2-7 ミカ、舞踏会にいく(下)
舞踏室の真ん中で、アンソニーはサザランド夫人と向き合っていた。招待客たちは部屋のあちこちで変わらず声を立てている。しかし耳をそばだて、好奇の目をちらちらと寄越しているのは明らかだった。夫人と若い愛人と、その新しい恋人との、思わぬ鉢合わせ。社交界を愉しませる甘い蜜のようなゴシップを予感させた。
アンソニーは、ミカと繋いだ手に力をこめた。
「サザランド夫人。あいかわらずお美しい。よい夜ですね」
「ずいぶん可愛らしい方を連れておいでね」
サザランド夫人は目を眇め、ミカの頭からドレスの裾まで視線を上下させた。
「ご紹介いただけますかしら」
「今宵は仮面舞踏会ですよ、サザランド夫人」
仮面の奥に瞳を隠して、アンソニーは唇の端を上げてみせた。
サザランド夫人は一歩前にでて、ミカに優しく微笑んだ。
「わたくし……あなたを知っているような気がしましてよ」
空気を裂くように風が起こり、扇が弧を描き、白い仮面が床にはらりと落ちた。サザランド夫人は微笑みを崩さずに、扇をドレスのなかに戻した。
「あら失礼。手元が滑ってしまったわ」
腰を屈めて、アンソニーが仮面に手を伸ばす。すかさず紫色のドレスの裾が、波のように覆いかぶさった。
「ねえ、不思議じゃありません? ミスター・アシュリー。どうして彼女がこんな格好でここにいるのかしら。まるで貴族のご令嬢のように…………ただの公爵家のメイドですのに。ねえ、ミカ?」
低い囁きが、部屋に伝搬していった。ミカは声を殺して、うかがうように隣を見上げた。緊迫した空気をよそに、アンソニーがおっとりと笑みをこぼした。
「いやだなあ、サザランド夫人。彼女はメイドじゃありません」
「……今朝わたくしのお茶を運んだのは、この娘でしてよ、ミスター・アシュリー」
「…………彼女は」
アンソニーの右手が、乳白色のドレスの腰に触れる。その手がぐいとミカを胸のなかに引き寄せる。ミカはバランスを取るように、黒い背中にしがみついた。アンソニーは左手でミカの頬を包み、顔を沈めていく。
甘くほろ苦い味は、喫茶室で口づけたクラレット・カップと同じだった。でもあの氷の入ったワインと違って、今は温かさが舌の上に広がっている。
アンソニーは顔をはなして、上唇を舌でなめた。息がかかる程の距離でミカを見つめ、上目遣いでにっこりと笑った。
「僕の婚約者ですよ。サザランド夫人」
サザランド夫人は静かにその場に立っていた。やがて満面の笑みをつくり、ころころと嬌声を上げた。
「可笑しい人ね、ミスター・アシュリー。そうね、わたくし分かっていてよ。あなたがこの娘をお気に入りなわけは…………ねえ、皆さま。彼女に見覚えはありませんこと?」
周囲を見まわして、サザランド夫人は役者のように呼びかけた。ざわざわと客たちが覗きこむなか、アンソニーが鋭く声を張り上げた。
「やめろっ‼」
人波から黒い影が飛びだした。黒い仮面をつけた男が、ミカの手をつかんだ。男はちらとアンソニーに顔をむけた。まかせた、と言うようにアンソニーは頷いてみせた。男はわずかに会釈を返し、ミカを連れて扉のむこうへ消えた。
アンソニーは唇の弧を深め、にやりと笑った。
「さあ! 皆さま! オルロフスキー公爵がアデーレを連れ去ってしまいました。僕たちの余興『こうもりの復讐』はお楽しみいただけましたか」
大仰に腰を折るアンソニーに、笑い声と拍手が湧きおこる。なんだミスター・アシュリーの悪ふざけか。あの青年はああいう遊びが好きですな。なに今夜は仮面舞踏会、それにこうもりのカドリールのあとだ、なかなかいい演出じゃあないか。目こぼしして差し上げましょう、いい退屈しのぎになりましてよ。そんな囁きを残し、人波が散り散りになっていった。
「……今朝、急用で、自邸に帰ると言ってませんでしたか」
「……早く片づいたのよ。だから友人に誘われてここに来たの」
アンソニーは役者のようにお辞儀をした。
「それでは、わがロザリンデ。残された者同士、踊るといたしましょうか」
「…………いいわよ、わたくしの浮気者の夫、アイゼンシュタイン。それとも忠実な恋人、アルフレードかしら」
アンソニーは唇の両端を上げ、なにも答えず、床に落ちた白い仮面を拾い上げた。指先でほこりを払い、大切そうに、燕尾服の内ポケットにしまいこんだ。
◆
クロークで外套を受け取って、ミカは男と玄関を通りぬけた。楽団の音色と人びとのどよめきが遠ざかっていく。背後の屋敷は、すべての窓が橙に染まり、饗宴にまばゆく燃えていた。小道を曲がり、黒々と茂る木々のなかを歩いていった。ミカは自分の手をひく、男の黒い仮面を見上げた。
「……アリト、だよね?」
アリトは仮面を外して、頭を左右に振り、髪をかき上げた。
「ありがと、連れ出してくれて」
「ああ」
「いつから? てか来てたんだ……」
繋いだ手をはなし、アリトは屋敷を振りかえった。
「……おまえたちが出発したあと、俺も向かった。何事もなかったら、接触せずに帰ろうと思ってたけど」
「……気にしてくれてたんだ。ありがと」
「……まあな」
風が音を運び、楽団の演奏が木立をゆらした。ミカは屋敷に目を凝らした。
「……アンソニー、大丈夫かな。調子乘ってドレス着せてもらって浮かれちゃって……アリトもごめん。こんなとこまで……」
「あいつは大丈夫だろ。機転が利くし」
アリトは屋敷に顔をむけ、笑みを漏らした。
「……シュトラウスのファンでもいるのか」
「え」
「演奏会でもないのにな。皇帝円舞曲って…………踊る?」
「……え」
「練習したんだろ? ワルツも」
「う……うん。アリトは」
「公爵家の息子だからな」
慇懃に腰を折り、アリトは手を差しだした。
「……踊っていただけますか」
もったいぶった仕草に、いたずらめいた目の輝きを見せ、アリトが笑った。ミカもつられて笑みを浮かべた。右手をアリトの左手に重ね、左手をアリトの右肩に置いた。アリトの右手がミカの背骨にふれた。
ゆっくりと、足を滑らせる。
身体が波のように揺れ、二人で輪を描いていく。
くるくると回り、また手をつなぐ。
華やかな音色が風とともに、二人のまわりで戯れている。
「……楽しかったんだろ?」
「うん……初めてなことばっかで……なんかすごいキラキラしてて……楽しかった」
「ならいーじゃん。俺は男だしよく分かんねーけど……19世紀の舞踏会なんて帰ってもいい思い出になんじゃねーの」
「うん、ありがと。こんなの……一生の思い出になる」
ミカは頭上を振りあおいだ。黒い梢のなかを月が見え隠れしている。雲の海原が黄金色に染まり、星がダイヤモンドを撒いたように光を放ちーーー。
「きれい」
目に映るもの全てがまぶしくて、ミカは思わず口をついた。
「きれいだな」
低い声が返ってきて、ミカは笑って目線を下げた。
アリトがまっすぐにミカを見つめていた。
「……きれいだ」
金色の双眸は、星でも月でも夜空でもなく、ミカだけに注がれていた。
「アリ……うわっ」
景色が反転して、気づけばアリトを見上げていた。
芝生に寝転がったまま、ミカは身じろぎした。
胸の上にはアリトがいて、ずっしりと、重たい。
「ごめ……つまずいちゃった。退いてもらってもい……」
ごろん、と身体が回転して、今度はアリトが下になった。
ミカはアリトの胸から、上体を起こそうとした。
アリトの腕に力がこめられ、ミカはぴくりとも動けなかった。
「あの、腕、放してもらえ……」
「帰んの?」
「え」
「……ほんとに帰んの?」
金色の瞳が、熱に潤んだように輝いている。硬い指先が、背中に押しあてられる。
「……21世紀にって?」
「ああ」
「……帰るよ」
「なんで」
「なんで……って……」
「なんでそんな帰りてーの?」
アリトはぐっと上体を起こし、芝生に座った。ミカは向かい合ったまま、アリトの大腿に乗っていた。がっちりと腰を固められて降りられない。
「アリト、これちょっと変……」
「なんで帰りて―の?」
至近距離でじっと見つめられて、胸がざわめいた。
「な……なんでって。だって学校もあるし。友だちだっているし」
「彼氏も?」
「彼氏はいない……てかいたことないけど……」
「へえ」
アリトは驚いたように眉を上げた。
「そんな学校行ってダチと会いてーの?」
「いやそれもあるけど……」
「なに?」
「……おかあさん」
「母親?」
「……うん。お母さん、心配してるだろーし。早く帰んないと……あんま心配かけたくないし」
「父親は?」
「お父さんは……いないんだ」
「……亡くなった?」
ミカは首を横に振り、薄く笑った。
「ううん……離婚した。あたしが産まれたときに……ほらあたし、こんな見た目じゃん? お母さんの浮気、疑ったみたい……そんなんあり得ないのにさあ……ばかだよね……一度も会ったことないけど……別に会いたくもないけど」
アリトの腕が、ぎゅっと強くなる。
「……母親がそんな話を?」
「まさか。お母さんからは、事故で死んだって聞かされてて。子どもの頃はそれ信じてたけど……立ち聞きしちゃった。真夜中に目が覚めて。まだお祖母ちゃんと一緒に住んでるときで。居間でお母さん泣いてて、お祖母ちゃん怒ってて、こっそり障子開けてのぞいて……十歳のときだったかな。お祖母ちゃんは本当のこと話したほうがいいって……お母さんは絶対話さないって……そんな言い合いしててさ」
「母親は? 話したのか?」
「ううん、ずっと内緒にしてくれてるから……あたしもずっと知らないふりしてる」
「……おまえの祖母ちゃんて……懐中時計くれた人だよな」
「うん。悪い人じゃないんだよ。きびきびしてて……お母さんとは意見合わないこと多かったけど、あたしは好きだったし……でもなんか真っ直ぐな人で……嘘とか大嫌いで。だからあたしが中学入ったときもお母さんと大ゲンカしちゃって」
「おまえじゃなくて? 母親と?」
首の後ろに手をまわし、ミカは巻き毛をなでた。
「入学したばっかの頃、風紀の先生にね、目つけられて……いちお証明書? とか提出したはずなんだけど……なんかずっと絡まれて嫌になって、黒染めして黒のカラコン入れたんだよね……そしたらお祖母ちゃんが、自分を偽るなって、堂々としてろって言って……でもお母さんは、あたしがそれでいいならいいって……なんかそれで結局、二人とも折り合いつかなくなって。お祖母ちゃんの家でて団地に引っ越して学校も転校して……。地毛だし毎回染めるのもめんどいから黒のカツラとカラコン入れて。高校入ってからもずっとそうしてる」
アリトの手が伸びて、指先が髪をたどった。
「きれいなのに」
「……ありがと」
「……母親が大事だから帰りてーんだ?」
「大事……うん。大事……だけど……」
「……だけど?」
「……だけど……それより……なんていうか……申し訳ない? 生まれてごめんなさい……じゃないけど……こんな見た目じゃなかったら……もっとふつーだったら……お父さんとも別れずに済んで……夜勤とかすごい入れなくて済んで……ストレスでお酒いっぱい飲んだりせずに済んで……だからちょっとでも助けなきゃ……ていうか。役に立たなきゃ……っていうか。お母さんの負担になりたくない……っていうか……………………だけどもしあたしが帰んなかったら、お母さん、ひとりになって……自由になれるかも……とか……はは、たまに考えたりする……」
苦笑いするミカを、アリトは黙って見つめていた。
「お母さん、優しーんだ……いつも笑ってくれて……でもさ。心の底では、なんであたしなんだろなって……なんでこんな子生まれたんだろなって…………思ってたらどうしよう……なんて……ははっ、ごめんあたしさっきからなに語ってんだろ。突然こんなん困るよねごめん」
「腹ん底では思ってっかもな」
「…………だよねえ」
ミカはうつむいた。胸がちりちりと焼けるみたいだった。自分で言った言葉に同意されて傷つくなんてばかだなあたし。
「でも絶対おまえに言わねーんだろ?」
「……うん」
「愛されてんじゃん」
「…………え」
「人間だからさ。機嫌悪ぃときとか疲れたときとかあんじゃん。そーいうとき、ネガティブなこと考えたりするじゃんか。でもおまえの母親、それ絶対見せねーんだろ? だったらそんな感情、あってもなくても、ねえのと同じじゃん。おまえのこと大事だから絶対見せねーんだよ」
ミカは顔を上げた。アリトの金色のまなざしが、ミカを照らしていた。
「そう……思う?」
「ああ。俺はそう思うけど」
「……そっか」
「ああ」
「……そっかあ」
自然と顔がほころんで、そんなミカに金色の目が細くなる。
「どこにでもいるんだな。絡んでくる奴」
「え?」
「俺も……小二のとき。担任の男がネチネチ絡んできて……や、まあ俺も生意気だったんだけど……なんつーか、言うこと聞く子どもらしい子どもが良かったんだろーけど……俺はこんなだし……たぶん互いに相性悪かったんだよな。って今なら思うけど」
「うん」
「俺の目……カラコン入れてんじゃねーかって……その日は特にしつこくて……まあ俺も苛っとして……言ったんだよな。親のせいだって」
「え」
「担任は俺の両親が日本人だって知ってて……でもまあ俺は言ったんだ。出来心だったんだけど…………俺の本当の父親は外国人で俺はそいつに会ったことねーけど、俺の目はその父親譲りなんだって」
「あ……」
「担任はやべえと思ったんだろな。黙りこくって……いい気味だった。それから数日間なんもなくて……で、保護者会があって。家に帰ったらお袋に殴り飛ばされた」
「…………」
「あとはもう泥沼だった。お袋も親父も疑心暗鬼になって、罵りあって、俺も罵られて。半年後にやっとDNA鑑定して、親父の子だって証明されたときはもう、互いに愛人がいて家に寄りつかなくなってた」
他人事のようにスラスラと話し、アリトは笑みまで浮かべていた。
「アリト……」
「笑い飛ばされるかと思ったんだ」
アリトはふっと遠い目をした。
「嫌味な担任がいて……絡まれて……って。なにばかなこと言ってんのこの子は、って。頭を小突かれて、笑い話になる……そんなふうに思ってた。俺のひと言で家がめちゃくちゃになるなんて…………思わなかった」
「そんなの……そうだよ。まだ八歳とかで……」
「俺が壊した」
ミカの腰から手をはなし、アリトは上体をひいた。
「俺が自分の家族を壊したんだ。俺がここにいれば……俺さえいなくなれば……あの人たちは離婚して好きに生きていける。あそこに俺の居場所はない……てか……俺はいないほうがいい」
「だから……こっちにいたいの?」
「ああ。それに公爵が……あんな優しい目で親から見られんのは……久しぶりだったから」
身体はもう解放されて、立ち上がることもできた。
でもミカはアリトの上に座ったままで、その両頬に手をのばした。
「泣かないで」
「……泣いてない」
革の手袋は水滴をはじいて、涙は頬をつたい落ちていく。
ミカは頬に唇をあてた。
流氷のうかぶ冬の海みたいだった。
暗い海に双子の満月が光っている。
金の涙に濡れて、溢れ、零しながら。
アリトが首を傾けた。
唇は冷たくて、その先は熱くまとわりついて。
甘くもほろ苦くもなく、ただ切実な熱を孕んでいたから。
ミカはずっと、味わっていたかった。




