2-7 ミカ、舞踏会にいく(上)
アリスは数歩下がって、うっとりとミカの全身を眺めた。美しいドレスだった。いつものメイドのドレス-あのサーモンピンクや黒いウールの、詰まった襟元と長袖の禁欲的な-とはまるで違う。
庭園を絹で織りあげたようなドレスだった。乳白色の生地は滑らかで、光を浴びると金色にきらめいた。その右肩と、左の腰から右の裾にかけて、淡いピンクの薔薇と深紅の蕾と緑の葉がずらりと飾られている。花弁の一枚まですべて職人が絹でつくった造花だ。幾重にも重なったドレープは、ミカが動くたびに美しい陰影を生みだした。胸元は大きく開き、その丸みはリボンで強調されていた。対するように腰はほっそりと絞られて、お尻はバッスルで膨らみ、女性的な身体を際立たせるようなデザインだった。
栗色の髪は後頭部でまとめられ、巻き毛を後ろに垂らしている。手にした象牙の扇子には、繊細なレースが張られ、ミカの指先から上腕までは、羊革の長手袋にぴったりと覆われていた。そして首から鎖骨にかけて、淡く白い真珠のネックレスが三連つなぎで輝いていた。
「……お姫様みたい」
目の前でほうとため息をつかれ、ミカは顔が熱くなった。コルセットはいつもの倍ぐらい締め上げられてるし、胸はどう見ても開きすぎだし、真冬なのにほぼノースリーブだし、髪もあちこちピンで留められて頭皮が痛い。…………だけど。ミカは鏡に映る自分を眺めた。
確かに。
悪くないかも。
いかにもお高そうな、このドレスと宝石のおかげなんだけど。
でもちょっと……うん、悪くないかもしんない。
鏡の前でアリスと笑っていたら、不満そうな声が衝立のむこうで漏れた。
「……まだ僕は見ちゃダメなのか?」
アリスはぴょんと跳ねて、衝立を折りたたんだ。そう、ここは白の間。アンソニーの客間である。ミカは夜の仕事を終えたあと、アリスとこの部屋にやって来て、ドレスを着付けてもらっていた。
ミカに向き直り、そのままアンソニーは立ち止まった。アリスが嬉しそうに、その顔を見上げている。
「どうですか⁈ ミスター・アシュリー、すっごく素敵じゃありません⁈」
口元は固く引き結ばれ、すみれ色の双眸がじっとミカを見つめている。
視線が痛くて、ミカはおずおずと問いかけた。
「あーーーやっぱ、似合わないですか?」
アンソニーはのろのろと歩き、ミカの真正面に立った。首が傾き、金の髪がぱらぱらとミカの鎖骨にふれる。冷えた鼻先がミカの耳をくすぐった。吐息が肌にかかった。
「……あっ……あの……なにしてんですか?」
「……ゲランの……イムペリアル?」
「へっ?」
「いい匂いがする」
アンソニーの目が、床に広げられたトランクに動いた。昨日の昼に、ラチェットが持ってきたものだ。重たい革製のトランクには、ドレスに宝石、手袋や扇子といった小物類から、香水瓶までたっぷりと詰めこまれていた。香水は普段、使わない。学校でつけてる子もいるけど、ミカはシャンプーと柔軟剤の香りでいっかなと思ってて特にこだわりはない。でも初めてつけた香水は、爽やかな柑橘に甘い花の香りが戯れて、ほのかに草原に吹く風が混ざったような、なんとも言えない、いい香りがした。香水瓶はガラス製で、上部には半円が連なり、正面に蜂の意匠があしらわれている。
「トランクに入れてくれてたんで……使ってみたんですけど……」
「……姉さま、絶対おもしろがってるだろ…………僕のいちばん好きな香りだ……」
甘い声が耳元で響き、温かな息が鎖骨をなでた。ぞくりと身体が震え、軽く身じろぎすると、ようやくアンソニーは顔を上げた。今度は悩ましげな目でミカを見つめ、重いため息を吐きだした。
「…………もういっそこのままベッドに」
「へ?」
「……………………なんでもない」
低く呟いて、アンソニーは外套を手に持った。ミカが横をむくと、耳まで真っ赤になったアリスがなぜか一心にカーテンを見つめている。
……………………うわあああああアリスがいるの忘れてたあああ‼
ミカは身悶えしながら、心の中でアリスに謝りたおした。
◆
アンソニーと向かい合わせで、ミカは馬車の席に腰かけた。足からお尻、背中を通じて、重い振動が伝わってくる。タイムトラベルから約三週間、一度も屋敷を離れたことはなかった。外出が初めてなら、馬車に乗るのも初めてだ。馬車は小型の部屋のようで、窓の外は暗く、その四方に灯るランプがぼうっと車内を照らしている。肩に羽織った外套は、黒の天鵞絨に純白の毛皮が裏打ちされ、肌をふわりとくすぐった。紺色の座席にもたれ、アンソニーが窓を眺めている。彫像のような横顔は、憂いてどこか艶めかしい。席に着いてから、彼は一度もミカを見なかった。
「あのー」
「……なに」
目は窓に向けられたまま、素っ気ない声が返ってくる。窓を流れるのは、黒い田園と森、たまに村の明かりが点々と見えるだけだった。昼間ならともかく、そんな熱心に眺めるような景色には思えないけど。
「なんで舞踏会なんて誘ってくれたんですか?」
「……いやだった?」
「いえ、嫌じゃない……ていうかむしろちょっと楽しみで」
「ドレスが着たかったんじゃないの?」
「えっ……はい」
「せっかくドレスを着るんなら、どこか行きたいだろ?」
「まあ……はい」
アンソニーはちらと横目でミカを見て、また窓へと視線をもどした。
「……アリスが。きみがドレスを着たいって……言うから」
「……それで連れてってくれたんですか」
「……まあ僕も……見たかったし……」
アンソニーはきまり悪そうに口を閉ざした。声音は素っ気なく眉間にはしわが寄って、一見、不機嫌そうなんだけど。けど。頬はほんのりと赤みが差して、ちらちらとミカを見る目は潤んでいて……なんだか照れて拗ねてる少年みたいだった。
「ありがとうございます。詩の教授代って……むしろあたしのほうが貰っちゃって」
「別に。きみのその姿が見られてむしろ僕のほうが…………いやでも……」
アンソニーは指先を髪のなかに入れ、長い息を吐いた。
「…………蠱惑的だな」
「へ?」
「…………触っていい?」
「は?」
アンソニーは首をまわし、窓からミカに視線を移した。すみれ色の瞳が濡れたように、熱っぽくこっちを見つめている。
「……なにを?」
「……きみを」
「えーーーっと……だめです」
「……だめなのか」
深い深いため息を吐いて、アンソニーはまた窓に顔をむけた。
「…………あと一時間近くこのままって……拷問だな」
「へっ?」
「……………………なんでもない」
アンソニーは遠い目をして、真っ暗なガラス窓を見つめ続けた。
◆
遠くに明かりがきらめき、やがて風に乗り、軽快な音楽や低いざわめきが聞こえてきた。夜空は暗い紫色で、黒い木立の間から現われた屋敷は、まるでテーマパークのお城のようだった。三階建ての石造りで、尖った屋根はゴシックめいて、窓からはランプの光が煌々と輝いている。
「すご……シンデレラのお城みたい」
「はは、そうだね。公爵家と違って、この屋敷は今世紀に建てられたから。まあ……仮面舞踏会にはぴったりかもな。マードル夫人はヴェネツィア好きだからね。猥雑なのは嫌いじゃないけど……最近は飽きてあまり参加してないんだ。この雰囲気、久しぶりだな」
屋敷を見上げ、アンソニーは口元に笑みをうかべた。その目元は銀の仮面で覆われて、散りばめられた宝石が、明かりを映してきらきらと光っている。ミカもその隣に並び、目元に白い仮面をつけている。ドレスとお揃いで、薔薇の造花に縁どられていた。馬車を降りた二人は、玄関の前に立っていた。開かれた扉のむこうから、熱気とさざめきが伝わってくる。
クロークに外套や杖を預けて、ミカはアンソニーに続いて階段を上がった。楽団がにぎやかに音色を奏で、玄関ホールにも階段にも、仮面をつけた人びとがひしめいている。目元だけを覆う仮面、顔をすべて隠す仮面、白や黒、金、羽根かざり。薄暗い屋内のあちこちにロウソクやオイルランプが灯り、妖しげな光を揺らしている。おとぎの国に迷いこんだような、幻想的な雰囲気を醸しだしていた。
階段の踊り場で、女性が客人たちと挨拶を交わしている。アンソニーが仮面をずらすと、女性も仮面を上げて、にっこりと微笑んだ。
「ようこそ、ミスター・アシュリー。お久しぶりですこと」
「ご招待ありがとうございます、マードル夫人」
女性は好奇心をあらわにして、視線をミカに移した。
「こちらの愛らしいご令嬢は、どなたかしら?」
アンソニーは端正な笑みをつくり、口元に人差し指をたてた。
「秘密です」
「……あら」
ミカとアンソニーを交互に見やり、女性は愉快そうに笑った。ふたりを階上に通すと、女性はもう次の客人と話し始めていた。ミカは後ろを振りかえり、小声で尋ねた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。いつもの恋のゲームとでも思われてるんだろ」
軽い調子の返事に、ミカは胸がむかむかした。ふーん。いつもの。恋のゲームね。それからすぐに我に返った。いや別にアンソニーが誰となにしようと関係なくない⁈ 今夜は親切で連れてってくれただけで。別に付き合ってるわけでもないんだし。なにこの気持ち……嫉妬? いやいやまさか。まさかね。
「どうした? 顔赤いけど。熱い? なんか飲む?」
「はっ⁈ やっ……はい……喉が渇いて」
「先に喫茶室に行こうか」
アンソニーはすっとミカの手を取ると、舞踏室とは反対の部屋にむかった。
喫茶室では、白いクロス敷きのテーブルの端から端まで、お菓子や飲み物が並べられていた。紅茶やコーヒー、黄や橙、赤や白のグラスに、ケーキやビスケット、色とりどりのアイスクリーム。
「待ってて」
アンソニーは給仕の男性に声をかけ、すぐに戻ってきた。片手にグラス、片手にガラスの小皿を持っている。
「レモネードと苺のアイスでいい? 他にいるなら持ってくるよ」
「いや十分です。ありがとうございます」
冷えたレモネードと甘酸っぱい苺のアイスは、ミカの喉を潤してくれた。アンソニーは隣でちびちびと赤いグラスを傾けている。
「なに?」
「や、なに飲んでるのかなーって」
「飲む?」
アンソニーがグラスを差しだした。口に含めば、甘いワインにレモンが香り、炭酸が効いて飲みやすい。
「美味しい」
「クラレット・カップ。口当たりはいいけどブランデーも入ってるし。あまり飲み過ぎないほうがいいよ」
戻したグラスを受け取って、アンソニーは唇をつけた。
「アンソニーって……なんだかんだ紳士ですね」
ごほっ、と目の前で盛大にむせられて、ミカは黒い背中をさすった。
「は⁈ なにいきなり」
「や、口当たりいいお酒ばんばん飲ませて酔わせよーとする人いるじゃないですか。でもノンアルくれるしちゃんと注意してくれるし。いい人だなって」
「そんなの当然……てか無理やり酔わせてどうこうしてもお互い楽しめないだろ」
眉を上げて首を傾げるアンソニーに、ミカは頬をゆるめた。やっぱこの人のこういうとこ……わりと、うん。嫌いじゃないかも。
◆
演奏が鳴り止み、喫茶室に人波がやってきた。アンソニーはミカの手を取った。
「次の演奏が始まる。そろそろ行こうか」
舞踏室では客人たちが会話に花を咲かせ、また踊りの列を組み始め、あちこちで囁き声がうねりを上げていた。部屋の奥にはオレンジとレモンの木々が生い茂り、その陰に楽団が腰を下ろしていた。空気は人びとの熱に満ちて、歓喜と誘惑、世辞と嘲笑、策略と裏切りの匂いがした。ミカは胸が高鳴りながら、同時に足がすくんでしまった。
(……なんか。すごいとこに来ちゃった気がする)
立ちすくむミカの手に、アンソニーが触れた。
「どうした?」
「いや……ちょっと。圧倒されちゃって」
アンソニーは手をつかみ、ミカの正面に立った。
優しく口元を上げ、甘い声が囁いた。
「ミカ。僕と踊っていただけますか」
「……はい」
まるで淑女に対する申し出のようで、迷うよりも先に言葉が口をついた。弦楽器が高らかに鳴り響く。アンソニーは陽気な声を上げた。
「こうもりのカドリールだ。行こう」
列に並んで、ミカはアンソニーと向かい合った。アンソニーが礼をする。ミカは片膝を折った。今夜、初めてのダンスが始まった。
◆
アンソニーと手を触れあわせ、また離しながら、ミカは円を描くようにステップを踏んだ。舞踏会といえば、パートナーと密着して動きまわるワルツのイメージだったけど、いま踊ってるのはカドリール。動きはゆっくりで、ほとんど歩いてるのと変わらない。おばあちゃまでも踊れそうな優雅なダンスだった。この三日間、休憩のときに練習して、ひと通りの動きは出来るようになった。緩やかな踊りで息も切れないから、会話もできる。
「恋のゲームって……よくするんですか」
「え?」
「さっき階段で話してた」
「……ああ」
四人で列を組み、アンソニーと手をつなぐ。
「そうだね」
「……そうなんだ」
「酷い男だから」
「……え?」
前へ。後ろへ。また向かい合わせに戻る。
「酷い男だからね、僕は。なら、それらしく振る舞ってやろうじゃないか……なんてね。思ったりして」
「そんな……」
「今さら本気の恋なんて……できないと思ってた」
仮面の奥を見つめながら、互いに近づいては、離れていく。
「……本気の恋って」
「きみだよ」
優雅に八の字を描き、背中合わせに、またくるりと回って手をつなぐ。
「……結婚て。冗談でしょ?」
「本気だよ」
「だってあのとき……まだ初対面で」
「うん」
見つめ合い、くるくると円を描いていく。
「夢かと思った」
「え」
「月明かりの中にきみがいて……夢を見てるんじゃないかって。夢なら覚めないでくれって……怖くて、触れたくて、懐かしくて、愛しくて……僕のなかに閉じこめたかった」
「……似てますか、あたし」
一歩踏みこんだミカを、アンソニーは測るように見つめ続けた。
「…………似てる」
「……マイケルに?」
「マイケルにも……ミシェルにも」
「ミシェル?」
「マイケルの母親だ。あいつは彼女にそっくりだった……きみも。僕の初恋だった」
右手が触れる。くるりと回り、次は左手が。
「……初恋のひとに似てるから。結婚したいんですか」
「そう思った」
「それって……ただの」
「身代わり」
「……はい」
八の字に動いたら、また列を組んで手をつなぐ。
「きみがどんな人間でもいいと思ってた。財産目当てで公爵家に乗りこんできた娘でも、欲にまみれた女でも……僕だって同じぐらい汚いからね」
「あたしは……」
「……いっそ、そんな女なら良かったのに」
アンソニーが低くささやいた。
「それなら……きみはもう僕のものだったかもしれないのに」
「あたしは……あたしのものだし」
「好きだよ」
両手を開き、くるりと回り、また手が触れあった。
「きみが好きだ」
背を向けて、すれ違い、また近づいていく。
「まっすぐに僕を見て、言いたいことを言うきみが好きだ。嫌なことは嫌だと。嬉しいことは嬉しいと。気持ちをぶつけてくれるきみが好きだ」
列を組み、手をつないで、前へ、後ろへ。
「ずっときみを眺めていたい。きみが傍にいると嬉しい。きみに触れたい」
くるくると動き、また向かい合う。
「抱きたい。死ぬまで一緒にいたい」
手をつないで円を描きながら、耳元に囁きが降りそそぐ。
「身代わりだとも、身代わりじゃないとも言えない……自分でももうよく分からない。ただ……きみが好きだ。きみが好きなんだ、ミカ」
くるりと回って、また最初の列に戻った。
「……アンソニー。あたしは」
「答えは今じゃなくていい。少しでも僕に好意があるなら……これからゆっくり好きになってくれ」
アンソニーはミカと向かい合った。アンソニーが礼をすると、ミカは左膝を折った。今夜、最初のダンスが終わった。
手をつないで列から離れていくと、人の群れから、すっとひとりの女性が近づいてきた。紫色のドレスに金の仮面を身につけ、赤い唇が笑みを深くしている。アンソニーの前に立ち、女性は仮面をずらし、目元をあらわにした。唇が愉しそうに言葉をつむぐ。
「あら、奇遇ですこと、ミスター・アシュリー。こんな夜にお会いするなんて」
アンソニーの銀の仮面を見つめ、エリザベスは顔いっぱいに笑みを広げた。




