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2-4 ミカ、鍵を手にいれる(上)

 帰れなかった。

 帰れなかったぞ。

 どうしよう。

 

 カーテンを開けてみた。池も丘も森も、まだ青暗い闇に覆われたまま、黒い茂みが地平線を縁どっている。隣のベッドからは、アリスの寝息が聞こえてくる。いつもどおりの朝。いつもどおりの日常。…………あたし一生このままメイドかな? ミカは首を振った。いやいやまさか。まさかね。うん考えよう。帰れる方法がきっとあるはず。ベッドを降りて、制服のボタンを留めた。アリスがごろんと寝返りをうつ。「……ミカ……この帽子もすてき……バラがついてるの……」むきだしの肩に毛布をかけて、ミカは扉を閉めた。



 キッチンの扉を開けると、目の前にパメラが立っていた。

 作業をしてない彼女を見るのは、初めてだ。


「あ、おはよ……」

 パメラは痩せた腕を、ミカの背中にまわしてきた。

 キャップの下の髪の毛から、石炭と肉汁の混ざったような匂いが漂ってくる。

「パ、パメラ?」

「ありがと」

「え……?」


 薄茶色の目が、薄っすら赤く腫れていた。パメラは自分の服に視線を下げた。


「火を熾してから、ちゃんとエプロン替えて、手も洗ったから……」

「や、それはいんだけど」

「ミスター・ホワイトリーが……治療を受けるって……」

「あっ、うんそう! そうなんだ」

「あんたが……ご主人様にお願いしたって……聞いた」

「ご主人様……ていうかアリ……アリー様にだけど」

「あの人が……身体を壊して救貧院にいくなんて……絶対に、絶対にだめだ…………ありがとう。あんたのおかげだ」

「いやあたしは大したことしてないけど……救貧院ってそんな酷いとこ?」

「知らないのか? あんた……お嬢さんぽいもんな」

「へ? いやあたしは団地暮らしで……いや、なんていうかその」


 口ごもるミカを見つめ、パメラはぽつりと呟いた。


「わたしは半年前まで救貧院にいたんだ」

「……そうなんだ」

「救貧院で生まれて、ずっとあそこで暮らしてきた。本当に酷い場所だった」


 パメラは腕を下ろして、背後を振りあおいだ。東の壁の、天井ちかくに窓が並んでいる。夜の青さに白が溶けあい、朝の訪れを告げていた。


「……レンガ造りの三階建てで、男と女と子どもは別棟に収容されるんだ。昼間でも薄暗くて、いつも饐えたような臭いがしてた。朝は水みたいな粥を食べて、割り当てられた仕事をして、昼にジャガイモと脂っぽいプティングを食べて、学校に行ってまた仕事をして、夜にパンと薄いスープを飲んで、冷たい硬いベッドで寝る。毎日その繰り返しだった。投獄されたことある奴が、監獄の方がましだって話してた。その時はよく分かんなかったけど……生まれた時からずっとそうだったから。みんな下着から靴まで同じ服で、ひと目で救貧院の人間だってわかる。戸口にいたら、町の人たちが蔑むような目を向けてきた。それで目が合うと、気まずそうに逸らすんだ。学校じゃ、つづりを間違える度に鞭で打たれた。背中の皮膚がはがれて下着にくっついた時もあった。でも文字が読めるようになったのは良かったって思ってる。道端に落ちてる新聞を拾って読めるようになったから。

 半年前、戸口の階段で新聞を読んでたら、身なりのいい紳士が通りかかった。わたしをちらっと見てそのまま通りすぎて、数ヤード歩いてまた戻ってきた。なにしてんの? って声を掛けられた。新聞を読んでるって答えたら、読んで何になるの? って言われた。ムッとして、何にもならないって答えた。じゃあなんで読んでるの? って聞かれて、自分が虫けらじゃないと思うためだって答えた。その人はちょっと笑って、それは自尊心だって教えてくれた。人間が生きるために必要なものだって。その人は、バッキンガムシャーの公爵家でメイドを探してるって言った。キッチンメイドで、洗い場の仕事もするから辛いと思うって。それでも自分でお金を稼いで、自分のために生きられる。来るか? って聞かれた。わたしは行くって答えた。それで今、ここにいる。

 わたしは二度と救貧院あそこに戻りたくない。他に行くあてもない。ミスター・ホワイトリーのいる屋敷ここが、わたしの居場所なんだ。あの人がここから居なくなったら…………どうしていいか分かんない」


 パメラは言葉を切って、何度も息を吸って吐き、ミカの目を見据えた。


「だけど……もしあの人が病気だと知っても、わたしはご家族にお願いなんてできなかったと思う。あんたはなんで、ただのメイドで女で……そんなふうに行動できるんだろう」

「それは……」


 現代人と百年以上前の人との感覚の違いっていうか。

 言うよね? 別にただのバイトでも。店長に「病院いきましょ病院!」とかさ。

 コンビニの店長さん、奥さん亡くして独り暮らしだし。見切り品くれたりテスト期間気にしてくれたりいい人だし。もう絶対言うと思う。

 別に女とか男とか関係ないし。


「……同じ人間だと思うんだけど」

「同じだなんて思えない」

「うーん……いつかそんな時代が来ると思うんだけど」

「へんな人だな、あんた」

「そうかなあ」


 パメラはふっと微笑んだ。


「わたしには分かんない。でもここに来て初めて、救貧院が酷い場所だって分かったから…………いつかあんたの言うことも、分かるようになるのかな」

 パメラは腕まくりをして、テーブルに玉ねぎを並べていった。



 空は昼の名残りをみせながら、西の果ての丘陵が赤く染まっていた。夕方のお茶は、使用人たちの休憩時間。戻ってきたリネンを部屋に届け、ミカは中庭を小走りに横ぎった。

(うーー寒い。早く紅茶飲んで温ったまりたい!)

 視線の先で、使用人用の扉が開いた。ショールを羽織ったエロル夫人が、籐編みのカゴを持ち、こっちを見てにこりと笑った。


「あらミカ」

「どっか行かれるんですか?」

「ええちょっと」

「今からお茶……そういやエロル夫人、この時間いつも見かけませんね」

 ミカの言葉に、エロル夫人は目を細めた。

「よかったら……ミカも一緒にくる?」

 頷くミカを見て、待っててね、とエロル夫人は扉のなかに消えた。すぐにショールを手に戻り、ミカの肩に巻いてくれた。

「あの……どこに」

「そんなに遠くないわ」


 南のアーチをくぐり、池のそばの小道を歩いていく。緩やかにうねる草地を10分ほど進むと、木々の間に小ぶりな家が見えてきた。


「庭師頭の家よ。ご夫婦で住まわれてるの」

 家は石造りの二階建てで、温かな雰囲気だった。床には緑の絨毯が敷かれ、壁には数枚の風景画が掛けられている。暖炉の火格子で炎が音をたてていた。テーブルに着いたミカとエロル夫人に、中年の婦人がお茶を出してくれた。

「ありがとうございます」

 開いた扉の奥から、幼児のはしゃぎ声が聞こえてくる。婦人に手をひかれ、あどけないズボン姿の男の子が、よちよちと歩いてきた。


「まーま」

「ジョイ」

 エロル夫人は男の子を抱き上げ、頬をこすり合わせた。

「え?」

 目を丸くするミカに、嬉しそうな笑みをこぼした。

「私の子ども。ジョイよ。ジョイ、もうすぐ何歳になるの?」

 ジョイは、はにかみながら小さな指を三本たてた。

「そうね、三歳ね」

 エロル夫人は、足元のカゴから布を取りだした。真っ赤なウールがジョイの全身を包みこむ。

「おやまあ、素敵なケープじゃありませんか」

「先月のボクシング・デーに、ご主人様が生地をくださったの」

「あ。エロル夫人、このリボン……」


 ケープの端は、艶のある深紅の天鵞絨で縁どりされていた。先週、ローズたちに頼んでたリボンだ。エロル夫人が唇を上げた。そっか、この子のためだったんだ。ジョイはきゃっきゃと笑いながら、小さな手でケープを引っぱった。


「まーま、おうた、おうたうたって」

 エロル夫人の膝に上がり、ジョイがぱちぱちと手をたたく。

 稲穂のような髪をなで、エロル夫人はやわらかな声を響かせた。



 ぼくには名前がないんだよ

 生まれてたったの二日だもの

 あなたをなんと呼んだらいいかしら?

 ぼくは幸せなんだよ

 ジョイがぼくの名前なの

 あなたに素敵な喜びが降りそそぎますように!


 I have no name

 I am but two days old. ‐

 What shall I call thee ?

 I happy am

 Joy is my name. ‐

 Sweet joy befall thee !



 ジョイはエロル夫人の胸元を握りしめ、こくりこくりと首をゆらした。婦人に抱きかかえられ、奥の部屋に連れていかれる。カップのお茶を飲み干して、ミカとエロル夫人は席を立った。

 梢の間から、金色に染まる雲が見え隠れする。頭上の空に夜が溶けだし、青から橙へと色を変えていく。ふたりの影が伸び、砂利道をざらざらと鳴らしていった。


「いい詩ですね」

「ブレイクの『無垢の歌』よ。幼児の喜び。あの子の父親が好きだったの」

「その人は今……」

「結婚しなかったの」


 エロル夫人は小さく首を振った。


「前のお屋敷勤めで出会った人でね。婚約して、教会で結婚予告をする直前に……お父様が倒れられて田舎に帰ってしまったの。そのままね……後から手紙がきたわ。状況がいつ挽回できるか分からない。なにも確約できないから結婚は白紙に戻してほしい。すまないって」

「……赤ちゃんが産まれたことは」

「知らないの」

「……いいんですか」


 ミカはおずおずと問いかけた。


「いいの。あの人は家業で手一杯でしょうから。煩わせたくないわ……っていうのは建前ね。知らせたら、結婚してくれるかもしれない。だけどもし何も音沙汰がなかったら……自分が捨てられたと確信してしまうでしょう? 怖いのよ。私は臆病なの。希望があれば生きられるから……だから、知らせるつもりはないわ」


 夕陽を浴びた横顔を見つめ、ミカは言葉につまった。


「ね、ミカ。パメラがお礼を言ってたでしょう?」

「あ、はい」

「私たちみんな同じ気持ちよ。気づいてた? この屋敷は、屋内使用人が極端に少ないの。みんな半年前に、ミスター・ホワイトリーに雇われた人たちばかり。みんな訳アリなのよ」

「え」

「妊娠がわかってお屋敷をクビになって、私は救貧院であの子を産んだの。あの子と別れて働く気にはなれなくて……少しでも近くにいたかった。そんなときよ。彼に出会ったのは。ミスター・ホワイトリーは、庭師夫妻にあの子を預けることを条件に、私を雇うと言ってくれたの。公爵家のハウスキーパーなんて、未婚の母親が就けるような仕事じゃないのに。こうして毎日、あの子と会うことも許可してくれて……恵まれているわ、本当に。あの人がこの屋敷を不本意に去らなくてよかった。ありがとう、ミカ」


 つぶらな瞳をパチパチと瞬かせ、エロル夫人は目元をぬぐった。

 小道の先では、石造りの屋敷が金色に輝いていた。



 紺碧に染まるガラス窓に、ランプの明かりが映っている。ホワイトリーは膝丈の黒いコートを着込み、ミカの隣に立っていた。執務机の前に革製のトランクが置かれ、そのうえに黒い帽子が乗せられている。茶色の髪はきれいに撫でつけられ、白い額が際だって見えた。うーんやっぱ格好いいなあ執事さん。


「今からロンドンに発つ。あとはジョンに任せてあるから」

「はい」

「なんだよ、ニヤニヤして」

「いやあ。ミスター・ホワイトリー、格好いいなって」

「はあ?」


 しんとした執務室に、呆れた調子の声が響いた。ミカはくすりと笑った。


「そんな顔しなくても」

「どんな顔だよ」

「照れたみたいな」

「照れてない」


 口をへの字に曲げて、ホワイトリーは両手をポケットに突っこんだ。


「……ミスター・ホワイトリー。みんなから慕われてるんですね」

「なんだよ、いきなり」

「エロル夫人もパメラも、それに昨日のジョンも。アリスもあなたに感謝してるって。みんな訳アリだって……聞きました。へへ、あたしもですよね……優しいんですね」


 ミカの視線を逸らすように、ホワイトリーはトランクに目を向けた。歪んだ唇は、自嘲の笑みを見せていた。


「ほんとにそう思う?」

「え?」

「きみやアリスはまあ成り行きだけど……他のみんなは、おれが半年前ロンドンを中心に集めた。たまたま訳アリの人間を雇ったわけじゃない。最初からそれが目的だった」

「え……?」

「低賃金の仕事しかなさそうな人間にだけ声をかけた。高い賃金で雇用する代わりに、この屋敷で見聞きしたことは絶対に外部には漏らさないと。そう誓約させた。もし破った場合は、使用人ネットワークのブラックリストに載せる。そうすれば、二度と屋敷勤めはできないだろう。そう脅してある。訳アリの人間を雇ったのは、ここをクビになれば後がないからだ。優しさでもなんでもない」


 メガネの奥の瞳は、光が映りよく見えなかった。

 ミカは声を漏らした。

 ホワイトリーが顔を上げた。薄い唇は開いたままだ。


「……なに笑ってんの」

「執事さん、自虐的だなって」

「は?」

「なんか分かりません? この人、自分を貶めようとしてるなとか。好意をもってくれてるなとか。なんとなく、伝わってくるじゃないですか。脅して言うこと聞かせるような人だったら、ジョンはラチェットの足を踏んだりしませんよ。みんな執事さんのことが好きで…………執事さんも分かってると思うんだけどな。後ろめたいから、そんな冷たいこと言うんですか」

「…………」

 ホワイトリーはむっつりと口を閉ざした。図星みたい。

「だけど……もしバラしたら、本当にブラックリストには載せるぞ」

「バラすなんて思ってないくせに」

「うっさいな」


 ホワイトリーの右手が髪を掻きまわした。額に毛先が落ちてくる。せっかくピシッと整えてたのに。


「じゃあ、お元気で。お留守の間もしっかり働きますんで」

「待って。挨拶のために呼んだんじゃない」

 コートの内側を探り、ホワイトリーは鍵を差しだした。

「はいこれ」

「なんですか?」


 ミカの手のひらに、二つの鍵がのせられた。


「北の間の鍵と、トランクの鍵だ。もしきみが……自分の親族を見てみたいと思うんなら……使ったらいい」

「……え?」

「きみが悪意をもってこの屋敷に来たんなら……おれは阻止するつもりだった。でもきみは…………こんなこと越権行為だ。おれなんかが決めることじゃない。だけど…………」


 黒いコートの片袖が伸び、ミカの背中が引き寄せられた。


「きみを信じたい」

 大きな厚い手は、すぐに背中から離れていった。

「すまない。用事はそれだけだ。じゃあな」


 ミカは手のひらを見つめた。金属製で頑丈そうな、大きな鍵と小さな鍵。ぎゅっと握りしめ、両手でホワイトリーの右手に触れた。皮膚は硬く、がっしりと筋ばっている。ミカの手に挟まれて、ぎこちなく固まっていた。


「執事さん。元気で帰ってきてください」

「ああ……きみも元気でな」

 鍵を握るミカの手に、硬い手のひらが添えられた。

「…………きみは、昔おれが憧れた人に似てる。ミカ…………きみは絶望を希望に変えて、この屋敷を正しい方向に導いてくれるのかもしれない」


 暖炉は暗く、室内には冬の冷気が満ちている。ホワイトリーの手はじんわりと温かく、確かな熱を感じられた。窓の向こうでは、紺碧の夜空に白い雪が舞っていた。

交流していただいている作者様・デイロー様について、エッセイを書きました。この小説の読者様で彼女をご存知の方、またご興味をお持ちいただいた方がいらっしゃれば、ご覧いただければ幸甚です。

(私事ですみません)


『よければ聞いてください。』

https://ncode.syosetu.com/n7653hm/

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