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2-5 ミカ、夜に詠う(上)

「鎮痛剤?」

「うん。スマホとかティッシュみたいにこっちに持ってきてたり……ないよね?」

「ねえな」

「……だよねえ」


 ミカは肩を落とした。昼間、エロル夫人が見せてくれた薬は瓶に入ったシロップみたいで、なんていうか……そう、ものすごいハーブ臭がした。効きそうだけど……できればあまりお世話になりたくない感じの。アリトはテーブルにカップを置いて、額にしわを寄せてミカを見た。


「どっか痛むのか?」

「あーーーいや……」


 ミカはすいと目を逸らし、暖炉に顔をむけた。炎はゆらゆらと形を変え、火の粉を散らしている。赤い石炭を意味もなく見つめ、ミカは息をもらした。学校だったら、絶対こんなの男子に相談したりしないんだけど。


「……生理なんで」

「ああ、大丈夫か? 部屋戻って休む?」

 気遣わしげな声音に、ミカはまばたきした。そっか。ふつーに聞いてくれるんだ。

「や、大丈夫。昼間に比べたら全然ましだし、休ませてもらったし。こうして喋ってるの放課後ファミレス寄ってるみたいでなんか楽しーし」

「あっ……そ」


 上擦った声が耳に届いて、ミカは隣を振りむいた。目に映るのは、いつもどおりの澄ました横顔…………なんだ、気のせいだったかも。


「それにエロル夫人の薬もあるし」

「あー、ゴドフリーズ・コーディアルとか、ダフィーズ・エリクシルとか。あとクロロダインとか?」

「んー、そんな名前だったかも」

「やめたほうがいーぜ。依存したら困るだろ?」

「ん? 依存て?」

「ゴドフリーズとダフィーズは阿片チンキだ。クロロダインはモルヒネ。阿片煙草より依存性は低いだろーし、一、二回ぐらい飲んでも大丈夫だとは思うけど……ま、でも万が一、常習したくなったらやべーだろ。19世紀で麻薬依存になって21世紀に帰るとか……洒落になんねーし」

「……は? 麻薬?」

「ああ」

「麻薬が薬……?」

「ああ……21世紀でも使われてるだろ? 緩和ケアとか、下痢止めとか。でもまあ、そうだな。この時代にはなんつーか……万能薬? みてーな感じか。まだ鎮痛剤も抗生物質もねえからな。睡眠薬にも鎮痛剤にもなるし百日咳でもコレラでも使うし……医師の処方箋がなくても薬局でふつーに買えるし」


 ぽかんと口を開くミカに、アリトは軽く眉を上げた。


「ナイチンゲールは阿片常習者だったらしーぜ。ホームズはコカインだろ? この時代は誰でも手軽に使ってんだよ」

「な……なんて時代だ……」

「医療がまだ発達してなくて、医者に掛かれるやつも少ねーってことだけどな」

「……そっか」


 鎮痛剤も抗生物質もないなんて病気になったら大変なんだ。たった百年少し遡っただけなのに……全然ちがうんだな。


「まあ使った感じ、あんま勧めねえ」

「使った?」

「ああ……記憶が戻る前に何度か。試してみたけど、変にふわふわして……意識が混濁するよーな感じで。あんま気持ちいいもんじゃなかった」

「うわ……」

「そんな目で見るなよ」

「や、ごめんちょっと衝撃だっただけ。てかどっか具合悪かったの?」

「あーーーいや。睡眠薬代わりに」

「何度か?」

「ああ」

「……眠れないんだ?」

「別に。大したことじゃねえ」

「温室で会ったときも真夜中だったね」

「それはおまえもだろ」

「あたしは色々あって眠れなくて……普段はベッド入ったらすぐ寝落ちだよ」

「すぐ?」

「うん、もう秒で。のび太くんといい勝負だよ」

「はは、いいな」

「アリトも? こっち来て色々あったから眠れなくてとか?」

「や……前から」

「前って、中学とか?」

「…………もっと前」


 ミカから目を逸らし、アリトはビスケットをつまんだ。硬く砕ける音が、部屋のなかでこだまする。ミカも紅茶をひと口飲んだ。まだ温かく、ほのかに甘い。


「いつも何時に寝てんの? 朝7時半にはアルバートがお茶持ってってるよね?」

「3時、4時ぐらい」

「……寝てないじゃん」

「寝てる」

「……キツくない?」

「慣れた」

「……慣れたって」


 アリトは紅茶を飲み干した。空になったカップに、二杯目が注がれていく。琥珀色の液体が滝のように、コポコポとカップに流れ落ちる。その仕草を目で追いながら、アリトの指先から腕、腕から肩、肩から首すじ、そして横顔へと、ミカは視線を移した。唇は弓なりに形よく引き結ばれている。


「なんだよ」


 アリトは無防備にミカを見た。侮蔑も疑念も映らない瞳は、金に、緑に、茶にきらめいて美しい。子どものようなまっすぐな視線だった。ミカは胸の奥が締めつけられた。

(……だってそんなの小学生の頃からじゃん。親に愛人がいてとかさ……アリト。楽しい子ども時代とかあったのかな)


 黄金色にきらめく草地が頭にうかんだ。小さな家の質素で温かな居間。ジョイに頬を寄せて、嬉しそうに笑うエロル夫人。あんな光景は……アリトにもあったのかな。


「うたでも詠おうか?」

「は?」

「や、昨日さ、エロル夫人と一緒に庭師頭さんの家に行ったんだ。そのとき夫人が、お子さんに詩を詠ってて、その子がうとうとして……へへ、子守歌? みたいな」

「……俺は三歳児か」

「ははは」


 ミカをじろりと睨んで、アリトは背もたれに上体を深く預けた。


「詠って」

「え?」

「詠ってくれよ。寝かしつけてくれるんだろ?」


 背もたれに頭をのせ、アリトは目を細めた。おどけた声音はわずかに甘えた響きがあって、ミカはそっと笑みをこぼした。振りむけば、カーテンの隙間から群青色のガラス窓に雪片が映っている。昨日から降っては止み、降っては止み、気まぐれに結晶を地上に落としていた。静かな夜。19世紀の。英国の。冬の景色。



 さぎりゆる湊江みなとえ

 舟に白し、朝の霜

 ただ水鳥の声はして

 いまだ覚めず、岸の家

 

 からす啼きて木に高く

 人ははたに麦を踏む

 げに小春日ののどけしや

 かへりざきの花も見ゆ


 嵐吹きて雲は落ち

 時雨しぐれ降りて日は暮れぬ

 灯火ともしびの漏れずば

 それと分かじ、野辺のべの里



「……なんだっけ」

「冬景色だよ。小学校のとき習わなかった?」

「あーー聴いたことある」

「あたしこれずっと外国の歌だと思ってたんだ。最近、日本の歌だって知って驚いちゃった。こっち来て、早朝の空とか夕焼けの丘とか見てたらなんか日本の田舎と似てるかもって……田舎で暮らしたことないけどさ。写真とか動画とかで見るきれーな景色と似てる感じで」

「そうか? 俺は……この屋敷から眺める景色のほうが好きだ。こっちのほうが……ずっときれいに見える」

「うん。そっか」


 ミカはアリトに微笑んだ。そうだよね。自分の好きな場所から見る景色が、きっと一番きれいに見えるはず。アリトにとって、この19世紀がそんな場所なんだ。

 金色の双眸に射られて、ミカはぱちぱちと睫毛をゆらした。


「どうかした?」

「……いい声だな」

「へっ?」

「……なんでもない」


 アリトは椅子の上で体育座りして、あごの先を膝にのせた。その姿勢で首を傾け、うかがうようにミカを見た。


「……明日も?」

「え?」

「……明日も詠う?」

「あ、うん。いいよ?」

「図書室に詩集があるから……なんかおまえが読めそうなやつ。適当に選んで」


 アリトは怒ったような顔で、素っ気なく言い放った。でも、かき上げた髪から覗いた耳はほんのりと紅潮していて。ミカまで赤くなってしまった。



 窓から夕陽が差しこんでいる。ずらりと並んだ背表紙を見つめ、ミカは途方に暮れた。

(……読めそうなやつって。アリト、あたしの語学力知らないな。全然自慢じゃないけど、どれが詩集だかも分かんないぞこれ)

 前方で扉がかた、と音を立て、金髪の頭がのぞいた。


「やっぱりきみか……こんなとこで何してるんだ? もう良くなった?」

「はい。昨日はありがとうございました」


 ミカは扉に向かい頭を下げた。

 アンソニーはそのまま室内に入ってきた。


「で、何してるの? メイドが図書室で探しものかい?」

「詩集を探してて……」

「詩集? なんでまた」

「アリ……アリー様のおやすみ前に朗読しようと」


 アンソニーは鼻にしわを寄せ、嫌そうな顔をした。


「……まさか。あいつ、夜伽でもさせてるんじゃないだろうね?」

 夜伽? ってなんだっけ。子どもの読み聞かせみたいなのかな。

「あーはい、そんな感じで」

 アンソニーは思いっきり渋い顔をした。ん? どうした突然?

「…………家族が堂々とメイドに手を出すなんてどうなってるんだ公爵家は。てかよりによってきみか。ホワイトリー僕には手を出すなって言っといて。え……まさかこの家公認の愛人なんじゃ……最悪だなホワイトリーに抗議を……ああ今いないんだっけ。いいやなら公爵にひと言……いやそれよりあいつに直接……」


 口元に手をあてて、ぶつぶつと呟きながら、アンソニーは背中をむけた。

 うん? 愛人?

 誰が誰の?


「あのう……なんか……すごい誤解してません?」

「はあ?」

 うわ。めちゃくちゃ機嫌悪そう。

「あたしはただアリー様に、詩集を朗読するよう頼まれただけですけど」

「いやだってきみ夜伽って」

「え? だから夜伽って、夜にお伽話とか聞かせることなんじゃ」


 アンソニーは片手を額にあてて、深い深いため息を吐いた。

 なんだかミカは申し訳なくなった。


「…………ちがう」

「え?」

「…………全然、ちがう」


 アンソニーにじろりと睨まれる。

 いやそんな睨まなくても。


「…………夜伽は、女性が男の望みにしたがって共寝することだ」

「…………へ?」

「…………ちがうの? 毎晩あいつに抱かれてるんじゃないの?」

 ミカはぶんぶんと、もげそうなほど首を横に振った。

「…………なんだ……そう……ならいいけど……」


 アンソニーは暖炉に歩き、そばの椅子にどさりと腰をおろした。

 夜伽って。

 夜伽って。

 …………うわあ。

 とんでもない誤解が生まれるとこだった‼


「で? ミスター・サザランドに詠う詩集を探してるって?」

「あっ、はい」

「なんか見つかったの?」

「いえ……どれが詩集だか分かんなくて。それに見つかってもあたし、たぶん読めないですし……」


 アンソニーが驚いたようにこっちを見た。


「……文字が読めないのか?」

「いや、まあ……あんまり……」

 日本語なら読めますけど。

「……教えてあげようか?」

「え」

「部屋に詩集があるから。それでいいなら、僕が読んで教えるけど」

「え……あ……じゃあ……お願いします。いいんですか?」

「いいよ。今は休憩時間?」

「はい、お茶の時間で」

「僕たちの夕食は19時だから、サザランド夫人の着替えまで……あと一、二時間てとこか。取ってくるよ。ちょっと待ってて」


 閉ざされた扉を見つめ、ミカは腕を組んだ。うーん。夜の空き時間に、マーガレットやジョンたちに教えて貰おっかなって思ってたんだけど……なんか思いがけない展開になっちゃった。



 暖炉のそばの長椅子は、深紅色に蔦模様が描かれている。共布のクッションがいくつも置かれ、座ると背中が跳ねそうなほど、詰め物がたっぷりと入っている。ひとり分の間を空けて、ミカはアンソニーの隣に腰かけた。


「もっと傍に来なよ。見えないだろう?」


 二人の間に本を置いて、アンソニーが顔を上げた。

 ミカは軽く身じろぎしただけで、その場から数センチしか離れなかった。

 これまで好きだとか付き合おうとか告白されたことはあったけど。

 でも。

 欲しいとか抱くよとか直球で来られたのは初めてで。

 別に無理やりどうこうされる感じじゃないし。いいんだけど。

 骨ばった形のよい手が、ページを捲っている。

 …………いいんだけど。

 長い指の動くさまを追いながら、ミカはため息をついた。

(……だめだやっぱなんか落ち着かない‼)

 そんなわけで、これ以上、距離をつめる気になれなかった。


「どうしたの? そんなソワソワして」

「いやもうなんでもないんで」

「……へんな子だねえ」


 きょとんとするアンソニーに、ミカはこめかみを押さえた。

 やっぱあたしの自意識過剰だったもう気にしない考えないぞ。


「手、出されるんじゃないかって緊張してるの? かわいいね」

 ぱくぱくと口を動かすミカに、アンソニーがぽんぽん、と頭をたたいた。

「出してもいいなら出すけど? 詩の朗読と、どっちがいい?」

「…………っっっ詩で……‼」


 笑い声が図書室に響いて、ミカは思わず金髪の頭をはたいてしまった。


「ははっ……ごめんごめん。じゃあ、始めるよ」

「……はい」

 そうだったあたしが教えて貰うんだった。頭、叩いちゃったけど。

「僕が決めていい?」

「お願します」

 題名みたけどよく分かんなかったし。

「じゃあ読むよ…………僕から逃げ……」

「わ! ちょっと待ってください!」


 ミカは手を振った。そっか。エロル夫人の時もそうだった。

 日本語で聞こえちゃうんだ。

 ミカは首元から鎖を引っぱり、懐中時計を長椅子にのせた。

(……離すのは落ち着かないけど。まあちょっとの間だし)

 アンソニーの手が懐中時計に伸ばされる。


「~~、~~~?」


 ミカはとっさに懐中時計をつかんだ。

(うわ離したら離したでなに言ってるか分かんない‼)

 アンソニーは手を止めて、困惑するようにミカを見た。


「そんな必死な顔しなくても……別に取り上げたりしないよ。許可なく済まないね。友人の物に似てたからつい……」

「いやそーいう意味じゃなく……あの、さっきは何て? それで友人って……」

「これ、きみの? って。友人は……きみには関係ないよ……たぶんね」

 すみれ色の目が細くなった。

「……それとも関係あるのかな」

「…………マイケル?」


 アンソニーは指先を唇にあて、その弧を深くした。


「なんだ……やっぱり、記憶喪失なんて嘘なんだ」

「いえ…………お墓があったんで。マイケルの。この家の息子さんですよね。あなたの友人で、だからこの家に出入りされてるのかなって」

「あーーー墓。墓ね……そうか……まあ、そうだな」


 肩すかしを食らったように、アンソニーは髪をかき上げた。


「そうだ。僕はマイケルの友人だった。ジョージもだ。三人とも、寄宿予備学校時代からの顔見知りだ。でも……この家では、彼の名前は出さない方がいいよ」

「それ……なんでですか?」

「きみが知る必要はないだろう?」

 挑むような笑みが向けられた。つっこんで聞いたら、逆にあれこれ聞き返されそう。ミカはおとなしく引き下がった。


「この時計、男物だろう? きみの祖父の形見とか?」

「いえ」

「金時計なんて……ずいぶん高価な物だ。ただのメイドの持ち物じゃないね?」

「それは……」

「盗んだ?」

「違います‼」

 ミカの剣幕に、アンソニーはくすくすと笑った。

「そんな怒鳴るなよ」

「だって……」

「別に盗んだなんて思ってないさ。ただ……興味があるだけ」


 すみれ色の瞳に不穏な光がちらついた。

「まあいいよ。今は詩の朗読だ。さあ、始めようか?」

「……お願いします」

 不敵な笑みを浮かべ、アンソニーは詩集をめくった。

夜伽には【主君や病人のため、夜通し付き添うこと】や【通夜】の意味もありますが、今話では本文中の意味で用いています。

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