1-1 ミカ、メイドになる(下)
昨日は午後中ずっと、屋敷を案内されながら仕事を覚えた。ミカの記憶力は悪くない。コンビニのバイトもすぐに慣れた。メイドの仕事だってなんとかなるだろう。だけど。だけどね。
「あのー、ちょっといいですか」
たおやかに歩くエロル夫人が振り向いた。小鹿みたいな目をパチパチさせて、こっちを見ている。公爵家のハウスキーパーは、はかなげで美しい女性だった。男だったらなんかこう、ぎゅっと守りたくなる感じの。あの面接(もどき)のあと、ホワイトリーは彼女とミカを引き合わせた。夫人は「記憶喪失なんて大変ね」と、ミカの肩に手をそえた。
「なあに? ミカ」
うわあ、まぶしいきれい。うっとりと見とれそうになりながら、ミカは口を開いた。
「電気はどこですか?」
「でんき?」
「石炭とか、オイルガスとか、なんか古めかしい雰囲気でおしゃれーとは思うんですけど……ありますよね、電気? ふつーに床暖とかシステムバスとか、ぱっと見は懐古趣味だけど、ちゃんとハイテク設備なんですよね? こんなお屋敷って」
「ゆかだん? しすてむばす? んーー、なにかしらそれ?」
それっておいしいの? とでも言うように、夫人は小首を傾げている。ああもう、そんな姿さえ可愛いなあ。なんて思ってる場合じゃない。
「電気です、電気! ありますよね、電気⁈」
「……でんき?」
ミカは嫌な予感がした。
あたらないでほしい。
懐古趣味の、
ちょっと変わった趣向の、
ご主人様なんですよね。
ね?
「あの……すごい今さらなんですけど。ここはどこで、今日はいつですか?」
夫人のつぶらな瞳に涙がうかんだ。
えっ⁈ なぜそこで泣く⁈
とまどうミカにお構いなしで、夫人はぎゅっと彼女を抱きしめた。ふんわりといい香りがする。やわらかで。やわらか……。
(胸! めっちゃ胸あたってますけど⁈ 大っきいなうらやましい!)
「かわいそうに! 不安よね、なにもかも忘れてしまうなんて! ここはバッキンガムシャー、クリブデン公爵家のお屋敷よ。今日は1月15日!」
「あのできれば、国と西暦から」
「イングランド、1880年!」
夫人の胸のなかで、ミカはくらりと気が遠くなる。
うっそまじこれ信じられない冗談でしょ⁈
心のなかで叫びながら、とりあえず丁重に夫人の胸からはなれた。
21世紀の日本からタイムトラベルしました。
なんて言ったら、警察か病院に連れていかれること間違いなし。
こんなに潤んだ目で見つめられて、罪悪感はあるけどでも。
(やっぱ記憶喪失で正解だった……!)
「早くもとに戻りたいわね」
夫人の言葉に、ミカは息をのんだ。
そうだ。
うん。
戻りたい。
早く。
「はい! 戻りたいです‼」
早く、21世紀に戻らなきゃ。
暖炉の熾し方とか、階段の磨き方とか、ベッドメイクの仕方とかを教わりながら、ミカは心のなかで決意した。
◆
固いマットレスとごわごわした毛布で寝て、起きて、今朝。ミカはアリスを起こしたあと(三回声をかけても起きなくて、最後には毛布をはぎとった。この子、今までどうやって起きてたの?)、午前中いっぱい働いた。昼食のあと、また部屋に戻ってきた。
朝は凍えそうに寒かったけど、半日動きっぱなしで汗をかいた。身体は毎朝ふいても、髪は週一回しか洗わない、とアリスに聞いた。地肌がかゆい。ああせめてここに来る前シャワー浴びとけばよかったなあ。ミカはため息をついた。ピンで留めたキャップの下で、髪が蒸れてきもちわるい。コンタクトが乾いて、目が痛い。ダメだこれ毎日洗浄が必要なやつだもん、炎症になりそう。ミカはため息をついた。もういいや、ここ日本じゃないし。
黒いコンタクトを外した。
ヘアピンを抜いて、キャップを取った。
床にボブの黒髪が落ちた。ミカは頭をふった。栗色の長い髪がゆれた。昼食のとき、エロル夫人からもらった午後用の制服に着替えた。栗色の髪を結い上げて、キャップをつけて部屋を出た。
廊下の鏡に自分を映す。
空色の目と。
栗色の髪と。
黒いドレスと白いエプロンを身につけた自分。
ミカは思った。
うん、悪くない。
にやりと笑ってみる。
「おかえりなさいませ、ご主人さま…………なんてね」
◆
「おかえりなさいませ。ご主人様、アリー様」
背後から、ホワイトリーの声が聞こえた。振り返ると、玄関ホールに二人の男性と執事が立っている。ミカは大階段の踊り場から、男たちを見下ろした。
メイドになって、三日目の朝。掃除を終えたあと、磨き布を忘れたことに気づいた。布を回収して戻ろうとした矢先、執事の声を耳にした。
(そっか。明後日に戻る、って言ってたっけ)
手摺に身を乗りだして、ホールを眺めた。中年男性と少年がこっちに歩いてくる。
中年男性、ご主人さまはダンディーなおじさまだった。四十代後半から五十代手前ぐらい。長身で体躯のいい、この屋敷の当主・クリブデン公爵。
その息子のアリーは、ミカと同い年ぐらい。貴族らしく堂々とした風格で、同級生の男子たちとは全く違う。白い肌に黒髪がよく映えて、芸能人みたいに整った顔だち。しなやかな身ごなしは、黒豹を思わせる。
なんていうか、凄みがあって別世界の人間って感じ。
気難しそう。
正直、関わりたくない。
だけど。
(挨拶は、人間関係の基本だし……!)
二人は階段の途中で、ミカに気づいて足を止めた。
ミカはぺこ、と頭を下げた。
「初めまして、ミカと申します。一昨日から働かせてもらってます。よろしくお願いします」
顔を上げて、あれ変だな、とミカは思った。学校でもバイトでも、名乗って挨拶すれば、ああよろしく、と返される。そんなもんじゃない? 一種の社交辞令だよね。
二人は無言で、じっとミカを見つめている。
圧、圧がこわい。特にアリーの圧が半端ない。
「あの……?」
「ああ…………よろしく、ミカ」
クリブデン公爵が、わずかに笑顔をみせた。ミカはほっと胸をなでおろす。吹き抜けの大階段に、アリーの低い声が響いた。
「ホワイトリー‼」
え、と思う間もなく、ホールから執事が飛んできた。ミカの隣に立ち、彼女の頭をぐっと押し下げる。
(……え?)
「申し訳ありません‼」
「しっかり教育しろ。無礼だ」
押さえつけられたまま、ミカは上目遣いでアリーを見た。
じろりと睨み返された。
まるで汚物を見るような目つき。
(え……え……なにこれ。あたしそんな失礼なことした?)
頭を下げたまま、自分の言動を振り返ってみる。
なにもしてない。
なにもしてないのに。
そう思ったら、目頭が熱くなった。
くやしい。むかつく。何様だ、アリー。頭を振り上げ、執事の手をのけた。見上げた先に、冷ややかなアリーの双眸があった。
◆
ホワイトリーは薄暗い廊下を歩き、扉をたたいた。
鏡板がはられた扉のむこうで、低い声が応じた。公爵の居間には、彼と息子のアリーがいた。暖炉の火格子で、石炭が赤く燃えている。公爵が目でうなずくと、アリーは部屋を去った。
「彼女は何者だ?」
「調査中でございます」
「妻の生家を?」
「はい」
「ミシェルは、私を裏切っていたと思うか?」
「とんでもないことでございます。おそらく、奥方様のご兄弟やご姉妹かと」
「ミカというのだよ」
「はい」
「よりによって、ミカとはな……」
ホワイトリーは視線を床に落とした。公爵は琥珀色のグラスを見つめた。グラス越しに歪んだ炎がゆれている。一気に飲み干すと、ホワイトリーを部屋から下がらせた。
ホワイトリーは扉を閉めた。廊下のタペストリーの前に、アリーが立っている。
「彼女は何者だ?」
「調査中でございます」
「今朝、彼女に会ってから父上の様子がおかしい。害なす存在であれば、即刻、始末しろ」
「心得ております」
アリーに会釈して、ホワイトリーは廊下を立ち去った。
北側の階段を、窓から月が照らしている。濃い茶色の手摺が、黄金色に艶めいている。ホワイトリーは手摺にもたれ、頭上をあおいだ。彼の茶色い髪にも月明りが注いでいる。
「彼女が何者だって? おれのほうが聞きたいぜ」
ホワイトリーはひとりごちて、メガネをこすった。




