2-6 あちらこちらで(上)
「記憶は戻ったの、ミカ?」
「いいえ、まだです。奥様」
エリザベスの態度はいつもと変わらなかった。昼食前の着替えの度に、彼女はこの質問をする。ミカの答えも毎回同じだった。仕事を終えると、ミカはそそくさと部屋をあとにする。いろいろ聞かれると面倒だし。でも今日は逃げられなかった。お辞儀をするミカの手を、エリザベスの両手が包みこむ。ジョージと同じ濃い茶色の瞳が、突き刺すように覗きこんでいた。
「メイドの仕事は大変でしょう?」
「いえ、もう慣れました、奥様」
エリザベスは視線を下げた。
「かわいそうに。こんなに荒れた手をして。痛そうだわ」
「大丈夫です。あ……」
「あ?」
「あはは……慣れましたんで」
アンソニーがくれた軟膏があるんで……なんて言ったら、神経を逆撫でしそう。ミカは昨日の図書室を思い出した。あれ、エリザベス見てたよね、絶対。アンソニーはゲームの恋って言ってたけど、自分の愛人が他の女と一緒にいたらいい気はしないはず。だって今日、言葉はいつもどおりだけど…………目の冷たさが五割マシな気がするもん。うう、冷たい。19世紀の英国はもう十分寒いのに。
「ミカ……違う生活をしてみたいとは思わない?」
「え?」
「もっと楽な生活よ。暖炉の火熾しも食事の準備も洗濯も、すべて使用人がしてくれる生活……あなたさえ望めば、それが手に入るの」
「……え?」
「あなたは……そう。きっと自分が貰うべきものを貰うために、この屋敷に来たのでしょう。それなのに公爵は記憶喪失をいいことに、知らぬふりで使用人として雇うなんて……ほんとうに酷いわね。ねえ、わたくしたち女同士、助け合えると思わない? わたくし、あなたの力になりたいと思っているのよ。あなたさえ、わたくしに協力してくれれば……家もお金も使用人もすべて用意してあげるわ。どう? ミカ。悪い話じゃないでしょう?」
エリザベスは飼い猫を可愛がるように、包んだ手を撫でてくる。ホワイトリーと違って、やわらかく滑らかな指先だった。だけど……執事さんの手はごつごつして硬くても心地いいのに。この手は……まやかしの温もりのようで、今すぐに振り払ってしまいたい。
「いえ、奥様。自分のことは自分でやりたいんで。大丈夫です」
「…………変わった子ね」
エリザベスは眉根を寄せたあと、わざとらしく微笑んだ。
「いいえ、そう、きっとあなたは謙虚な子なのね。そうに違いないわ。だから……ねえ、ミカ。愚かにも上の階級の人間が、あなたを見初めて結婚してくれるだなんて……そんな夢物語のようなこと、まさか信じてはいないわね?」
「はい、奥様」
まだ高校も卒業してないし。てか彼氏さえいないのに結婚て。
「……ミスター・アシュリーは誰にでも思わせぶりで……困った人ね?」
「いえ特に困ったりは」
最初はともかく、最近はふつーに親切だし。まあ揶揄われてる気はするけど。別に嫌な感じじゃないし。一緒にいてわりと楽しいし。
「……なにを笑っているのかしら」
「……っ!」
うわ! 爪! 爪刺さってますよ⁈ しまった思い出し笑いしてたかな。エリザベスの顔が能面みたいに無表情で……こ、怖い。
「わたくしの言うとおりになさい。そうして……早くこの屋敷から立ち去りなさい」
エリザベスは手を放した。その顔は珍しく、苛立ちがあらわになっている。ついと彼女の視線が窓に移った。南向きの窓には、薄氷のような空が広がっている。エリザベスは少女のように空を見つめ、それからミカに向き直った。いつもと同じ、温度のない儀礼的な笑顔に戻っていた。
◆
「ミカ、その手、なんか赤い点々になってるけど……大丈夫?」
「ははは、へーきへーき。へんな虫にでも刺されたのかも」
昼食を終えて(今日は日曜なのでローストビーフ)、午後の仕事はリネンの繕い物。もう慣れたから手だけ動かして、お喋りは自由にできる。ちなみにエロル夫人は時間休。たぶんジョイを訪ねてるんだと思う。
「あの軟膏、塗ったらいいんじゃない?」
「あ、ラベンダーの? そうしよっかな」
アンソニーの軟膏は好評で、みんなの手荒れもだいぶ治まってきた。軟膏とか生理痛とか詩とか。なんだかんだで助けて貰ってるんだよね。アリスと話してたら、ローズが手元から顔を上げた。
「ねえアリス。この前の雑誌、私たちも今度見せて貰っていい?」
「うん、もちろん! ローズはどんな洋服が好き? この前の青いドレスも素敵だったね」
「あれはロンドンで買ったんだ。マーガレットも一緒に」
「ね」
ふたりは顔を見合わせ、にっこりと笑った。ミカも顔をほころばせた。
「ふたりとも仲良いよね。ずっと前からの友だちみたい」
「私たち、前の屋敷でも一緒に働いてたんだ」
「そうなんだ!」
アリスが驚きの声を上げた。マーガレットが微笑んで、ローズの言葉を引き継いだ。
「ロンドンのタウンハウスで働いていたの。ローズはヘッド・ハウスメイドで、わたしは第三ハウスメイドで。仕事もできるし自分の意見もちゃんと言えるし、わたしの憧れだったんだ」
「やめてよー照れるよ」
うつむいて針を動かすローズに、みんなが笑い声を上げた。
そんな有能なのに、なんで仕事を辞めたんだろ?
ローズもマーガレットもやっぱ訳アリ……なんだよね?
ミカの疑問に答えるように、マーガレットがうなずいた。
「じゃあなんで仕事を辞めたんだ、って思った?」
「ううん……うん。思った」
「ご家族の真珠を盗んだの」
「えっ⁈」
ミカとアリスは思わず手を止め、同時に叫んだ。ローズは哀しそうな目を、マーガレットに向けた。
「ご家族の真珠のネックレスが紛失したんだ。それでマーガレットが犯人だって。夜中に部屋に出入りする姿を見たって、ご子息が証言したんだ」
「それで……?」
ミカは息をのんだ。マーガレットが慈しむように、隣に座るローズを見つめた。
「ご家族からも他の使用人からも責められて……ローズだけが、そんなことするはずないって庇ってくれたの。それで結局、ふたりともクビになっちゃって……警察沙汰にはならなかったけど……紹介状がないから次の仕事が見つけられなくて」
「ふたりでハイドパークのベンチに座って、どうしようって話してて、そんな時にミスター・ホワイトリーに声を掛けられたんだ。私たちの話を聞いて、調べてくれて、犯人がご子息だったって突き止めてくれた」
「ええっ⁈」
「酷い話だよ。ギャンブルの借金を返すために、自分が盗んでマーガレットに罪を着せたんだ。だからミスター・ホワイトリーは、私たちの恩人なんだ。感謝しても、し足りない」
マーガレットが小さく呟いた。
「もちろん、ミスター・ホワイトリーは恩人だけど……わたしにとっては、ローズも大切な恩人なの。疑われて目の前が真っ暗になったとき、ローズが味方になってくれて……ものすごく心強かったの」
ローズは「別に当然だし」と頬を染めた。
「私はシルクのストッキングが欲しいかな。前の屋敷じゃ禁止されてたけどこの屋敷ならエロル夫人が許してくれてるし」
早口で話題を変えるローズに、アリスが目を輝かせた。
「うわあ! いいよね、わたしも欲しい! まだちょっと早いかなって思うけど……でも黒のウールじゃなくて、藤色とか格子模様のシルクのストッキング! 憧れちゃう」
「いいね、アリス可愛いもん。絶対似合いそう」
不思議の国のアリスみたい。ウサギが現れちゃうかもね。
「ミカは? どんな洋服がいい?」
「あたしは……」
アリスの雑誌を頭のなかで捲ってみる。海辺を歩いたり、公園を散策したり、ピアノを弾いたり…………でもやっぱり。ミカは満面の笑みをうかべた。
「ドレスかな。舞踏会とかで着るようなやつ。いかにも19世紀の英国って感じで……一生着る機会なんてないだろーけど」
「うわあ……絶対、絶対すてき! ミカのイブニングドレス姿、きっとお嬢様みたいだよ!」
アリスがぱあっと嬉しそうな顔になる。
いやそれは欲目だと思うぞ。
「うん、ミカは背も高めだしほっそりしてるし、ドレスが似合うね」
「肌のきめも細かいし、シャンデリアの光もよく映えると思うわ」
ローズとマーガレットがにこにこと同調してくれるから、ミカは気恥ずかしくて、せっせと針を動かした。
◆
リネンを両手に抱えて、アリスは三階の廊下を歩いていた。白い小山は彼女の背よりも高く、視界は塞がれている。どん、と音がして、深紅の絨毯に白い布が舞い散った。
「わああ‼」
「……大丈夫か?」
「ひゃ‼ あ、アリー様っ‼」
散らばったリネンの真ん中に、アリトが立っている。黒いブーツを履いて山高帽をかぶり、これから午後の乗馬に出かける様子だった。
「もっ‼ 申し訳ありません……‼」
真っ青になって頭を下げるアリスに、アリトはひょいと腰をかがめた。手際よくリネンを集めていく。アリスも慌てて腰を落とし、リネンをかき集めた。
「……こんなに沢山、一度に持っていくよう言われるのか?」
「あっ、いえ! わたしが持てるってはりきって……調子に乗っちゃったんです……」
「ははっ。そうか」
アリトが白い歯を見せた。アリスは小さな指先で、エプロンをぎゅっと握りしめた。
「どこに持っていく? 私の部屋か? それとも父の? 客間か?」
「あっ……これはご家族のぶんで……あとはバスルームと」
「なら私と父のぶんは預かろう。おまえはバスルームに持っていきなさい」
「ひぇ⁈ そそそんな……‼ アリー様にお持ちいただくなんてそんな申し訳ない……‼」
「……洗濯物なんて、あっちじゃ俺が畳んでたし」
ぼそりと漏れた声に、アリスが目を丸くした。
「へっ?」
「……ああいや、なんでもない。無理をしなくていい。これからは、自分で持てるぶんだけ運びなさい」
アリトは目尻にしわを寄せ、片手でリネンを抱えた。
「は……はいっ……」
リネンを積み上げ、ゆうゆうと歩く後ろ姿を、アリスは早足で追いかけた。その頬は火照り、目は熱っぽく潤んでいた。
◆
リネンを運び終え、夕方のお茶まではまだ少し時間があった。アリスは池のそばの小道を歩いていた。水面にさざなみが立ち、鴨の群れが音もなく横ぎっていく。にっこりとその群れを眺め、アリスは空をあおいだ。白く連なる雲の果てが黄金色に染まり、一日の終わりを告げていた。その果てを追うように歩いていると、ふいに何かにつまずいた。アリスはいい音を立てて、地面に両手をついた。
「いっ……たあ」
砂利道に黒い影が伸び、手が差し伸べられた。とっさにその手を掴んだら、ぐっと全身を起こされた。
「なにやってるの。ドジだねえ」
「ミスター・アシュリー! あ、ありがとうございます」
アリスのドレスをぱんぱんと叩き、アンソニーは膝をのばした。
「ぼんやり歩いてると、またこけるよ」
「はっ、はい! すみません」
「別に謝らなくても……なに? 散歩?」
「はい。ちょっと……気持ちを静めようと」
「ふうん。なにかあった? 鎮めなきゃならないこと」
「へっ⁈ いや、ないです! なんにも! なんっにも‼」
「……きみもへんな子だねえ」
アンソニーは呆れた顔で、アリスと並んで歩きだした。
「もうすぐお茶の時間だ。きみも屋敷に戻るんだろう?」
「あ、はい。え……と、ミスター・アシュリーは」
「僕は図書室に行く。ミカがいると思う」
「あ……そっか。詩を教わってるんでしたっけ」
「なんだ? きみまで知ってるのか」
「はい、同じ部屋なので」
「ああ……」
アンソニーは初めて興味を示した様子で、まじまじとアリスを眺めた。
「あ、あの……なにか?」
「ミカは……部屋でなにか話してる? 僕のこと?」
「へっ? いえなにも特には……」
「……あっそ」
アンソニーは両手を後ろで組み、つまらなさそうに呟いた。ふいに立ち止まり、口元に手をやって俯いた。
「ミカは……なにか欲しい物とか話したりしない? あの軟膏以外にもっと……なんかこう、女の子が欲しがるような」
「へっ? え……えーーーっと……あっ! ドレス‼」
「……ドレス?」
「はい! 舞踏会に行くようなイブニングドレスが着たいって……わたしたちメイドが着たりは出来ないですけど……でも絶対、ミカに似合うと思うんです!」
「…………いいな」
「へ?」
「…………イブニングドレスか。いいな」
「……ですよね?」
「…………絶対、似合うな」
「ですよね⁈」
「…………見てみたい」
「ですよね‼」
「……きみはなかなか、見る目があるな」
「ミスター・アシュリーこそ!」
ふたりは熱く見つめあった。なんだか妙な連帯感が、生まれてしまったようだった。




