2-5 ミカ、夜に詠う(下)
薄暗い寝室に、ランプがぽつりと灯っている。四柱式ベッドの柱は螺旋となり、上部には金色の短いカーテンが吊るされている。背後の壁は一面がタペストリーで覆われている。アリトがその手前で、ベッドに上体を起こしていた。白い頬に、首すじに、艶めいた緑のガウンに、光が波紋のように揺らめいている。ベッドの隣に座り、膝のうえで詩集を開いて、ミカはゆれる光を見つめていた。
「マイケルも、おまえと似た懐中時計を持ってたって?」
「うん。それにアンソニーは友だちだって。ジョージも」
「……おまえは誰なんだろうな?」
「……あたしはあたしだよ」
「……知ってるけど」
光を映して金色の瞳が濃くなった。アリトはふっと視線をはずし、落ち着かない様子で指を組みかえた。
「あのさ」
「……うん」
「……別に寝室じゃなくてよくね?」
ミカから目を逸らしたまま、低い声がぼそりと漏れた。
「え……だって眠るためだし。寝てたほうがよくない?」
「ああまあ……」
アリトは口ごもり、膝を立てて、羽毛布団を引き寄せた。
数十分前、部屋を訪れたらいつもどおり迎えられて。紅茶を淹れて暖炉のそばに腰かけて……ミカは思った。え? これいつもと同じじゃない? シャツにズボン姿で夜食つまんで朗読してても寝れなくない? というわけで。アリトは寝間着に着替えてベッドに入り、ミカは椅子に腰かけていた。
「どうかした? 温室のときも一緒にきたじゃん」
「いや……あんときはまだ記憶戻ってねーし……まあいいなんでもねえ」
膝を抱えて、アリトは片頬を羽毛布団にのせた。斜めにミカを見上げて「はじめて」と小さくささやいた。
ミカは目で頷いて、緑の表紙を手に持った。
Escape me?
Never—
Beloved!
While I am I, and you are you,
So long as the world contains us both,
Me the loving and you the loth,
While the one eludes, must the other pursue.
My life is a fault at last, I fear:
It seems too much like a fate, indeed!
続きを口にするより早く、声が空気を裂いた。
「待て」
「え」
「……おま……なんでそれ……」
「え?」
「……なんでそれ……選んだ?」
うろたえるアリトの声に、ミカは目を丸くした。
「へ……なんでって……アンソニーが選んだんだけど」
「はあ⁈ アンソニーが? なんで?」
「なんでって……図書室でたまたま会って……詩集を探してるって言ったらこの本くれて、読み方も教えてくれたんだ」
「……俺のことなんか言った?」
「うん。アリトに朗読するって。そしたら夜伽かって聞かれて、あたし意味知らなくて『はい』って言っちゃった。すごい勘違いされるとこで……はは、でもちゃんと誤解は解いたからだいじょーぶ……ん? アリト? どした?」
「おま…………夜伽って……夜伽っておまえ……」
アリトは布団に突っ伏して、もごもごとぼやいていた。
「はは、ごめん。えっと……続きどうする? する? 止める?」
「…………もういい。今日はいい。てかその詩はもういい。その本、ブラウニングの『男と女』だな。他の本を……ああもういいや俺が選ぶ。待ってて」
ミカを見ないまま、アリトはベッドから下りた。棚に近づき、本を手に戻ってきた。
「これにして。このページ」
「わかった。あの……ごめんね? 下手すぎた? もっと簡単な詩から始めろって……」
「違う。そういう意味じゃない。おまえはいい。おまえは悪くない。悪いのはあ……いやなんつーか……ああもうとにかくこれで頼む。悪ぃなもう寝るわ。おやすみ」
一気にまくしたて、アリトは布団のなかに潜りこんだ。金緑色の羽毛布団に包まれ、黒い後頭部が半分ぐらい見えていた。ミカは「おやすみ」と言い残し、首を傾げながら部屋をあとにした。
ランプが消えた。
暗闇のなかで、低い声が吐きだされた。
「…………………………あいつ。むかつく」
◆
翌日。エリザベスの昼食の着替えを終えて、廊下を歩いていた。窓からのぞく中庭は、石畳に白い跡がぽつぽつと見えた。ミカは視線を上げた。雲が流れ、ちらちらと白い光が垣間見えている。午後には雪も溶けてしまいそうだった。
廊下の先で、扉が開いていた。緑の間の前で、ジョージが手招きしている。ミカは扉の陰で立ち止まり、ジョージに笑みをむけた。メイドの礼儀に反した行為だ。しかしジョージは咎めることもなく、にっと笑顔を返した。
「……今日の母の機嫌は?」
「……いつもどおりです」
「……なにか物が壊れたり飛んでったりは?」
「……ぜんぶ無事です」
ふたりで目を合わせ、くすりと笑った。最初の着替えで出会って以来、毎日この時間に、ジョージから呼び止められるようになった。いたずらめいた会話からは、母親がミカを困らせていないか、気に掛けてくれる様子がうかがえた。ジョージは気さくで、裏表がない率直な態度で接してくれて、ミカはすぐに打ち解けた。
「あっ……」
「うん? どうしたの?」
「ミスター・サザランド。この本を知ってますか」
「ああ、ブラウニングか。アンソニーの詩集だね」
「この詩なんですけど……読んで貰ったりできますか?」
「愛に生きる? うん、いいよ」
僕から逃げる?
できるわけないよ、愛するひと
僕が僕で、きみがきみである限り、
この世界に僕たちが、
愛する僕と、嫌がるきみがいる限り、
ひとりが逃げ、ひとりが追いかける限りはね
そう 僕の人生は過ちだったのかもしれない
そう これが運命というものかもしれない
ミカは思わず本をつかんだ。ジョージが驚いたように口を閉ざした。
「ス……ストーカーの詩?」
「ははっ、この詩は彼の妻に宛てたものなんだ。ラブレターみたいなものだよ」
笑い声とともに、ミカの手に詩集が戻された。
ジョージに礼を言って、ミカは足早に使用人階段にむかった。扉をしめて、内側の緑の布に背中をあずけ、そのまま床にへたりこんだ。
そうか。
こんな詩を。
アリトに朗読してたのかあたし。
うわあ。
うわあ。
「…………恥ず」
ミカは両手で顔をおおった。
◆
「なんだい? 怖い顔してるね」
「……なんであの詩を選んだんですか」
「牽制しとこうかと思って」
「え?」
アンソニーは意地の悪い笑みをうかべ、足を組み替えた。長椅子の背に片腕をのばし、ミカに小首を傾げてみせた。
「きみも止めなかったじゃない」
「いやそれは」
意味を知らなかっただけで。
だめだ今日はちゃんと意味も教えてもらおう。
「今日はこれでお願いします」
「なんだ。きみが選んだの?」
「いえ、アリ……イ様が」
「……へえ」
アンソニーは濃茶色の表紙を開いた。ぱらぱらと捲り、ミカが示したページで止めて、鼻を鳴らした。
「ふん。クラフか。挑戦的だな」
「え」
「まあ……骨のある奴は嫌いじゃないけど」
「え?」
ミカの隣で、アンソニーは楽しそうに笑っていた。今日はお茶まで用意され、目の前でカップが湯気を上げている。ひと口飲んだら、アリトの夜食のものと同じ味がした。
Say not the struggle nought availeth,
The labour and the wounds are vain,
The enemy faints not, nor faileth,
And as things have been they remain.
If hopes were dupes, fears may be liars;
It may be, in yon smoke concealed,
Your comrades chase e'en now the fliers,
And, but for you, possess the field.
For while the tired waves, vainly breaking
Seem here no painful inch to gain,
Far back through creeks and inlets making,
Comes silent, flooding in, the main.
And not by eastern windows only,
When daylight comes, comes in the light,
In front the sun climbs slow, how slowly,
But westward, look, the land is bright.
闘いに意味などないと言うな
かけた労力も負った傷も無益だなどと
敵は怯みもしないし逃げもしないし
すべて元のままなにも変わらないなどと
希望がまやかしならば恐れだって真実とは限らない
煙に覆われたあの場所で
きみの仲間がいま敵を追っているかもしれない
きみの嘆きさえなければ勝利はこちらにあるかもしれない
疲れた波はむなしく打ちつけ
痛みをともなう一歩は前に進んでいないように見える
はるか彼方の湾や入り江では
静かに潮が満ちている
夜明けに光が射しこむのは
東の窓からだけではない
太陽がどんなにゆっくり昇っていても
西の大地は ほら もう明るくなっている
『俺がケンカ売ってるからじゃね?』
いつかのアリトの言葉が頭にうかんだ。
アリトと公爵が、ジョージとエリザベスにケンカ売ってるって。
……アリトは何をしてるんだろう。
……一体、なにと闘うつもりなんだろう。
ミカは、目の前の男を眺めた。
それでこの人は、一体、誰の味方なんだろう。
『懐柔してよ。きみのために動いてあげるから』
…………もしかして。あたし?
「どうした? ぼんやりして」
「あ……いえすみません。ついうとうとと……いい声だなって」
すみれ色の目が、機嫌よく細められる。
「それは僕に多少なりとも好意を持ってくれてるということか」
「へっ?」
「相手の声を心地いいと感じるのは、そういうことだろう? 嫌いな相手だったら声も不快にしか聞こえない。違う?」
「そ……それはっ……」
にこにこと笑いながら、アンソニーは詩集に目を戻した。顔が熱い。ミカは両手に顔をうずめた。いや待ってちょっと待って。アリト……いい声だなって……あたしのこと。いやいやまさかねアンソニーがそう思ってるだけだもん。でも……確かに……そう思わなくもないかもしれない。え? じゃあアリトはあたしに好意があって? あたしはアンソニーに好意があって? アンソニーはあたしと結婚したくて? いやでもあたしもアリトの声低くて静かでいいなって思うけど…………うん?
ミカは思考を放棄した。
…………うん無理やめた。
21世紀に。
あたしは帰る。
もうそれしか考えないぞ‼
熱い頬を扇いでいたら、ふいに視線を感じた。
アンソニーは(今は懐中時計を離してるから英語バージョンで)詩を朗読しながら、手元を見つめている。ミカはそっと図書室を見まわした。西側の扉が半分開いている。ミカは全身がすっと冷えていった。見覚えのあるドレスの裾がひるがえって消えていく。エリザベスの淡い紫のティー・ガウンだった。




