2-4 ミカ、鍵を手にいれる(上)
帰れなかった。
帰れなかったぞ。
どうしよう。
カーテンを開けてみた。池も丘も森も、まだ青暗い闇に覆われたまま、黒い茂みが地平線を縁どっている。隣のベッドからは、アリスの寝息が聞こえてくる。いつもどおりの朝。いつもどおりの日常。…………あたし一生このままメイドかな? ミカは首を振った。いやいやまさか。まさかね。うん考えよう。帰れる方法がきっとあるはず。ベッドを降りて、制服のボタンを留めた。アリスがごろんと寝返りをうつ。「……ミカ……この帽子もすてき……バラがついてるの……」むきだしの肩に毛布をかけて、ミカは扉を閉めた。
◆
キッチンの扉を開けると、目の前にパメラが立っていた。
作業をしてない彼女を見るのは、初めてだ。
「あ、おはよ……」
パメラは痩せた腕を、ミカの背中にまわしてきた。
キャップの下の髪の毛から、石炭と肉汁の混ざったような匂いが漂ってくる。
「パ、パメラ?」
「ありがと」
「え……?」
薄茶色の目が、薄っすら赤く腫れていた。パメラは自分の服に視線を下げた。
「火を熾してから、ちゃんとエプロン替えて、手も洗ったから……」
「や、それはいんだけど」
「ミスター・ホワイトリーが……治療を受けるって……」
「あっ、うんそう! そうなんだ」
「あんたが……ご主人様にお願いしたって……聞いた」
「ご主人様……ていうかアリ……アリー様にだけど」
「あの人が……身体を壊して救貧院にいくなんて……絶対に、絶対にだめだ…………ありがとう。あんたのおかげだ」
「いやあたしは大したことしてないけど……救貧院ってそんな酷いとこ?」
「知らないのか? あんた……お嬢さんぽいもんな」
「へ? いやあたしは団地暮らしで……いや、なんていうかその」
口ごもるミカを見つめ、パメラはぽつりと呟いた。
「わたしは半年前まで救貧院にいたんだ」
「……そうなんだ」
「救貧院で生まれて、ずっとあそこで暮らしてきた。本当に酷い場所だった」
パメラは腕を下ろして、背後を振りあおいだ。東の壁の、天井ちかくに窓が並んでいる。夜の青さに白が溶けあい、朝の訪れを告げていた。
「……レンガ造りの三階建てで、男と女と子どもは別棟に収容されるんだ。昼間でも薄暗くて、いつも饐えたような臭いがしてた。朝は水みたいな粥を食べて、割り当てられた仕事をして、昼にジャガイモと脂っぽいプティングを食べて、学校に行ってまた仕事をして、夜にパンと薄いスープを飲んで、冷たい硬いベッドで寝る。毎日その繰り返しだった。投獄されたことある奴が、監獄の方がましだって話してた。その時はよく分かんなかったけど……生まれた時からずっとそうだったから。みんな下着から靴まで同じ服で、ひと目で救貧院の人間だってわかる。戸口にいたら、町の人たちが蔑むような目を向けてきた。それで目が合うと、気まずそうに逸らすんだ。学校じゃ、つづりを間違える度に鞭で打たれた。背中の皮膚がはがれて下着にくっついた時もあった。でも文字が読めるようになったのは良かったって思ってる。道端に落ちてる新聞を拾って読めるようになったから。
半年前、戸口の階段で新聞を読んでたら、身なりのいい紳士が通りかかった。わたしをちらっと見てそのまま通りすぎて、数ヤード歩いてまた戻ってきた。なにしてんの? って声を掛けられた。新聞を読んでるって答えたら、読んで何になるの? って言われた。ムッとして、何にもならないって答えた。じゃあなんで読んでるの? って聞かれて、自分が虫けらじゃないと思うためだって答えた。その人はちょっと笑って、それは自尊心だって教えてくれた。人間が生きるために必要なものだって。その人は、バッキンガムシャーの公爵家でメイドを探してるって言った。キッチンメイドで、洗い場の仕事もするから辛いと思うって。それでも自分でお金を稼いで、自分のために生きられる。来るか? って聞かれた。わたしは行くって答えた。それで今、ここにいる。
わたしは二度と救貧院に戻りたくない。他に行くあてもない。ミスター・ホワイトリーのいる屋敷が、わたしの居場所なんだ。あの人がここから居なくなったら…………どうしていいか分かんない」
パメラは言葉を切って、何度も息を吸って吐き、ミカの目を見据えた。
「だけど……もしあの人が病気だと知っても、わたしはご家族にお願いなんてできなかったと思う。あんたはなんで、ただのメイドで女で……そんなふうに行動できるんだろう」
「それは……」
現代人と百年以上前の人との感覚の違いっていうか。
言うよね? 別にただのバイトでも。店長に「病院いきましょ病院!」とかさ。
コンビニの店長さん、奥さん亡くして独り暮らしだし。見切り品くれたりテスト期間気にしてくれたりいい人だし。もう絶対言うと思う。
別に女とか男とか関係ないし。
「……同じ人間だと思うんだけど」
「同じだなんて思えない」
「うーん……いつかそんな時代が来ると思うんだけど」
「へんな人だな、あんた」
「そうかなあ」
パメラはふっと微笑んだ。
「わたしには分かんない。でもここに来て初めて、救貧院が酷い場所だって分かったから…………いつかあんたの言うことも、分かるようになるのかな」
パメラは腕まくりをして、テーブルに玉ねぎを並べていった。
◆
空は昼の名残りをみせながら、西の果ての丘陵が赤く染まっていた。夕方のお茶は、使用人たちの休憩時間。戻ってきたリネンを部屋に届け、ミカは中庭を小走りに横ぎった。
(うーー寒い。早く紅茶飲んで温ったまりたい!)
視線の先で、使用人用の扉が開いた。ショールを羽織ったエロル夫人が、籐編みのカゴを持ち、こっちを見てにこりと笑った。
「あらミカ」
「どっか行かれるんですか?」
「ええちょっと」
「今からお茶……そういやエロル夫人、この時間いつも見かけませんね」
ミカの言葉に、エロル夫人は目を細めた。
「よかったら……ミカも一緒にくる?」
頷くミカを見て、待っててね、とエロル夫人は扉のなかに消えた。すぐにショールを手に戻り、ミカの肩に巻いてくれた。
「あの……どこに」
「そんなに遠くないわ」
南のアーチをくぐり、池のそばの小道を歩いていく。緩やかにうねる草地を10分ほど進むと、木々の間に小ぶりな家が見えてきた。
「庭師頭の家よ。ご夫婦で住まわれてるの」
家は石造りの二階建てで、温かな雰囲気だった。床には緑の絨毯が敷かれ、壁には数枚の風景画が掛けられている。暖炉の火格子で炎が音をたてていた。テーブルに着いたミカとエロル夫人に、中年の婦人がお茶を出してくれた。
「ありがとうございます」
開いた扉の奥から、幼児のはしゃぎ声が聞こえてくる。婦人に手をひかれ、あどけないズボン姿の男の子が、よちよちと歩いてきた。
「まーま」
「ジョイ」
エロル夫人は男の子を抱き上げ、頬をこすり合わせた。
「え?」
目を丸くするミカに、嬉しそうな笑みをこぼした。
「私の子ども。ジョイよ。ジョイ、もうすぐ何歳になるの?」
ジョイは、はにかみながら小さな指を三本たてた。
「そうね、三歳ね」
エロル夫人は、足元のカゴから布を取りだした。真っ赤なウールがジョイの全身を包みこむ。
「おやまあ、素敵なケープじゃありませんか」
「先月のボクシング・デーに、ご主人様が生地をくださったの」
「あ。エロル夫人、このリボン……」
ケープの端は、艶のある深紅の天鵞絨で縁どりされていた。先週、ローズたちに頼んでたリボンだ。エロル夫人が唇を上げた。そっか、この子のためだったんだ。ジョイはきゃっきゃと笑いながら、小さな手でケープを引っぱった。
「まーま、おうた、おうたうたって」
エロル夫人の膝に上がり、ジョイがぱちぱちと手をたたく。
稲穂のような髪をなで、エロル夫人はやわらかな声を響かせた。
ぼくには名前がないんだよ
生まれてたったの二日だもの
あなたをなんと呼んだらいいかしら?
ぼくは幸せなんだよ
ジョイがぼくの名前なの
あなたに素敵な喜びが降りそそぎますように!
I have no name
I am but two days old. ‐
What shall I call thee ?
I happy am
Joy is my name. ‐
Sweet joy befall thee !
ジョイはエロル夫人の胸元を握りしめ、こくりこくりと首をゆらした。婦人に抱きかかえられ、奥の部屋に連れていかれる。カップのお茶を飲み干して、ミカとエロル夫人は席を立った。
梢の間から、金色に染まる雲が見え隠れする。頭上の空に夜が溶けだし、青から橙へと色を変えていく。ふたりの影が伸び、砂利道をざらざらと鳴らしていった。
「いい詩ですね」
「ブレイクの『無垢の歌』よ。幼児の喜び。あの子の父親が好きだったの」
「その人は今……」
「結婚しなかったの」
エロル夫人は小さく首を振った。
「前のお屋敷勤めで出会った人でね。婚約して、教会で結婚予告をする直前に……お父様が倒れられて田舎に帰ってしまったの。そのままね……後から手紙がきたわ。状況がいつ挽回できるか分からない。なにも確約できないから結婚は白紙に戻してほしい。すまないって」
「……赤ちゃんが産まれたことは」
「知らないの」
「……いいんですか」
ミカはおずおずと問いかけた。
「いいの。あの人は家業で手一杯でしょうから。煩わせたくないわ……っていうのは建前ね。知らせたら、結婚してくれるかもしれない。だけどもし何も音沙汰がなかったら……自分が捨てられたと確信してしまうでしょう? 怖いのよ。私は臆病なの。希望があれば生きられるから……だから、知らせるつもりはないわ」
夕陽を浴びた横顔を見つめ、ミカは言葉につまった。
「ね、ミカ。パメラがお礼を言ってたでしょう?」
「あ、はい」
「私たちみんな同じ気持ちよ。気づいてた? この屋敷は、屋内使用人が極端に少ないの。みんな半年前に、ミスター・ホワイトリーに雇われた人たちばかり。みんな訳アリなのよ」
「え」
「妊娠がわかってお屋敷をクビになって、私は救貧院であの子を産んだの。あの子と別れて働く気にはなれなくて……少しでも近くにいたかった。そんなときよ。彼に出会ったのは。ミスター・ホワイトリーは、庭師夫妻にあの子を預けることを条件に、私を雇うと言ってくれたの。公爵家のハウスキーパーなんて、未婚の母親が就けるような仕事じゃないのに。こうして毎日、あの子と会うことも許可してくれて……恵まれているわ、本当に。あの人がこの屋敷を不本意に去らなくてよかった。ありがとう、ミカ」
つぶらな瞳をパチパチと瞬かせ、エロル夫人は目元をぬぐった。
小道の先では、石造りの屋敷が金色に輝いていた。
◆
紺碧に染まるガラス窓に、ランプの明かりが映っている。ホワイトリーは膝丈の黒いコートを着込み、ミカの隣に立っていた。執務机の前に革製のトランクが置かれ、そのうえに黒い帽子が乗せられている。茶色の髪はきれいに撫でつけられ、白い額が際だって見えた。うーんやっぱ格好いいなあ執事さん。
「今からロンドンに発つ。あとはジョンに任せてあるから」
「はい」
「なんだよ、ニヤニヤして」
「いやあ。ミスター・ホワイトリー、格好いいなって」
「はあ?」
しんとした執務室に、呆れた調子の声が響いた。ミカはくすりと笑った。
「そんな顔しなくても」
「どんな顔だよ」
「照れたみたいな」
「照れてない」
口をへの字に曲げて、ホワイトリーは両手をポケットに突っこんだ。
「……ミスター・ホワイトリー。みんなから慕われてるんですね」
「なんだよ、いきなり」
「エロル夫人もパメラも、それに昨日のジョンも。アリスもあなたに感謝してるって。みんな訳アリだって……聞きました。へへ、あたしもですよね……優しいんですね」
ミカの視線を逸らすように、ホワイトリーはトランクに目を向けた。歪んだ唇は、自嘲の笑みを見せていた。
「ほんとにそう思う?」
「え?」
「きみやアリスはまあ成り行きだけど……他のみんなは、おれが半年前ロンドンを中心に集めた。たまたま訳アリの人間を雇ったわけじゃない。最初からそれが目的だった」
「え……?」
「低賃金の仕事しかなさそうな人間にだけ声をかけた。高い賃金で雇用する代わりに、この屋敷で見聞きしたことは絶対に外部には漏らさないと。そう誓約させた。もし破った場合は、使用人ネットワークのブラックリストに載せる。そうすれば、二度と屋敷勤めはできないだろう。そう脅してある。訳アリの人間を雇ったのは、ここをクビになれば後がないからだ。優しさでもなんでもない」
メガネの奥の瞳は、光が映りよく見えなかった。
ミカは声を漏らした。
ホワイトリーが顔を上げた。薄い唇は開いたままだ。
「……なに笑ってんの」
「執事さん、自虐的だなって」
「は?」
「なんか分かりません? この人、自分を貶めようとしてるなとか。好意をもってくれてるなとか。なんとなく、伝わってくるじゃないですか。脅して言うこと聞かせるような人だったら、ジョンはラチェットの足を踏んだりしませんよ。みんな執事さんのことが好きで…………執事さんも分かってると思うんだけどな。後ろめたいから、そんな冷たいこと言うんですか」
「…………」
ホワイトリーはむっつりと口を閉ざした。図星みたい。
「だけど……もしバラしたら、本当にブラックリストには載せるぞ」
「バラすなんて思ってないくせに」
「うっさいな」
ホワイトリーの右手が髪を掻きまわした。額に毛先が落ちてくる。せっかくピシッと整えてたのに。
「じゃあ、お元気で。お留守の間もしっかり働きますんで」
「待って。挨拶のために呼んだんじゃない」
コートの内側を探り、ホワイトリーは鍵を差しだした。
「はいこれ」
「なんですか?」
ミカの手のひらに、二つの鍵がのせられた。
「北の間の鍵と、トランクの鍵だ。もしきみが……自分の親族を見てみたいと思うんなら……使ったらいい」
「……え?」
「きみが悪意をもってこの屋敷に来たんなら……おれは阻止するつもりだった。でもきみは…………こんなこと越権行為だ。おれなんかが決めることじゃない。だけど…………」
黒いコートの片袖が伸び、ミカの背中が引き寄せられた。
「きみを信じたい」
大きな厚い手は、すぐに背中から離れていった。
「すまない。用事はそれだけだ。じゃあな」
ミカは手のひらを見つめた。金属製で頑丈そうな、大きな鍵と小さな鍵。ぎゅっと握りしめ、両手でホワイトリーの右手に触れた。皮膚は硬く、がっしりと筋ばっている。ミカの手に挟まれて、ぎこちなく固まっていた。
「執事さん。元気で帰ってきてください」
「ああ……きみも元気でな」
鍵を握るミカの手に、硬い手のひらが添えられた。
「…………きみは、昔おれが憧れた人に似てる。ミカ…………きみは絶望を希望に変えて、この屋敷を正しい方向に導いてくれるのかもしれない」
暖炉は暗く、室内には冬の冷気が満ちている。ホワイトリーの手はじんわりと温かく、確かな熱を感じられた。窓の向こうでは、紺碧の夜空に白い雪が舞っていた。
交流していただいている作者様・デイロー様について、エッセイを書きました。この小説の読者様で彼女をご存知の方、またご興味をお持ちいただいた方がいらっしゃれば、ご覧いただければ幸甚です。
(私事ですみません)
『よければ聞いてください。』
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