3-1 ミカ、ロンドンに行く(下)
Dedicated to Daylo-sama.
ミカは通りの端に立ち、手にした紙に目を落とした。K夫人が書いてくれた地図だ。
(えーーっと。今いるのがコーンヒルで、この先がチープサイドで……)
「どうしたの?」
少年が横から紙をのぞきこんでいる。くりくりとした瞳が印象的で、かわいい面立ちだった。行き先を告げると、指を伸ばして教えてくれた。「ジョニー! 早く来いよ、先生に怒られっぞ!」遠くで男の子が手を上げている。少年はにっと笑って、勢いよく駆けていった。
(かわいいなあ。小学生かな?)
歩いているうちに、周囲の景色が変わっていく。チョッキから金鎖がのぞく紳士たち。淑女を乗せた二頭立ての馬車。大通りには四つ又のガス灯が立ち、ココアや不動産会社の看板が目についた。通りの角に、豪奢な建物があった。灰白色の四階建てで、正面玄関の上部に『グリーンウッド・シアター』と書かれている。劇場なんだ。壁にはカラフルな看板が掲示されていた。
(……メイド少女ヴィオラ。涙の物語?)
すごい。こんな立派な劇場で、メイドが主役の劇を演るんだ。うわあ。どんなお話なんだろ。涙の物語だから悲劇なのかも。メイドに親近感が湧いちゃうなんて、あたしもすっかりメイドみたい。観たいなあ。高いのかな。高いよね、きっと。看板を見つめていたら、壁に陰ができていた。
「どうかしましたか」
振り向けば、背の高い紳士が立っている。髪に白いものが交じった、中年から初老ぐらいの。公爵みたいな服装だから、貴族かも。どことなく気品があって、渋くて恰好いい。
「あ……この劇観てみたいなって」
「それはどうも。明日が初日ですよ」
「そうなんですね。失業中なんで、仕事が決まったら観にきます」
「仕事? なにを?」
「メイドです。以前も……っても三週間少しですけど。メイドをしてたんで」
「ほう」
「メイドが主役ってすごいですね。どんな物語なんだろなって……すごい興味があって。演劇自体、小学校の課外授業で観たきりですし」
へへ、と笑うミカを見て、紳士は口元に手をあてた。
「観たいか?」
「はい! すっごく!」
「観るか?」
「へ?」
「これから通し稽古が始まる。時間があるなら、観て行けばいい」
「えっ? いいんですか?」
「メイドと言ったね。名前は?」
「ミカです」
「ミカ…………旧約聖書の預言者の名だな」
「へっ?」
「いいよ。来なさい」
扉に向かう紳士を、ミカはそろそろと追いかけた。てか誰この人。あたしが観るのを許可するって劇場の関係者だよね。経営者とかスポンサーかな。ミカは黒いコートの背中を見つめた。でも公爵と同じで。ダンディーなおじさま(おじいさま?)って感じでいやな雰囲気はしないから……せっかくだし、行ってみよっと。
◆
座席は三階まであった。朱色の壁がランプに灯され、金色にかがやいている。左右にはボックス席が設けられ、彫刻が施された柱で区切られている。天井には優雅な模様があしらわれ、中央にシャンデリアが吊るされている。連なった座席の一階、舞台がよく見える真ん中に腰かけた。
口を開いたままのミカに、紳士が笑みをこぼした。
「ここ数年で、新しい劇場が増えたり建替えられたりしたものでね。うちも最近新しくしたんだ。傾斜も座り心地も、以前より良くなっているはずだが」
「ほんとに……」
舞台はよく見渡せるし、椅子は豪華な天鵞絨張りだった。照明が落とされ、ベルが鳴る。すごい。ほんとの上演みたい。ミカは息をのんだ。オーケストラが音色を響かせ、幕が上がる。薄闇のなかに白く舞台が浮かびあがった。
◆
アリトのハンカチがびしょ濡れになっちゃった。紳士が目を点にして、こっちを見つめている。
「そんなに泣けるか?」
「はい……」
紳士が手にしたハンカチを、ミカはありがたく受け取った。隅にRと刺繡が入っている。洗ってお返ししますと言ったら、差し上げると言われてしまった。
戯曲はこんな内容だった。
貴族のお屋敷で働くメイドの少女・ヴィオラ。彼女は貴族の息子・レオと親しくなる。身分違いの恋に二人は別れを選び、レオは貴族の令嬢・アイヴィーと政略結婚する。結婚しても、ヴィオラを忘れられないレオ。偶然再会した二人は、新大陸行きの船に乗ってかけおちする。ところが船が嵐に遭い、レオを助けるためにヴィオラは海に沈んでいく。彼女は病気で、自分の命がもう長くないと知っていたのだ。英国に帰ったレオは、アイヴィーにすべてを打ち明ける。アイヴィーはレオを許し、最後は、二人でヴィオラの墓を訪ねる場面で終わった。
「みんな……悪いわけじゃないのに。ヴィオラもレオも、アイヴィーも。みんな想う気持ちがあって。もし未来だったら、もっとお互い話して、みんな救われる道があるんじゃないかなって……だけどこの時代って……階級とか男とか女とか色々あるみたいだから……思うことも言えなかったり……なんかそういうの……悲しいなって」
「悲しいか?」
「悲しいです。だから涙の物語なんですね……すごく感動して……でも三人とも幸せになってほしかったな」
「ふむ……」
こっちに男性が近づいてきて、紳士に頭を下げた。
「本日はご足労いただき光栄でございます」
「ああ。久しぶりの上演だからな。看板も初演の物を使ってくれたのか。いい劇だった。少なくとも、この少女はこのとおりだ」
男性はミカにもお辞儀した。ミカは目尻をこすり、立ち上がって礼をした。
紳士も席を立ち、ふたりで並んで通路を歩いた。紳士は何気ない調子で話をむけ、ミカは問われるままに答えていった。
「ではきみが勤めていた屋敷には、ローズとマーガレットというメイドがいたのか」
「はい。二人ともすごい仲良くて、以前はロンドンで働いてたそうで」
「そうか。一体きみはどこの屋敷で……」
ミカが口を噤むと、紳士は微笑みをかえした。
「いや、聞かずにおこう」
紳士が扉を開けた。午後の日差しが、目にまぶしい。
看板を眺め、紳士はまぶしそうな顔をした。
「……幸せになっている」
「え?」
「三人は……幸せになっているかもしれない」
ミカは睫毛をゆらし、紳士を見つめた。
「え……でもこの話、フィクション……え、もしかしてノンフィクション?」
紳士はなにも答えず、ただ笑っている。
「作者はサイモン・アランデール……男の人なんですね。すごい。あんなにヴィオラやアイヴィーの気持ちが分かるなんて……女の人かと思ってました」
「そう、女性なんだ」
「えっ?」
「ほんとうの作者は女性で、しかもメイドだ。当時は十歳だった」
「えええっ⁈」
「内緒にしてくれ」
あっけに取られるミカを見て、紳士はふっと唇の端を上げた。
「冗談だ」
「えっ?」
紳士と看板と、ミカは交互に顔をむけた。
あれ。
この人……。
「リチャード!」
通りの先に馬車が停まり、女性が手を挙げていた。リチャードと呼ばれた紳士は、目を細め、軽く帽子を下げた。
「連れが来た。もう行かなければ」
「ありがとうございました」
礼をして、顔を上げたら、紳士はまだ目の前にいた。
「昔……絶望を希望に変えてくれた少女を知っている。彼女もメイドだった。名前をルミという。綴りは違うが、ラテン語の光とも似ている……日本語だと言っていたが。なじんだ屋敷からロンドンに来て、辛いこともあるだろう。希望を持ちなさい。暗闇のなかを歩いていても、希望があれば光が灯る。ヴィオラやアイヴィーや……レオのように、そして彼女のように、きみにも神の祝福があらんことを」
どう反応していいか分からず、ミカがぼんやり見上げると、紳士は懐かしそうに笑い、背を向けて馬車まで歩いていった。女性はミカと目が合うと、優しく微笑んでくれた。金髪で美しい中年の女性だった。
二人を乗せた馬車を見送って、ミカは看板に目をむけた。
この看板の男の人は、貴族の息子・レオ。さっきのリチャードさんと似てる気がするんだけど。ヴィオラもレオも、アイヴィーも幸せになってるって。この戯曲を書いたのは、十歳のメイドだって。もしかして……そのメイドの子って、ルミちゃん? どこまで冗談で、どこまで本当なんだろう。ミカは看板を見つめた。でも、あたしが19世紀のロンドンにいるのも、冗談みたいな本当だもん。もしかしたら……リチャードさんの話も、全部、本当なのかも。
ミカは馬車と反対側に歩きだした。
サラはあたしがいて良かったって。
舞台は夢みたいに眩しくて。
ルミちゃんは、絶望を希望に変えてくれたんだって。
暗闇のなかにいる気がしても、
光は見えないだけで、あちこちに灯ってて。
きっと、アリトもアンソニーも、アリスも、みんな。
あたしに光を灯してくれてたんだ。
いつか、執事さんが言ってくれたっけ。
あたしはお屋敷を正しい方向に導くかもしれないって。
誰かの光に、あたしもなれる?
がんばろう。
希望の光を自分の胸に灯して。
いつか。
希望の光を誰かの胸に灯せるように。
悲しみを乗り越えた先の景色を、見たいから。
◆
西に向かって歩いていくと、ベイカー街にたどり着いた。K夫人が教えてくれた、使用人紹介所が目の前にある。豪華な玄関は、貴族の邸宅みたいだった。
(すご……入るの勇気いるな。てか今、何時だろ……劇観てたらお昼すぎちゃった)
首元から鎖を引っぱりだした。それと同時に扉が開いて、がっくりと項垂れた若い男が出てきた。懐中時計を手にして、ミカはそっと男に横目をむけた。男が顔を上げた。目が合った。と、思ったら……男が一目散にこっちに突進してきた。まるでエサを見つけた猪みたいに。
「その懐中時計っ‼」
「ちょっと! なにするんですか⁈」
とっさに時計を握りこみ、ミカは背中に隠した。男は悪気なさそうに、ぽりぽりと頭をかいている。
「ああいえ……失礼しました。驚かせるつもりはなくて。ぼくはこういう者です」
男は名刺を差しだした。時計工房と書かれている。
「……職人さん?」
「はい。その時計、たぶんうちで作った物なんです」
「メーカーは書かれてなかったですけど」
「特注なんです。とある公爵夫人に依頼された物で」
「……それって」
男は首を傾げ、しげしげとミカに顔を近づけた。
「お嬢さん。あなたは……公爵家に縁の方ですか?」
「いや。あの……譲って貰ったんです」
「時計を?」
「はい」
「よかったら、見せて貰えませんか?」
気のよさそうな男で、ひとを騙す人間には見えなかった。ミカは言われたとおり、時計を渡した。鎖はがっちり握ったままで。
「ぼくは、そのう、別に盗ったりしませんが……」
「や、そーいうわけじゃなく個人的な理由なもんで」
なに言ってるか分かんないからね。
「ああ、やっぱりあの時計だ。ほらここ。背面が分厚くなっているでしょう? 隠し蓋なんです。懐かしいなあ。あれ、でも鍵がないな……どこにいったんだろ」
「鍵って……これじゃなくて?」
「はい、鍵巻き用のじゃなくて。もっと小さな鍵なんだけど」
「あたしが貰ったときは、もう無かったですけど」
「じゃあ紛失してしまったのかな」
「鍵があったら開くんですか?」
「そうなんです。蓋を開けて、写真を入れたりできて……」
「それ……開けたりできますか?」
「できますよ」
「ほんとに⁈ ほんとですか⁈」
「はい。工房に設計図は残してあるから。二、三日あれば作れると思います」
「お願いしてもいいですか⁈ 費用はいくらぐらい……」
男はミカに時計を返して、背後の建物を振りかえった。
「あなたも、使用人を探しにきたんですか?」
「いや、あたしが使用人で……仕事を探しにきたんです」
「こっちは雇用主用の玄関だけど……」
あ、だからこんな豪華だったんだ。
男がじーーーっとミカを眺めた。
「……うちで働く?」
「へっ?」
「もう一週間、燻製ニシンの缶詰しか食べてなくて。レンジの熾し方が分からないから」
「はあ」
「この寒いのに紅茶も飲めなくて」
「はあ」
「もううんざりなんだ」
男は肩を落として、重いため息をついた。
「一週間待ったけど、中流階級の雑役メイドは人気がないから。手数料もかかるし。きみ、もう登録はすませた?」
「いや、まだですけど」
男はぱあっと明るい顔になる。
「ちょうどいい! きみもぼくも、手数料が浮くじゃないか! ぼくは時計の鍵を作るから、きみはうちで働かない? あっ、レンジの火は熾せる? 調理はできる⁈」
「はい、できますけど……」
「採用だ! これで紅茶が飲める! トーストが食べれる! やったっっ‼」
嬉しそうに跳ねる男を、ミカはぽかんと眺めていた。
とりあえず……仕事が決まったみたい。
それに。
21世紀に帰る手がかりが、見つかったかも。
男はラドゲート・ヒルに工房を構えていると言った。セントポール大聖堂の近くらしい。首元から銀の笛を取りだして、男が二回吹いた。目の前に馬車が停まる。そんなわけで、ミカは時計職人のメイドになった。




