2-8 ミカ、闘う(上)
今話は、詳細な描写はできるだけ控えておりますが、女性への性暴力の場面を含みます。
遠くでフクロウの声が聞こえる。梢が風にさざめいている。薄い月明かりが行く手を照らし、ミカは草地を踏みしだいた。小鳥も虫も動物も、今はその気配を潜めている。公爵家の丘を上りながら、ミカはこの世界に一人きりのような錯覚を起こした。葉群れのむこうに尖塔が見えてきた。暗い草地のなかの望楼は、中世を思わせる重厚さと古さをまとい、ひっそりと時間を止めたようだった。
『ミッ……ミミミミスターアッアシュリーがっ……ぼっ……ぼぼぼうろうにっ……きっきてくれっ……って……だっ……だれにも……なっ……ななないしょでっ……』
アルバートから伝言を受けたのは、夜の仕事を終え、使用人ホールに戻った時だった。昨日の舞踏会で別れたあと、アンソニーとは今日まだ顔を合わせていない。エリザベスも、今朝お茶を運んだときに(冷たい目で)じろりと一瞥されただけだった。昨夜は修羅場って感じがしたけど、あの後は揉めなかったのかも。
(……誰にも内緒でって。マイケルのお母さん……ミシェルさん? とかの話かな)
踏み固められた黒い道は、点々と光を浴びて、足元に模様をつくっていた。アンソニーのことは嫌いじゃない。昨日はすごく、楽しませてくれようって気持ちが伝わってきて。それに……いつもの軽口じゃなくて、本音を見せてくれた気がする。だけど。だけどね。ミカはぎゅっと目を閉じた。草地も木立も葉群れも消えた。あたしは21世紀に帰るから。どんなに望まれても……望みは叶えてあげられない。それに。ミカは足を止めた。指先が唇をなぞる。
(…………アリト)
冷たい唇だった。あれから二人で馬車に乗って、結局ひと言も話さなかった。アリトのことを思うと、ミカは胸が苦しくなった。苦しくて、甘くて、もがきたくなる。ミカはその感情を深追いしないことにした。あたしは帰るし、アリトは残る。どんなに望んでも……望みが叶うことはないんだから。
ミカは目を開いた。
まっすぐに望楼を見つめ、足を踏みだした。
望楼は薄暗く、左右の壁の開口部から、四角い光がわずかに床に落ちていた。奥に目を凝らしても暗闇しか見えない。ミカは石畳に足を踏み入れた。冷気がじわじわと肌を這う。昼間の熱はとうに消え、石壁に囲まれた望楼は外よりも寒く感じた。
足先から、露出した手や首や顔から、冷たさに蝕まれていくようだった。
ミカはぞくりと身体を震わせた。
「……アンソニー?」
石壁に手をそえて、ミカはそろそろと足を進めた。
なんかゾンビ映画の舞台みたい。
思わずそんな想像をして、ミカは両手で自分の腕をつかんだ。
(いやいやなに考えてんの! アンソニー、まだ来てないのかな)
ふいに口元に硬い手がふれた。そのままぐっと引き寄せられる。
「ちょっ……」
両手首をつかまれて、後ろ手にひねられた。
「……アンソニー、ふざけてないで」
手首に紐が食いこんで、からだが宙に浮いたあと、どん、と石畳に転がされた。
「なっ……」
ぽっとランプが灯る。嘲るような双眸がミカを見下ろしていた。
「……客人を呼び捨てにするとは。ただのメイドが、ずいぶん思い上がったものだ」
薄い唇には、酷薄な笑みがうかんでいる。
冷たい床に横たわり、ミカはぞわりと肌が粟立った。
「……なんで……あんたが……」
ラチェットは獲物を捕らえた目つきで、ミカに指先を伸ばした。
◆
その日の午後のことだった。ラチェットが白の間を辞すと、入れ替わるように赤の間の扉が開いた。サザランド夫人は視線を絡め、すぐに扉の先に消えた。扉は誘いこむように、わずかに開いたままだった。ラチェットは首を左右にまわし、扉のすき間に身を躍らせた。ぱた、と扉が閉まった。
ラチェットは慇懃に礼をして、口を開きかけた。
ぴしゃりと遮るように、サザランド夫人の声が重なった。
「ミカと結婚なさい」
「……は?」
「いますぐ、ミカと結婚なさい」
ラチェットは眉間にしわを寄せ、サザランド夫人に顔をむけた。
「……奥様。私はまだ結婚するつもりは」
「ホテルを経営したいのでしょう」
「……は。私の戯言をよく覚えてくださって」
「資金援助してあげるわ」
「……え」
「わたくしが資金を用立ててあげます。そうすれば何年も独身で、資金を貯める必要はないでしょう?」
「……それは……確かに。しかしなぜ」
「結婚してほしいの。あの娘に。一刻でも早く」
「……はあ。しかしアンソニー様が」
「……アンソニーがどうしたの?」
サザランド夫人の瞳が獰猛にたぎった。
「……は……いえ……あの娘にご執心ですから。あまりいい御顔をなさらないかと……」
「関係ないわ」
気圧されたように、ラチェットは口を結んだ。
「アシュリー家の跡取りが、労働者階級の娘と結婚できるわけがないでしょう。それに資金を得て独立すれば、もうあなたは従者でもないのだから。ミスター・アシュリーの顔色を窺う必要はなくてよ」
「……は。しかしミカと話そうとすると、いつも邪魔が入りまして」
「話す必要はないわ。今夜、望楼でふたりで夜を明かしなさい」
「…………」
「明朝、ミスター・アシュリーと散歩をします。望楼に寄って、あなたたちを見つけてあげる。たとえ何もなくても……他家の従者と一夜を過ごしたなんて、醜聞以外の何ものでもないでしょう。あなたと結婚するしかなくなるわ」
「しかし……あの女がおとなしく付いてくるか……」
「考えなさい。行きたいと思わせればいいの」
ラチェットの上唇が、裂けるようにめくれていく。
「なるほど……なるほど……確かにそうだ……」
サザランド夫人は顔をしかめ、身を守るように、組んだ両腕に力をこめた。
「では……そうですね。アンソニー様の名をお借りしましょうか。私が直接誘わない方がよさそうだ……アルバートに頼みます。ジョンは聡い男ですがあいつは無口で愚鈍ですから……私はミカによく思われていないからとしおらしく頼みこめば、鵜呑みにして名前は伏せてくれるでしょう」
興味がなさそうに、サザランド夫人は睫毛をふせた。
「あなたに任せるわ。わたくしはとにかく……あの娘が早く結婚して……あとはわたくしの役に立ってくれれば、それでよくてよ」
ラチェットは薄ら寒い笑みをうかべた。
「……どうせ夫婦になるのなら。少々、事の順番が変わっても構いませんね?」
不快そうに眉をひそめ、サザランド夫人は怒ったような顔をした。しかし、開いた口から言葉は発せられず、代わりに、ドレスの間から扇が取りだされた。ひらひらとゆれるレースをじっと見つめ、サザランド夫人は目を閉じた。抗議の表情は消え、美しい顔にはもう何の感情も見当たらない。
サザランド夫人は再び、口を開いた。
「…………あなたに任せるわ、ラチェット」
◆
「おまえはオレと結婚するんだ、ミカ」
「……は⁈」
なにこいつ。頭湧いてんのかな。
ミカは手首を動かしてみた。固く結ばれていて、びくともしない。石畳は苔むして冷たく濡れている。全身が凍りつきそうだった。あー、昨日の夜、アリト自分が下になったの冷えないように気遣ってくれたんだな。そんなどうでもいい考えが頭をよぎった。
「明日の朝には、アンソニー様とサザランド夫人がオレたちを見つけるはずだ。そうしたらおまえは、オレと結婚するしかなくなる」
「はあっ⁈ いやないしあんたなにばかなこといっ……つっ‼」
平手で打たれた。
左の頬が熱く、右の頬は石畳で擦ってひりひりと痛んだ。
「なっ……なっ……」
「おまえは美人だ。だが生意気なところがよくない。アンソニー様と違って、オレは甘やかしたりしないからな。貞淑な妻になるまでしっかり躾けてやるぞ」
ミカはぼう然と男を見上げた。
だめだ会話になんないぞ。
「そうだ。そうして従順にしていればいい。おまえはオレの物になるんだ。これからは、オレの機嫌を重んじて、オレの顔色をよく見て、オレが気分よくいられるように振る舞え。そうすればオレもおまえを殴らずに、いい夫でいられるからな」
ラチェットは目尻を下げて、ミカにまたがった。
悪寒が背筋を走りぬける。
いやいや待て待てちょっと待て。おい。なにしてんのこいつ。
「ちょっ……あんた……なにをっ……」
「どうせすぐ妻になるんだ。結婚の後でも前でも、することは同じだろう?」
「はああっ⁈ ふざけ……つっっ‼」
また打たれた。二度、三度。
続けざまに両頬を張られ、ミカは声を失くした。
男がミカに覆いかぶさる。
全身にじっとりと汗が湧きあがる。
(待って待って待って待って待って待って…………‼)
まじで? これ冗談じゃなくてまじで?
ミカはごくりと唾を飲んだ。
あたし、こいつに……やられんの?
◆
屋敷の三階、南西の一角。静まりかえった廊下を、ひとりの男が行き来していた。明かりが消え、淡い月光が青白く窓から差しこんでいる。男は頑丈なマホガニー材の扉を見つめた。白の間の扉だ。手を上げて扉に近づけ、また腕を下ろした。扉に頬をふれて耳を押しつけ、また離れ、今度は数十歩歩いて、隣の扉に耳をあてた。赤の間の扉だ。
男は視線を下げた。自分のお仕着せの、紺のウールに縫い付けられた銀のボタンに、そっと手をふれた。心を決めた様子で顔を上げ、白の間の前に立ち、小さく音を鳴らした。
アンソニーは絹のガウンを羽織り、きょとんと彼を眺めていた。
「えーーーっと。アルバート? だったっけ。どうかした?」
「ミッ……ミミミミスターアッアッアッアシュリー」
弓なりの眉を僅かにひそめ、アンソニーは黙って彼を見つめていた。
「ぼっ……ぼぼぼぼうろうにはっ……こっ……これからっ……?」
「……なに?」
「さっ……さささしでがましいことをっ……すっ……すみまっ……せ……でもっ……みっ……みっ……ミミミミッカはっ……もうっいってっ……」
「……ミカ?」
額のしわを深くして、アンソニーは彼の背中を押し、書き物机にむかわせた。
「悪い。急ぎだね? 礼を欠いてすまないが、これに書いてくれるか?」
アルバートは何度も縦に首を振り、ペンをインク瓶にひたした。紙に乱れた文字が綴られていく。
押しつけるように紙を見せられ、アンソニーは素早く目を走らせた。
顔色を失い、アンソニーはガウンを脱ぎ捨てた。
「厩舎へ行く! きみも望楼に向かってくれ!」
廊下にふたつの黒い影がのび、瞬く間に、階段の角に消えていった。
『ラチェットさんから伝言を頼まれました。アンソニー様がミカに話があるので、誰にも内緒で望楼に呼び出してほしいと。自分はミカに避けられてるから、アンソニー様の恋の妨げになりそうだ。僕が伝言を預かったことにしてくれないかと。ラチェットさんが、いつもと様子が違ったので気になりまして……差し出がましいとは思いましたが、ミスター・アシュリーにご確認したく参りました』
◆
ミカは歯を食いしばった。
胸の上にはラチェットがいて、ずっしりと、重たい。
動けない。
どうする。
頬はじんじんと燃えて、背中は汗でべっとりと冷たい。
結婚て。
少なくとも……殺す気はないってことだよね。
どうする。
このままもう諦めて。
…………終わるまで待つ?
ミカは目を固くつむった。
蛇のように肌を這う手が、気持ち悪い。
気持ち悪い。
いやむり。無理無理。ほんと無理。
どうする。
ミカはまぶたを開いた。
ラチェットの頭が動いている。
両手は縛られて動かせない。
からだも重くて動かせない。
ミカは視線を下げた。
おばあちゃん、へんなひとがいたの。
ミカ、そんな男、急所を蹴り上げちまいな。
で、できないよ。おとなだもん、むりだよ。
じゃあ噛みちぎってやりな。
お母さん! なんてこと言うんですか⁈
なに言ってんだ。いざとなったら、自分の身は自分で守るしかないんだよ。
お祖母ちゃん。
いざとなったよ。
まさに今コレ、ピンチです。
ミカは一点に視線を注いだ。
急所。
……………………嚙みちぎる?
うへえ。
ミカはめいっぱい苦い顔になる。
それはそれで、気持ち悪い。
だけど。
このままやられるのもやだし。
腕とか肩とか噛んでも、筋肉でびくともしなさそうだし。
それに下手に抵抗したら……こいつ逆上して、今度はほんとに殺られるかも。
喉がごくりと鳴った。
…………やるなら、本気でやらなきゃ。
ここは望楼。公爵家の敷地内。
20分……いや走れば15分もすれば、エロル夫人やジョン、アリトやアンソニーたちがいるんだから。
密室とか、深い森の奥とかじゃないんだから。
銃とかナイフとか向けてこないし。
とにかく油断させて噛みついて、逃げきれたら大丈夫。
ミカは口を開けてみた。
ガチガチガチと歯が鳴った。
あ……………………だめだ。
声、でない。
怖い。
……………………怖い。
目頭が熱くなる。
無理だよ噛みちぎるとか出来るわけないじゃん。
こんなんやられて終わりだし。
真っ黒な天井しか見えなくて。
昨日みたいな月も星もなんにもなくて。
石畳は固くて冷たくて、湿ってて。
口を開く度に、歯の根が震える。
声を出そうとしても、ひゅっと息が漏れるだけ。
くやしい。
くやしいなあ。
初めてなのに。
好きなひととしたかったのに。
てか19世紀まで来て。
なんで襲われなきゃなんないんだ。
ミカは男の頭を見下ろした。
なんで。
あんたにこんな扱いされなきゃなんないんだ。
あたしがメイドだから?
あたしが女だから?
おなじ人間なのに。
……………………腹立つなあ。
そうだよ。
怒れ。
怖がるな。
怒れ。
負けるな。負けるな。
やられたくない。
殺られたくない。
がんばれ。がんばれ。がんばれあたし‼
(そうだよこいつ初対面から手折りたいとかばかじゃないのあたし花でも物でもないし‼)
怒れ。怖がるな。怒れ。
声を失くすな。
(こんなんで言うこと聞くとか本気で思ってんのかなキモキモキモほんとムカつく‼)
声を上げろ。
(こんなやつ噛みちぎられて出血死でもショック死でもすればいーんだ‼)
ミカは息を吸いこんだ。
「もーーーーーっ‼ ほんっっっとムカつくーーーーーーーっ‼」
声、でた。
殴られたけど。
左の頬が焼けるみたいに痛い。
口のなかが鉄くさい。
舌噛んじゃった。
「うるさい女だ‼ 叫んでも誰も来るもんか‼ 従順にしてろと言っただろうがっ‼」
ミカは荒い息を繰りかえし、こっそりと唇の端を上げた。
大丈夫。
声がでる。
口も、ちゃんと動かせる。
あとはこのまま油断させて。
ミカはちらりと視線を下げた。
……………………噛みちぎる。
ミカはまぶたを閉じた。
反撃の時機を待つために。
ぐしゅり、と鈍い音が響いた。
からだが急に軽くなった。
麻袋を床に叩きつけるような、鈍い音が繰りかえされる。
ミカは目を見開いた。
ランプの薄明かりのなかで、
アンソニーがラチェットを蹴り続けていた。
痛いご想像をなさった男性の読者様、すみません…。




