2-6 あちらこちらで(下)
『ご主人様。セブノークスの屋敷とワイト島の館を調査したところ、彼女に似た人物がいたという証言はなく、ご姉妹の嫁ぎ先も同様でございます。お望みであれば、私が直接ワイト島を訪問いたします。W』
公爵は紙片を暖炉に投げ入れた。火に呑まれ、みるみる炭になっていく。
応接間の窓からは、リージェンツパークの木立が見えた。側道のアウターサークルでは、黒のボンネットを被ったナニーたちが、灰色や暗紫色のコートを着こみ、乳母車を押し、あるいは小さな手をひいて、自分の姿を見せつけるように歩いている。
扉が開き、ひとりの男が入ってきた。公爵に似たヘーゼルの瞳は、穏やかに細められている。口を開けば、控えめで柔和な声が印象に残った。
「兄さん」
「やあ、ウォルドーフ。相変わらずロンドンは賑わっているね。田舎者には刺激が強い」
「なにを言ってるんですか。つい二週間前、あの子を連れてきたばかりでしょう」
微笑を返し、公爵は椅子に腰かけた。ウォルドーフも向かい合って座った。
まもなく、パーラーメイドが現れた。ふたりの傍のテーブルに茶器を並べていく。蓋を開けると、澄んだ翡翠色が目にまぶしい。清国の景徳鎮窯の蓋椀は、日本の茶人のための古染付だ。青い牡丹の陰影が艶めいて美しい。この東洋の茶葉は、ウォルドーフが親しい者にしか示さない、歓待の印だった。
「それで進捗はどうだね」
「このような手紙をくれましたよ。兄さんの望みどおりでしょう」
「ふむ……」
公爵は手紙を受け取り、つらつらと目で追って、満足そうに髭をなでた。
「そうだ。これでいい」
「あとは出生関係の書類さえ揃えば……証明は可能かもしれません」
「可能にするよ」
「…………兄さん。ジョージに何度か会いましたがね。彼はいい子ですよ。善良で気立てがいい。そんなに彼が不満ですか?」
軽く眉を上げた公爵は、少年のように苦笑いした。気を許した相手にしか見せない、彼の素顔だった。
「いや。彼が不満なわけではない。分かっているよ。あれが両親の気質を受け継がず、いい人間であるようだとは……だが私はアリーがいいんだ」
「確かに聡明な少年でしたね。見目もいい。それに物おじしない所も、兄さんは気に入ってるんでしょう?」
「ああ……私はおどおどされたり、卑屈な態度を取られるのは好きじゃない。気位が高いほうがいい。まあ、あまり高慢な女性は好ましくはないが……」
ウォルドーフは吹きだした。
「サザランド夫人は……ぼくは嫌いではないですよ。お上品ぶって本心が見えない貴婦人方より、むしろ清々しいじゃないですか。自分の望みに忠実で。彼女が男なら、兄さんと気が合ったと思うけどな」
「よしてくれ。私はミシェルのような、儚い女性が好きなんだ。おまえもそうだろう?」
ウォルドーフは肩をすくめて、暖炉の上に目をむけた。彼の亡き妻が好んだ、ロランの風景画が掛けられている。水色の空の下で、木が静かに立っていた。
「……養子として出来ることをしてあげるだけでは、だめなんですか?」
「……アリーはマイケルの墓にいたんだ。埋葬の日に」
「…………兄さん」
「愚かだと思うかね? マイケルが、彼を私に遺してくれたと……そんなふうに思うだなどと」
「……いや。兄さんの辛さは……兄さんにしか分からないから」
「私はマイケルに優しく出来なかった。私の機嫌を伺うようなあの子と、どう接していいか分からなかった……あの子に出来なかったぶん、せめてアリーは幸せにしてやりたい。だが……自分でも分からない。私はただ、妄執に憑りつかれているのかもな」
公爵はゆっくりと室内を見まわした。
貴族の屋敷にある、中国の部屋のような派手さはない。濃い緑に金模様の壁紙は、控えめながら趣味がいい。マントルピースに飾られた白磁や、漆塗りの衝立は、英国で買い求めた物ではなく、ウォルドーフが現地で集めた物ばかりだった。
「それにしても……まさかあの子が、ぼくの子どもになるとはね」
「子どもになるんじゃない、子どもなんだよ、ウォルドーフ。おまえの亡き妻が上海で産んだ……おまえの子どもだ」
テラスハウスの一角で、兄と弟は秘密を共有する少年のように、意味ありげな視線を交わした。
◆
「えっ? もういいの?」
「はい。今夜からは同じ詩でいいって、アリー様が……なんでもう大丈夫です。二日間、ありがとうございました。助かりました」
ミカは深々と頭を下げた。顔を上げたら、アンソニーが口を尖らせていた。
「……あいつ。そんなに二人きりにさせたくないのか」
「へ?」
「御礼をもらおうかな」
「へっ?」
「二日間の教授代」
丁重な紳士らしい所作で、アンソニーは手を差しだした。
ミカはその手を見つめ、かたまった。
いやそんなそっちから教えようかって言っときながら。
……どっかの押し売り商法かな。
いやでも教えてもらったのは確かだし……まあね。うん。
「あの……できたら九シリングと六ペンスの範囲内で……」
「舞踏会」
「は?」
「舞踏会に行こう」
「……は?」
「明後日、マードル夫人の仮面舞踏会に招待されてるんだ。行くつもりはなかったけど……ちょうどいい。ミカ、一緒に行こう」
「なっ……なんでですか⁈」
「うん? 行きたくない? きれいなドレスを着て。宝石を身につけて。楽団が演奏するなかでダンスを踊るんだ」
舞踏会。ドレスに宝石。楽団。ダンス。うわあ……いかにも19世紀の英国って感じ。映画のセットみたいな世界。行ってみたい。正直、ものすごく行ってみたい。いやもちろん21世紀にも帰りたいけど。それとこれは別腹っていうか。だってほら。舞踏会に行く機会なんてもう一生ないだろうし。
「いいんですか? メイドが舞踏会なんて」
「だめだろう」
アンソニーの言葉にずっこけそうになった。いやいやだめなんかい。
「メイドならね。でもドレスを着て仮面を着けたきみなら……誰もメイドだなんて、思わないだろう?」
アンソニーは片目を瞑ってみせた。
ミカはごくりと唾を飲んだ。
「いや?」
「いっ……行ってみたい……です」
「うん。じゃあ、姉のドレスを送ってもらおう。電報を……ああでも宝石があるから……いいや、ラチェットを向かわせよう。明日の午前中には届くだろう」
アンソニーは本棚の前を通りぬけ、楽しそうにベルを鳴らした。
◆
「はあ⁈ 舞踏会にいく⁈」
アリトは布団をはねのけて、ミカへと身を乗りだした。
思いがけない反応に驚きながら、ミカは軽くうなずいた。
「うん、明後日、仮面舞踏会があるんだって」
「で……アンソニーと一緒にか?」
うなずくミカに、アリトが低くうめいた。
「おまえ……前にあいつがなに考えてっか、よく分かんねーって言ってなかった?」
「うん。でもなんか話してたらそんなでもないっていうか……わりとふつーっていうか……最初はなに考えてんだこの人って思ったけど。けっこう親切だし」
「結婚。キス。…………アレなに?」
「…………あーーーー。…………覚えてたんだ」
「……覚えてたけど。で?」
「…………結婚しようって。そんで、キスされたことが」
「はあっ⁈」
うわあ。近い。アリトの顔が近い。
金色の瞳に射すくめられ、ミカは動けなかった。
「……いつ?」
「前、前、ずっと前! 初めて会ったとき! 冗談! たぶん冗談だから‼」
笑って手を振るミカに、アリトの目がすっと細くなる。
いやそんな目で見なくても。
欲しいとか抱きたいとか言われました、とか。
…………絶対、内緒にしとこ。
アリトは眉をひそめ、長々と息を吐きだした。
「冗談て思ってんの、おまえだけなんじゃね? どうすんだあいつに無理やり襲われたら。一応、上流階級の客人とメイドなんだ。立場が弱ぇのはおまえなんだぞ?」
「襲われ……って、ないない! なんかね、軽口ばっか叩いてるけどこっちが本気で嫌なことはしてこない感じ」
「へえ……信頼してんだ」
「信頼……はしてないかな、まだ。そこまで気は許せないっていうか……アリトとは違うっていうか」
「……俺?」
「うん。アリトは信じてるけど」
口元を上げて見つめるミカに、アリトは不意を突かれた顔をした。
「……………………っそ」
低い声がぼそりと吐かれ、寝室が静まりかえった。
沈黙に戸惑いながら、ミカは膝にのせた詩集を開いた。
「てかさ。ほんとに同じ詩でいいの? 新しいの覚えなくて」
「いい。もうあいつとは…………いや。それ気に入ってるし」
ミカは詩集に目を落とした。
「……前さ、ケンカ売ってるって言ってたじゃん?」
「……ああ」
「なに、してんの?」
「…………俺は公爵家を継げねーんだ」
「え?」
「跡取りになれるのは嫡出子の男だけだ。養子じゃ無理なんだ」
「……でもアリト……公爵の跡を継ぎたいって……」
「ああ…………だから嫡出子になろうとしてる」
「……え?」
「公爵は三人兄弟の長男だ。子どもはマイケルだけでもう亡くなってる。次男のウォルドーフは子どもがいない。三男のロバートはもう亡くなって、そのひとり息子がジョージだ。だから次の爵位継承者は次男で、その次はジョージになる」
「うん」
「じゃあ、もし次男に子どもがいたら? そしたらジョージじゃなくて、その子どもが爵位を継ぐことになるだろ?」
「……うん」
「その子どもが……俺だ」
ミカはアリトと視線を交わした。金を縁どる長い睫毛が影をつくった。
「次男のウォルドーフは外務省で働いてて、しばらく上海に駐在してたことがある。現地の女性と結婚して、英国で暮らしてたそうだ。でも彼女は、父親が倒れて上海に戻ってそのまま亡くなったらしい」
「……うん」
「だから…………彼女が上海に戻ったとき、次男の子を妊娠していたと。彼女はその子どもを産んで亡くなったと。彼女の父親は、娘の忘れ形見を手放したくないと考えて、次男に子どもが産まれたことを伝えなかったと。でも年老いて自分の死期が近づいて、子どもを本来の立場に戻してやりたいと考えたと…………そして、ウォルドーフの息子のアリーは、上海から英国に戻って、公爵家で内密に教育を受けている、ってな」
「……そんな……ほんとに? できるの?」
アリトは薄い笑みをうかべた。
「正式な婚姻で結婚証明書もある。ふたりが英国で暮らした時期と、子どもの年齢も合ってる。彼女の父親の証言、次男の認知、それに書類が揃えば……可能性はある」
「……でも……それってさ……」
「偽装な」
「…………うん」
目の前の双眸は、まっすぐにミカを見つめていた。悪意も後ろめたさもなく、澄んだまなざしだった。
「正しいことをしてるとは思ってねえ。ジョージにも悪いと思ってる。だけど……これは父の望みで……俺の望みでもある。俺は父のあとを継ぎたい。やれるだけのことをやって、それでダメなら……そんときは捕まってもいい」
「……捕まるって……まさか……」
「なにも失わずに手に入れようなんて思ってねえ。ただ…………この世界で、自分の居場所が欲しいんだ。養子じゃなくて、もっと確かな居場所が欲しい。あがいて手に入るんなら……なんとしてでも手に入れたい」
ミカはなにも言葉を返せなかった。
アリトの笑顔は、泣いてるみたいで。
間違ってる。
間違ってるとは思うけど。
そんなのアリトだって分かってて。
ジョージは気さくでいい人だって思う。
でも。
こんな顔、見ちゃったら。
ミカはぎゅっとまぶたを閉じた。
…………叶って欲しいと、願ってしまう。
◆
アリトの部屋から一階に戻り、ミカは廊下を歩いていた。右手の使用人ホールから、薄っすらと明かりが漏れている。
(……めずらしいな。こんな時間に)
扉の陰から覗いてみると、アルバートの頭が見えた。椅子に腰かけ、長テーブルの片隅で手を動かしている。
「なにしてるの?」
後ろから声をかけると、大きな背中がびくりと震えた。天板には紺色のお仕着せが広がっていた。アルバートの右手に針が、左手には銀のボタンが握られている。その指先に、ぽつぽつと赤い球がついていた。
「大丈夫? 針、刺しちゃった?」
「あ……」
アルバートは苦笑いを浮かべ、こくりと頷いた。
「ボタン取れちゃったんだ?」
アルバートは首を縦にゆらした。
「ボタン付け……苦手?」
アルバートは照れくさそうに微笑んだ。
「あたし、付けよっか?」
アルバートはぱちぱちと目を見開いた。
「借りていい?」
おずおずと頷き、アルバートは椅子を横にずらした。
ミカは隣に並んで、針を手に取り、するすると刺しこんでいく。
(こっちに来てわりと繕い物してるから……けっこう慣れてきたんだよね)
糸を引いて結び、ハサミで切った。
「はい。そんな上手じゃないけど。これでいいかな?」
上着を畳んで立ち上がると、アルバートがこっちを見上げていた。
ミカを見つめて、もどかしそうに口を開けては閉じている。
「遅くまでお疲れ。じゃあまた明日ね」
「み……」
「うん?」
「みみみみみみ……ミッ……カ」
「……うん」
「あっ……あああああっ……りがっ……とっ……」
アルバートは息を吐いて、きまり悪そうに笑った。
(あ……これ……なんだっけ。えーーーーっと)
「……吃音?」
アルバートは笑ってうなずき、髪を片手で掻きまわした。
「おっ……おおおおっかしいよね……わっ……わらっていっいいいよ……」
ミカは目を丸くした。
「へ? おかしくないし。一生懸命喋ってくれようとしてんのに、なんで笑うの?」
アルバートの手がぴたりと止まった。驚いたようにミカを見つめている。
「…………」
「……え? あたし、なんか変なこと言った?」
ゆっくりと首を横にふり、アルバートはまぶしそうに目を細めた。
「あっ……ありがっ……とうっ……おっ……おっ……おやすみっ……ミッ……ミッカ」
「うん。おやすみ」
ミカも笑ってホールをあとにした。
◆
時をさかのぼり、六時間と少し前。
三階で、使用人扉がわずかに開いた。男が顔をのぞかせ、廊下をきょろきょろと見まわした。赤の間の扉で立ち止まり、耳をつけて室内をうかがった。小さなノックの音が響いた。サザランド夫人が扉のなかで、不機嫌そうに男をにらみつけている。
「…………わたくし、あなたを呼んだ覚えはないのだけれど。ラチェット?」
「奥様。ご無沙汰しております」
「今からお茶に下りるところなの。なにか言伝でもあるのかしら?」
「折り入ってお話が。奥様にもお役立ちのことと存じますが」
サザランド夫人は訝しそうに男を眺め、逡巡する様子をみせた。扉をそっと開き、男を部屋のなかに入れた。両腕を胸の前で組み、高慢な顔つきでラチェットを見上げた。
「それで?」
「……私の新しいご主人様は、大変愉快な方でございます」
「……一体、なんの話をしているの?」
「メイドを着飾らせて、舞踏会に連れていくご趣味をお持ちのようで」
「…………ミカね?」
「これからアシュリー邸に向かうようにと。たかがメイドのために、ドレスと宝石を借り受けろとの仰せです」
ラチェットは仰々しくため息を吐いた。
「アンソニー様はもちろん、サー・ハリーやサー・ヘンリーのような方々とは違います。メイドを娶るなどと愚かな真似はしませんでしょう。ですが念のため……あなたのお耳に入れておいた方がよろしいかと。少々、ご執着が過ぎるような気がいたします」
「……あの坊や。わたくしにひと言もなしに……」
ラチェットは足を踏みだし、サザランド夫人の手を取った。従者には馴れ馴れしすぎる行為である。しかしサザランド夫人は叱ることなく、むしろ怯えるように身体を引いた。ラチェットは手を放すことなく、ピエロのように笑みを貼りつけた。
「なに、奥様。礼には及びません」
「あ……ああそうね。お礼をしなければね、ラチェット。お待ちなさい、金貨を……」
ラチェットは腰を屈め、滑らかな手の甲に唇をあてた。
「私は金貨でなくても……構いませんが」
「…………ラチェット。あなたは望みどおり、第二フットマンから従者になれたわね? わたくしは今、ミスター・アシュリーと親しくしているの。あなたは賢い人だもの。意味は分かるわね?」
「……奥様の仰せのままに」
ラチェットはソブリン金貨を受け取ると、慇懃に礼をして部屋を下がった。サザランド夫人は扉をにらみ、震える手でハンカチを取りだした。手の甲を強くこすり、ハンカチをゴミ箱に投げ捨てた。白い肌がこすれて赤く染まっていた。




