2-3 ミカ、満月をむかえる(下)
使用人ホールに戻って、みんなに遅れて昼食の席についた。ローストビーフもヨークシャー・プティングも、デザートのルバーブ・タルトもしっかりお皿に残ってた。みんな優しいなあ。紅茶を飲み終えた頃、ホワイトリーが立ち上がった。長テーブルを囲む使用人が、一斉に席を立つ。
「みなさんにご報告があります。わたしは水曜日から二週間程度、ロンドンに滞在することになりました。その間は、ジョンが執事代行を務めてくれます。ジョン、よろしく頼みますね。滞在は医師の治療を受けるためです。ええ、あの巷で執事によからぬイメージを抱かれている……アルコール依存のためです。みなさんに一点、忠告しておきましょう。酒は飲みすぎないように。度を超えたグラスの中身は悪魔ですよ」
ホワイトリーの斜め向かいから、嘲るようなささやきが漏れた。
「ふん……情けない」
ミカが口を開くより先に、ラチェットが蛙じみた悲鳴を上げた。
「ぐぁっ……おい‼ ジョン‼ オレの足を踏んでるぞ⁈」
いつの間にか、彼の背後にジョンが立っていた。ジョンは表情を消して、じっと足元に目を落としていた。革靴はラチェットの上に乗ったままだ。
「おい、ジョン⁈」
「ジョン」
「ああ……すいません、ラチェットさん、ミスター・ホワイトリー。考え事してぼんやりしてたんで」
ジョンは端正な笑みをつくり、足を退けて席に戻った。ラチェットは口をぱくぱくさせている。なるほど。ジョン、気さくなお兄ちゃんかと思ったら、むしろ元ヤンだな? ミカはホワイトリーに横目をやった。執事さん、慕われてるじゃない。ミカは長テーブルを見渡した。右隣にはエロル夫人、左隣にはアリス、マーガレット、ローズ。斜め向かいのジョン、アルバート、(一応ラチェット)、そして端の席にはホワイトリー。たった十日と少しだけど、なんかいろいろ楽しかったな。明後日にはもう、この光景ともお別れなんだ。そう思ったら、なんだか映画の一場面を見てるような気分になった。
薄い灰白色の壁、曇りガラスのオイルランプ、ずらりと並んだ金属製のベル、頑丈そうな戸棚のうえの燭台、籐編みのカゴ、書きかけの紙片。壁にかかった時計とモノクロの写真、その下には木製の椅子が並んで、布張りの本が数冊置かれていた。窓からは午後の陽射しが差しこんで、光の帯にほこりがキラキラと舞っている。ホールの奥には古びたピアノ。いったい誰が弾くんだろう。一度ぐらい、聴いてみたかったかも。板を組み合わせた茶色い長テーブルと、硬い背もたれの簡素な椅子。そこに腰かけるのは、ピンクの制服姿のメイドと、紺色のお仕着せを着たフットマン。紳士のような出で立ちの執事と従者、そして濃紺のドレス姿のハウスキーパー。みんな役者じゃなくて、この19世紀に生きてる人たち。明後日にはもう、永遠にさよならする人たち。
「ミカ、どうしたの? 浮かない顔ね」
「エロル夫人……へへ、ミスター・ホワイトリーが留守にするの寂しいなって」
「たった二週間よ、すぐに過ぎるわ。永遠のお別れじゃないんだもの」
「……そうですね」
空のお皿を見つめていたら、やわらかな両腕に包まれた。ミルクのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。目を閉じたらお母さんの顔が見えた。明後日には、家に帰って学校に行って、全部もとどおり。ミカは目を開けた。
「エロル夫人……お母さんみたいですね」
「えっ?」
「ああいやなんか! すみません! 全然そんな年じゃないの分かってますけど! なんかこう落ち着くっていうか……その……ありがとうございます……」
尻すぼみになる声に、ぽんぽんと優しく背中をたたかれた。エロル夫人の腕のなかは、母親みたいに温かかった。
◆
窓の外は昼間のように明るい。丸い黄色がぽっかりと紺碧の夜空に輝いていた。
「ミカ、今夜はその服なんだ?」
今夜の姿は、喪服のワンピースに黒のタイツ。手にした紙袋には黒髪のカツラが入っている。ミカは背後を振りかえった。ベッドの上でアリスが雑誌をめくっている。翡翠色の大きな目をきらめかせ、絹糸みたいな淡い金髪が頬にかかっている。白い寝間着が毛布のうえに広がって、おとぎの国のお姫様みたいだった。
「うん」
ミカはベッドに近づき、アリスの小さな手をのぞきこんだ。モノクロの雑誌は『The Girl's Own Paper』と書かれている。
「その雑誌よく見てるね」
「うん、先週ローズが買ってきてくれたやつ! 今月創刊されたばっかりなんだ」
A4版ぐらいの雑誌には、挿絵がたくさん載っていた。傘を片手に公園を歩く女性たち。羽飾りつきの色んな帽子。お尻が膨らんだ裾の長いドレス。のどかな田舎の風景。緻密な草花。女性の隣に寝そべる耳の垂れた犬。
「小説や詩が載っててね、挿絵がすごく綺麗なの! いろんなドレスも見れるし……最初のお屋敷をクビになって、ロンドンを歩いてたら本屋さんに並んでて。ちょうど創刊号だったんだ。村ではこんな雑誌なかったから、すごくワクワクしたの。小説を読んで綺麗なドレスを眺めてたら、かなしい気持ちが軽くなったの」
アリスは声を弾ませて、見開きを顔の前に掲げてみせた。
「アリー様のお夜食が済んだら、一緒に見よ?」
ミカは声を詰まらせて、曖昧に首をゆらした。
(これからアリトの部屋にいったら、あたしはもう……)
ミカはベッドから離れ、机の前で立ち止まった。使用人部屋にコンコン、と硬い木の音が響く。アリスが嬉しそうに顔を上げた。コンコン、コンコン。ミカは何度も手首を動かした。コンコン、コンコン。何度も。何度も。
「あたし、アリスに出会えてよかった。いっぱい、いっぱい、幸せになって……元気でね」
アリスの顔がぱあっと輝いた。
「わたしも! ミカに会えて嬉しい!」
アリスをぎゅっと抱きしめて、背中をなでて、ミカはそのまま部屋を出た。潤んだ目を見られないように、一度も振り返らなかった。
◆
白い息が夜気に吸われていく。寒さに身体を強ばらせ、ミカは中庭を歩いていた。ふとアーチに目をむけた。石積みの半円形のむこうで、池が黄金色にさざめいている。その手前に人影があった。芝生に足を踏み入れて、首を伸ばしてみる。池の前にアンソニーが座っていた。
(……最後だし。軟膏も貰ったし。挨拶ぐらい、いっか)
「寒くないですか?」
「ミカ。どうしたんだ、こんな夜に」
「アリー様にお夜食を運ぶんです」
「ああ……あいつ、なんでわざわざきみに」
「同学年なもんで」
「は?」
「いやなんでも」
ミカはいたずらっぽく笑った。
「アンソニーは何してるんですか」
「なにも。月を見てた」
頭上では、満月が煌々と光を散らしている。
「きれいですね」
「……ぞっとする」
「え」
見下ろした横顔は、冷気にさらされて蒼白になっていた。
青紫の瞳は月光を浴びて、どこか異様にきらめいて見える。
「……じゃあなんで見てるんですか」
返事はなく、風が水面を吹きぬけた。アンソニーの背後に立ち、ミカは芝生に膝をついた。タイツに冷たい草が刺さる。両手をまぶたにあてた。氷のような肌だった。
「…………なに」
「目隠し?」
「…………なんで」
「見たくないなら、無理に見なくていんじゃないかと」
手の甲に、冷えた指先が重なった。
「……きみがそう言ってくれるのか」
「え?」
手を握られ、静かにまぶたから遠ざけられた。
すみれ色の目がミカを見上げている。
頭を反らしたまま、アンソニーは優しく笑った。
「ありがとう。冷えるよ。もう行きな」
「アンソニーも戻りませんか?」
「うん……もう少ししたらね」
紙袋を抱え、中庭に戻りながら、そっと後ろを振りむいた。池に建つ彫像のように、アンソニーは身動きひとつしなかった。
◆
アリトはカップを置いた。椅子をひき、ミカに向き直る。
「じゃ、行くか?」
「うん」
トレーの上のカップには、まだ半分紅茶が残っていた。琥珀色のなかにランプの光が映りこむ。困惑したミカの顔と一緒に。
「巻かないのか?」
「巻くよ」
首に提げた鎖をつかみ、時計を取りだした。鎖の輪に繋げられた鍵を手にとる。時計と同じ金色で、先端は円筒形になっている。ミカの小指よりも細く、膨らんだ持ち手には渦巻き模様が施され、中央は空洞になっていた。
「あ……ごめん。鎖、借りっぱ」
「いいよ。やるよ。記念に取っとけ。……別に捨ててもいーけど」
「捨てない。大事に取っとくよ」
裏蓋を開けて鍵を差し、ミカは手を止めた。
「あのさ……気にかけて貰えなかったって言ってたじゃん?」
「あーー恥ずい。忘れて」
「公爵は、アリトのこと大事に思ってると思うよ」
「……そうか。ありがとな」
「それにあたしも……」
「え?」
「あたしも……アリトが元気で生きてってくれたらって思ってるよ」
「…………おう。サンキュ」
「ちゃんとごはん食べなね」
「ああ」
「じゃ……行くね」
「ああ」
「長生きしなよ」
「おまえもな」
金色の瞳が少しだけ、潤んで見えた。
ミカは唇の両端を上げた。
気のせい……気のせいだよね。きっと。たぶん。
振りかえった窓はカーテンが開き、黄金色の光を注いでいる。
ミカは鍵を巻いた。
静かにまぶたを下ろした。
一秒、二秒、三秒……。
時間が過ぎるのを待った。
やがて眠気がやってきて。
意識が夢のなかに溶けていく。
……………………はずだった。
……………………はずだったのに。
ミカはまぶたを上げた。
金色の双眸がミカを見つめている。
ぱちぱちと暖炉の爆ぜる音。
ランプが部屋のあちこちで揺れていて。
えーーーーーーーーーーーーーーーっと?
「あ、わかった。部屋ごとタイムトラベルしちゃった?」
「んなわけねえ」
「……19世紀?」
「ああ」
「……英国?」
「ああ」
「……実はこれあたしが見てる長い夢で」
「現実逃避すんな」
ミカはテーブルに突っ伏した。
「か…………かえれなかった…………‼」
「だな」
そうだ。そうだよ。絶対帰れるわけじゃない。ただの推測だったもん。
ああでもなんかほんとに帰るつもりになってたからなあ。
そっかあ。そっかあああ。
ミカは思いきりため息を吐いた。
「……残念だったな」
「……………………うん」
顔を傾け、ちらと横目でアリトを見上げた。
眉を寄せた顔は、声音と同じ労りが感じられて。
だけど。
唇の端がほんの僅かに、上がって見えた。
物語中の『The Girl's Own Paper』は創刊第3号を想定していますが、挿絵については、19世紀の他の号を参考にしています。




