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3-2 はなればなれに(上)

 ミカが屋敷をはなれた午後のことだった。


 朝食室の扉が、音を立てて開かれた。公爵、アリト、ジョージ、サザランド夫人が、一斉に顔をむけた。不作法な音の主は、部屋の一点だけを見つめていた。澄んだ茶色の瞳が、彼を見つめ返した。

 サザランド夫人は目元を和らげた。


「あら、ミスター・アシュリー。ロンドンから戻られたのね。一緒に昼食を……」

「話があります。サザランド夫人」

「それなら昼食が終わっ……」

「今すぐに」


 視線を交わすふたりを、舞台の上の役者のように、他の三人が眺めていた。サザランド夫人は優雅な所作で、ナイフとフォークを置いた。


「……皆さま。失礼いたしますわね」

 アンソニーはすでに背をむけ、二ヤードほど先を歩いている。宮殿に赴くデビュタントのように、夫人は静かにあとを追った。幕は下ろされ、役者たちは扉のむこうに消えた。



 赤の間の扉が開き、ふたつの影が横ぎると、また扉が閉まった。

 サザランド夫人はベッドの端に腰かけた。幾度もの夜、ふたりの肌にそよいだ羽毛布団が、赤い花畑のように咲いている。夫人の両手が、小花を握りつぶした。


「どうしたの? 食事を中断させるだなんて。あなたらしくない不作法だこと」

「あなたがけしかけた?」

「いやね、ずいぶん怖い顔をして」

「とぼけないで! あなたがラチェットをけしかけたのか⁈」


 花畑に佇む夫人を、陰がおおった。彼女の目の前で、荒い息が吐きだされる。夫人は紅い唇に笑みをたたえた。


「そうよ」

 可憐な花の群れに、不似合いな獣じみた声が漏れた。アンソニーは彼女を睨みつけた。

「なんでっ……」

 美しい唇の弧が、自嘲するように歪む。

「…………なんでと。坊や。あなたがそれを聞くのね」

「なにを言って……」

「ラチェットは? どうしたの?」

「ロンドン警視庁に連れていった」

「そう。あの人、わたくしの名前を出したのね」

「ああ。あなたが助けてくれるはずだと」

「……愚かね」


 夫人は柔らかな吐息をもらし、アンソニーの前髪をゆらした。


「ミカが消えたのも、あなたが仕組んだのか?」

「消えた? 確かに今朝は、別のメイドがお茶を運んできたけど……ミカは具合が悪いって……そう。あの子、消えたの」


 わずかに眉をひそめ、夫人の白い指先が唇にそえられた。しかしすぐに、完璧な笑みを愛人に見せつけた。


「仕組んだなんて人聞きが悪いわ。わたくしはただ、お願いしただけよ。伯爵夫人にお話なさいって」

「なにを⁈」

「あの子の両親は、ミシェルと彼女の実兄だと」

「そんなわけないだろうっ‼」

 硬い指先が、夫人の薄い肩に食いこんだ。揺さぶられながら、夫人は微笑をたたえていた。

「あなたはほんとうに、ミシェルが好きなのね」

「そんなの、今はどうでも……」

「わたくしは大嫌い」


 アンソニーの手が止まる。年上の愛人は、微笑みを崩さない。


「ミシェルも、彼女にそっくりなあの子も。それでもあの子は、わたくしの役に立ってくれるかと思ったのに……消えるなんて、ばかな子ね」

「あなたのせいだろう」

「…………そうね。わたくしのせい。もっと策を講じればよかったわ。ラチェットと結婚していれば、すべてが上手くいったのに」

「あの子の意思を無視するな」

「意思? 意思なんて必要ないでしょう? いつかは結婚して、主人の物になるんだから。彼はホテル経営をするつもりだったの。メイドが経営者の妻になれたのよ。願ってもない結婚じゃない」

「あいつは……無理やりミカを襲って……」

「襲われたの?」

「途中で……僕が止めた……」

「間に合ったの?」

「……ああ」


 夫人の眉尻が下がり、かすかに安堵の表情がうかんだ。しかし、それは一瞬のことで、すぐに挑発の笑みに変わった。


「余計なことをしたわね、アンソニー」

「黙れ」

「朝になれば、すべて事が終わっていたのに」

「エリザベス、黙れ」

「残念だわ。未遂で済んだなんて」

「黙れっ‼」


 夫人のあえぎ声が漏れた。

 華奢な白い首に、男の指が十本、絡みついている。

 赤い花が散るベッドの上に、夫人の背中が押しつけられた。

 アンソニーの瞳に獰猛な炎が燃えている。


「……なんてことを……あなたはっ……」


 夫人は艶然と笑った。美しい笑みだった。首を締めつける愛人の指が、まるで愛撫であるかのように。


「アンソニー、わたくしが憎い?」

「憎い」

「なら、殺しておしまいなさい」

 すみれ色の瞳が、両腕のなかの夫人を刺した。

「……煽るな。本気なんだ。あなたが憎い。憎くてたまらない」

「殺しなさい」


 夫人のたおやかな指が、男の指に重ねられた。彼を手助けするように、夫人は自らの指を立てた。


「ふざけるな。本気で……殺したくなる」

「殺しなさいよ」

「エリザベス‼ いいかげんにっ……」

「愛しているわ」


 とっておきの秘密を打ち明ける、少女のような笑みだった。


「わたくしの骨が砕ける音を、その感触を、わたくしが最期に漏らした声を、アンソニー、あなたは一生覚えているでしょう? その手でわたくしを殺めれば、あなたは絶対にわたくしを忘れられないわ。だから、よくてよ。あなたに殺されるのなら……悪くはない人生だわ」

「…………なにを……ばかなことを……」


 アンソニーの声が震え、その指先がゆるんだ。サザランド夫人は、彼の指を首に押しもどした。


「アンソニー。あなたを愛しているの」

「…………だって……ただの遊びだと……あなたはいつもそう言って……」

「本気だと言えば、どうしたの? わたくしの愛が重荷になって、あなたは逃げてしまったでしょう?」

「……………………」

「あなたが誰と結婚しても構わないと思っていたわ。でもあの子だけは……ミカだけは。絶対に、いや」

「…………ミシェルと似てるから?」


 夫人が笑みを深くした。苦悶にも見える表情だった。


「死んでしまった女を……あなたがいくら懐かしもうと構わなかったわ。だってもういないんですもの。でもあの子は……よりによってあの子と結婚しようだなんて……」

「どうしてミシェルを……あなたとは接点がなかっただろう」

「ええ、わたくしも主人も、この屋敷に出入りさせて貰えなかったもの。でもミシェルからはときどき手紙を貰ったわ。親切で、気遣いに溢れていて、とても温かな文面だったわ」

「だったら……なんでそんなに嫌って……」

「同じ公爵家の妻として、親しくなりましょうと書かれていたわ。手紙の端々から幸せが伝わってきて……公爵のこと、息子のこと……病で臥せっていても彼女は幸せだったと思うわ。愛されて、慈しまれていたんですもの。亡くなった今だって……こうしてあなたに愛されて」

「それは……」

「わたくしが主人にどんな扱いを受けていたか、誰が知っていたかしら。宝石のように大切にされる彼女と、物のように扱われるわたくしと……同じ公爵家の妻だとは、とても思えなかった」

「……エリザベス」

「主人が放蕩者で、公爵家から絶縁されていたなんて知らなかった。わたくしは若くて、愚かだったわ。公爵家の三男に言い寄られたと浮かれて……ミカのように助けられもせず……結婚する以外になかったわ」

「…………エリザベス」

「最初は、ミシェルから手紙を貰って嬉しかった。でも同時に打ちのめされたわ。彼女とわたくしの違いに……それからは、手紙を貰うたびに、どんどん自分が惨めになって……情けなくて……彼女が憎らしくなった。でも憧れて……苦しくて……彼女が死んだと聞いてほっとしたわ」

「…………公爵は、あなたの夫の虐待を……」

「知らないわ。絶対に言わないわ。あの男に同情されるぐらいなら、嫌われているほうがましよ」

「だけど……」



 アンソニーの声は、扉に妨げられた。


 ノックもなく足を踏み入れたのは、彼の見慣れた友人だった。いつもと違う硬い表情で、友人はベッドの前で立ち止まる。組み伏せられた母親と、母親にまたがり、首に手をかける彼とを見比べて、友人は床に膝をついた。


「アンソニー、すまない」

「……ジョージ」


 アンソニーは夫人の首から手をはなし、上体を起こした。夫人が何度か咳をした。彼女の大腿から腰を浮かせて、アンソニーは友人と向き合った。


「きみは女性に乱暴するような奴じゃない。母が…………一線を超えた?」

 母親よりも淡い瞳が、真剣に彼を見つめている。

 アンソニーは視線を下げ、再び上げて、首を縦にふった。

「そうだ」

「すまない。ボクと母は、午後中に屋敷を発つ。だからどうか……許してくれないか」

「ジョージ、なにを言ってるの。これから伯爵夫人が……」

「母さん」


 跪いたまま、ジョージは母親を見上げた。


「ボクは公爵家の跡取りなんて、本当にどっちでもいいんだ。それが義務なら果たすけど……もし公爵がアリーに継がせたいなら、それでもいい。どっちみち、去年までマイケルが継ぐ予定だったんだから。自分が公爵になるとも、なりたいとも思ったこともなかった。ボクは伯父さんの貿易を手伝うほうが、ずっと楽しいんだ」

「ジョージ、でも……」

「母さんが望むなら、ボクは公爵と対立してもいいと思ってた。それで母さんが幸せになれるんなら……母さんはいつも……あまり幸せそうじゃなかったから……アンソニーと一緒にいて幸せなら……それでも構わないとも…………だけどもう終わった。そうだね?」


 目に悲しみをたたえ、ジョージは二人を見つめた。


「母さんがなにをしたか、ボクは知らない。でもアンソニー、母さんはそれでも……ボクの母親なんだ。世界中でたった一人のボクの母親だ。勝手を言っていると分かってる。だけど…………ボクに免じて、どうか不問に付してくれないか」

 深く頭を下げる友人を、すみれ色の双眸が見つめていた。その瞳は、戸惑いに揺れている。アンソニーはベッドを下りて、友人の前に立った。


「……………………顔を上げてくれ」

「頼む」

「…………ジョージ。僕に膝をついたりしないでくれ」

「頼む」

「…………分かった。許すから、もう止めてくれ。きみのそんな姿は見たくない」


 ジョージは目を充血させて、のろのろと立ち上がった。


「ありがとう」

「……ああ」

 ジョージは真っ直ぐに彼を見つめた。

「すまない、アンソニー」

「……ああ。もういいから」

「一発、殴らせてくれないか?」


 アンソニーの目が、大きく見開かれる。


「ボクは、きみの友人として、ひとりの男として……母親のしたことを心から謝罪する。だけど……母のただ一人の息子として……母親に手を掛けようとした男のことを、そのままにはしておけない」

「ジョージ、いいの。わたくしが挑発して……」

「母さんは黙ってて! ボクとアンソニーの問題なんだ」


 アンソニーの手が、華奢な肩にふれた。夫人を押し留め、彼はジョージにうなずいた。


「…………分かった。いいよ」

「すまない」

 軽く微笑んで、アンソニーは両腕をひろげた。

「きみの気がすむように、どうぞ」


 鈍い音が鳴った。

 アンソニーは腹をおさえて、床に倒れこんでいた。

 手をこすりながら、ジョージは彼に近づいた。差しだされた手を掴み、アンソニーがふらふらと立ち上がる。


「ごめん」

「はっ……イートンのとき以来だな……昔より強くなったんじゃないのか」

「手加減しなかったから」

「そうか」

 アンソニーは息を整え、ズボンの埃をはらった。

「ボクは先に学寮に戻るよ。きみも……また戻ってくるだろう?」

「ああ」

「じゃあまた。オクスフォードで会おう」

「ああ、またな」


 握手を交わす男たちを、夫人は声もなく眺めていた。横目で彼女にふれて、アンソニーは友人に声をかけた。


「ジョージ。少しだけ席を外してくれないか。サザランド夫人と二人で話したい」

 迷うような息子の視線に、母親が目でうなずいた。

 赤の間の扉が閉まり、部屋にふたつの影が残った。



 ベッドに近寄るアンソニーに、痛ましげな視線が注がれる。


「……大丈夫なの?」

「ええ。あなたの息子は強いんです。普段は温厚だけど、怒らせたら怖いって。イートンでも評判だったんだから。大丈夫ですよ。ジョージは強い。あなたが策を弄さなくても、自分の権利は自分でつかみ取れる。彼がそうすると決めたなら、自ら闘いますよ」

「……主人も、あの男も。わたくしを弄んで、息子を蔑ろにして。公爵家の男たちは……わたくしたちを、どれだけ苛めば気がすむのかしら」

「やっぱり……公爵に打ち明けたほうが」

「死んでもいやよ」


 アンソニーは、ベッドの前で跪き、サザランド夫人の手をとった。白く滑らかな肌に、自らの額をあてた。


「…………苦痛だった?」

「アンソニー?」

「僕との行為も…………あなたにとっては暴力だった?」


 長い沈黙だった。

 サザランド夫人は、細い金髪を指で梳いていく。

 唇には美しい弧ができていた。


「いいえ」


 やわらかな金髪が絡めとられる。


「あなたと過ごした時間は幸せだったわ。あなたは……わたくしから何も奪わなかった。ただ与えてくれただけ。他の誰もが……主人も、他の愛人たちも、ラチェットも……与えてくれなかったものを、アンソニー。あなたがくれたわ」

「……ラチェットとも?」


 いたずらを咎められた、少女のような顔があらわれた。


「去年の秋に、あなたがオクスフォードに戻って淋しい……いえ、退屈だったの。出来心でね。見目もいいし、気休めになるかと思ったけど……主人と似た男だったわ。女を自分の靴や家畜と同じと思っている人間ね。わたくしが上の階級だから、無理強いはされなかったけど……怖くてあなたに押しつけてしまったわ」

「彼がどんな人間か……知っていたんだね」

「ええ……知っていたわ」


 ふたりの視線が絡みあった。アンソニーは手を離さなかった。


「それでも……あなたにそうさせたのは、僕のせいだ。あなたを恨まない。幸せになってくれ……エリザベス」

「わたくしも幸せを願っていてよ、アンソニー」


 手の甲に唇が落とされた。

 その仕草を、夫人は微動だにせず見つめていた。

 茶色の瞳に、時間を焼きつけるかのように。

 唇がはなれ、

 手がはなれ、

 アンソニーが立ち上がった。


「それでは、お元気で。サザランド夫人」

「ええ、さようなら。ミスター・アシュリー」


 ドアノブに手が触れたとき、ぽつりと声が漏らされた。


「未遂で済んで……よかったわ」

 アンソニーは目を閉じて、その場に立ち止まった。

 ゆっくりと背後を振りかえり、微笑を残して、赤の間を立ち去った。



 ジョージは廊下に立ち、扉のそばで両腕を組んでいた。

 彼がうなずくと、すぐさま部屋に飛びこんだ。

 赤の間の扉が閉まる。

 その扉に、彼は背をもたれた。

 重厚なマホガニーの上を、背が滑り落ちていく。

 床に座りこみ、彼は両手のなかに顔を埋めた。


「…………ぜんぶ、僕のせいじゃないか」

 アンソニーの呻き声は、廊下にひっそりと消えていった。

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