嫌われているほうがましよ」
「だけど……」
◆
アンソニーの声は、扉に妨げられた。
ノックもなく足を踏み入れたのは、彼の見慣れた友人だった。いつもと違う硬い表情で、友人はベッドの前で立ち止まる。組み伏せられた母親と、母親にまたがり、首に手をかける彼とを見比べて、友人は床に膝をついた。
「アンソニー、すまない」
「……ジョージ」
アンソニーは夫人の首から手をはなし、上体を起こした。夫人が何度か咳をした。彼女の大腿から腰を浮かせて、アンソニーは友人と向き合った。
「きみは女性に乱暴するような奴じゃない。母が…………一線を超えた?」
母親よりも淡い瞳が、真剣に彼を見つめている。
アンソニーは視線を下げ、再び上げて、首を縦にふった。
「そうだ」
「すまない。ボクと母は、午後中に屋敷を発つ。だからどうか……許してくれないか」
「ジョージ、なにを言ってるの。これから伯爵夫人が……」
「母さん」
跪いたまま、ジョージは母親を見上げた。
「ボクは公爵家の跡取りなんて、本当にどっちでもいいんだ。それが義務なら果たすけど……もし公爵がアリーに継がせたいなら、それでもいい。どっちみち、去年までマイケルが継ぐ予定だったんだから。自分が公爵になるとも、なりたいとも思ったこともなかった。ボクは伯父さんの貿易を手伝うほうが、ずっと楽しいんだ」
「ジョージ、でも……」
「母さんが望むなら、ボクは公爵と対立してもいいと思ってた。それで母さんが幸せになれるんなら……母さんはいつも……あまり幸せそうじゃなかったから……アンソニーと一緒にいて幸せなら……それでも構わないとも…………だけどもう終わった。そうだね?」
目に悲しみをたたえ、ジョージは二人を見つめた。
「母さんがなにをしたか、ボクは知らない。でもアンソニー、母さんはそれでも……ボクの母親なんだ。世界中でたった一人のボクの母親だ。勝手を言っていると分かってる。だけど…………ボクに免じて、どうか不問に付してくれないか」
深く頭を下げる友人を、すみれ色の双眸が見つめていた。その瞳は、戸惑いに揺れている。アンソニーはベッドを下りて、友人の前に立った。
「……………………顔を上げてくれ」
「頼む」
「…………ジョージ。僕に膝をついたりしないでくれ」
「頼む」
「…………分かった。許すから、もう止めてくれ。きみのそんな姿は見たくない」
ジョージは目を充血させて、のろのろと立ち上がった。
「ありがとう」
「……ああ」
ジョージは真っ直ぐに彼を見つめた。
「すまない、アンソニー」
「……ああ。もういいから」
「一発、殴らせてくれないか?」
アンソニーの目が、大きく見開かれる。
「ボクは、きみの友人として、ひとりの男として……母親のしたことを心から謝罪する。だけど……母のただ一人の息子として……母親に手を掛けようとした男のことを、そのままにはしておけない」
「ジョージ、いいの。わたくしが挑発して……」
「母さんは黙ってて! ボクとアンソニーの問題なんだ」
アンソニーの手が、華奢な肩にふれた。夫人を押し留め、彼はジョージにうなずいた。
「…………分かった。いいよ」
「すまない」
軽く微笑んで、アンソニーは両腕をひろげた。
「きみの気がすむように、どうぞ」
鈍い音が鳴った。
アンソニーは腹をおさえて、床に倒れこんでいた。
手をこすりながら、ジョージは彼に近づいた。差しだされた手を掴み、アンソニーがふらふらと立ち上がる。
「ごめん」
「はっ……イートンのとき以来だな……昔より強くなったんじゃないのか」
「手加減しなかったから」
「そうか」
アンソニーは息を整え、ズボンの埃をはらった。
「ボクは先に学寮に戻るよ。きみも……また戻ってくるだろう?」
「ああ」
「じゃあまた。オクスフォードで会おう」
「ああ、またな」
握手を交わす男たちを、夫人は声もなく眺めていた。横目で彼女にふれて、アンソニーは友人に声をかけた。
「ジョージ。少しだけ席を外してくれないか。サザランド夫人と二人で話したい」
迷うような息子の視線に、母親が目でうなずいた。
赤の間の扉が閉まり、部屋にふたつの影が残った。
◆
ベッドに近寄るアンソニーに、痛ましげな視線が注がれる。
「……大丈夫なの?」
「ええ。あなたの息子は強いんです。普段は温厚だけど、怒らせたら怖いって。イートンでも評判だったんだから。大丈夫ですよ。ジョージは強い。あなたが策を弄さなくても、自分の権利は自分でつかみ取れる。彼がそうすると決めたなら、自ら闘いますよ」
「……主人も、あの男も。わたくしを弄んで、息子を蔑ろにして。公爵家の男たちは……わたくしたちを、どれだけ苛めば気がすむのかしら」
「やっぱり……公爵に打ち明けたほうが」
「死んでもいやよ」
アンソニーは、ベッドの前で跪き、サザランド夫人の手をとった。白く滑らかな肌に、自らの額をあてた。
「…………苦痛だった?」
「アンソニー?」
「僕との行為も…………あなたにとっては暴力だった?」
長い沈黙だった。
サザランド夫人は、細い金髪を指で梳いていく。
唇には美しい弧ができていた。
「いいえ」
やわらかな金髪が絡めとられる。
「あなたと過ごした時間は幸せだったわ。あなたは……わたくしから何も奪わなかった。ただ与えてくれただけ。他の誰もが……主人も、他の愛人たちも、ラチェットも……与えてくれなかったものを、アンソニー。あなたがくれたわ」
「……ラチェットとも?」
いたずらを咎められた、少女のような顔があらわれた。
「去年の秋に、あなたがオクスフォードに戻って淋しい……いえ、退屈だったの。出来心でね。見目もいいし、気休めになるかと思ったけど……主人と似た男だったわ。女を自分の靴や家畜と同じと思っている人間ね。わたくしが上の階級だから、無理強いはされなかったけど……怖くてあなたに押しつけてしまったわ」
「彼がどんな人間か……知っていたんだね」
「ええ……知っていたわ」
ふたりの視線が絡みあった。アンソニーは手を離さなかった。
「それでも……あなたにそうさせたのは、僕のせいだ。あなたを恨まない。幸せになってくれ……エリザベス」
「わたくしも幸せを願っていてよ、アンソニー」
手の甲に唇が落とされた。
その仕草を、夫人は微動だにせず見つめていた。
茶色の瞳に、時間を焼きつけるかのように。
唇がはなれ、
手がはなれ、
アンソニーが立ち上がった。
「それでは、お元気で。サザランド夫人」
「ええ、さようなら。ミスター・アシュリー」
ドアノブに手が触れたとき、ぽつりと声が漏らされた。
「未遂で済んで……よかったわ」
アンソニーは目を閉じて、その場に立ち止まった。
ゆっくりと背後を振りかえり、微笑を残して、赤の間を立ち去った。
◆
ジョージは廊下に立ち、扉のそばで両腕を組んでいた。
彼がうなずくと、すぐさま部屋に飛びこんだ。
赤の間の扉が閉まる。
その扉に、彼は背をもたれた。
重厚なマホガニーの上を、背が滑り落ちていく。
床に座りこみ、彼は両手のなかに顔を埋めた。
「…………ぜんぶ、僕のせいじゃないか」
アンソニーの呻き声は、廊下にひっそりと消えていった。




