2-3 ミカ、満月をむかえる(上)
「ふあ……」
ミカのコルセットを締めながら、アリスは背中越しに声をかけた。
「寝不足?」
「うん、ちょっと」
「なにかあった?」
「ううん、大丈夫」
後ろを振りかえって、にっと笑ってみせた。アリスの翡翠色の目も細くなる。だめだめ、顔に出さないようにしなきゃ。帰れなくなっちゃった。二、三年、19世紀でタダ働き……お江戸の年季奉公かな? あと数日で満月なのに……しれっと鍵を巻いて帰っちゃおうか。なんて思わないわけじゃない。でも。
(……約束は約束だもんね)
心のなかでため息を吐いてたら、コンコン、と机を叩く音がした。
「Touch wood」
アリスは右手で机を鳴らして、にっこりと笑った。
「え?」
「ミカも一緒に鳴らして! ほら、Touch wood!」
言われるままに、手の甲で軽く音をたてた。
「た……タッチウッド?」
「わたしが落ちこんだとき、お母さんがいつも鳴らしてくれたの。木の精霊が幸せを呼びこんでくれるんだって。二人で鳴らしたら二人ぶんの幸せがやってくるよ。いつも助けて貰ってるから、わたしのぶんもミカにあげるね!」
ひと足早い朝陽のように、薄暗い部屋のなかに眩しい笑顔があった。ミカは目尻をこすって、机を叩くアリスを眺めた。コンコン、コンコン、と一緒に机を鳴らしたら楽器みたいで、なんだか楽しくなって、ふたりで始業時間まであそんでた。
◆
雨上がりの朝に、廊下の窓からぽたぽたと滴の音が聞こえてくる。
赤の間にお茶を運び終え、廊下に出たところで腕を引っぱられた。
目の前にアンソニーがいる。今朝は少なくとも髪には櫛がとおり、ボタンも鎖骨から下は閉じられ、白い生地に金刺繍入りのガウンを羽織っていた。
「な……なんですか?」
「そんな警戒しないでよ。はいこれ。届いた」
目の前に紙包みが差しだされる。
「ありがとうございます! あっ、ちょっと待ってください。六ペンス持ち歩いてるんで……」
「もういいよ。ワガシも貰ったし」
「や、あの破格にして貰ったのは分かってますけどせめて気持ちだけ」
「……わかった。じゃ、貰っとく」
「ありがとうございます。どうぞ」
「銅貨なんて子どものときぶりだ」
手のなかで六ペンスを転がして、アンソニーは唇の端を上げた。
「よかったらこの軟膏、アンソニー、いや、ミスター・アシュリーから、メイドのみんなに渡して貰えませんか?」
「メイドに? いいけど……なんで?」
「みんなにチップの代わりだって話したんです」
「ああ……それで六個も自腹で? 自分だけ貰って気まずいなら、内緒にしとけばよかったのに」
「え? 内緒になんてしませんよ。一個だったら分けて使いますし。でも六個あって助かりました。みんな手が荒れてるから喜ぶと思うんです。ありがとうございます!」
頭を上げたら、すみれ色の目が丸く開かれていた。
「……お人よし」
「へ?」
「いや別に」
扉に背中をもたれ、両腕を組んでミカを眺め、アンソニーは片腕を近づけた。メイドキャップが乗った頭を、ふわふわと撫でられる。
「……へ?」
「…………」
アンソニーは手を自分の頭に差し入れて、ぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「……アンソニー」
「え?」
「アンソニーでいい。ふたりのときは」
「いやでも」
「そう呼んでほしい。頼む」
「……分かりました」
真剣なまなざしで乞われ、押し切られるように頷いた。
「呼んでみて」
「……アンソニー」
小さな声を味わうように、アンソニーは睫毛を伏せた。
◆
アリトの部屋を訪ねてから、三日後、今日は日曜日。使用人ホールに、掃除や給仕を終えたローズやジョンたちが集まってきた。ミカは扉の側に立ち、廊下を見まわした。ホールでは、長テーブルの周囲でエロル夫人やアリスがお喋りしている。もうすぐ昼食の時間。
「どうしたの、ミカ?」
「マーガレット。いや、ミスター・ホワイトリーまだかなって」
「ほんとだ、昨晩から見かけてないね。どうしたのかな」
そう、昨日の夕食から、ホワイトリーの姿がない。ジョンに尋ねたら「急用が入った」と言ったきり口を噤まれた。長テーブルの端、空っぽの席。胸がざらりと騒いだ。まさか。もう屋敷を去ってたり…………しないよね?
「どうした? そんなとこに突っ立って」
馴染んだ声が背中にふれた。帽子を片手に、コート姿の男が廊下に立っている。
「ミスター・ホワイトリー‼」
ミカの前を横ぎり、ホールに入り、彼はエロル夫人にうなずいた。
「先に食べ始めてください」
ホワイトリーは扉の前に戻り、ミカの肩をたたいた。
「こっちに来て」
使用人階段の手前で足を止め、ホワイトリーが振りむいた。
「アリー様がお呼びだ」
「あ、はい」
「なにを話したんだ?」
「え?」
「アリー様になにか話しただろ?」
「なにかって……」
ホワイトリーは手に持った帽子をぎゅっと握りこんだ。
「……辞表の受理を撤回された。ロンドンの医院で治療を受けることになった」
「ほんとですか⁈」
「そんな嬉しそうな顔するなよ。おれは怒ってるんだぞ。昨夜アリー様から電報でロンドンに呼び出された。おれなんかのために、わざわざ大英博物館図書館で論文を調べて、スウェーデンの医師に連絡を取って下さったそうだ。面会した医師が教えてくれた。きみはアリー様になにを話したんだ?」
「……執事さんを助けてくださいって」
片手で顔を覆って、ホワイトリーは長い息を吐いた。
「……余計なことを」
「費用は? なんて言ってましたか?」
「公爵家が出してくださると」
よかった。あたしの名前は出さないでくれたんだ。気を遣わせたくないもんね。
「なんでそんな満面の笑みなんだ」
「へへ、嬉しくてつい」
「だから怒ってるんだって」
「いいですよ。怒ってください。それで治療受けてくれるんなら、いくらでも怒られますよ」
「ほんとにあーいえばこーいう……」
ホワイトリーは靴をひいて、眺めるようにミカを見下ろした。
「なんでそんな首を突っこむんだ? 身内が依存症だったから?」
「それもありますし……なんていうか、もう知りあっちゃったから……どうせなら元気でいて欲しいっていうか……あたし親戚とかいないんですけど、執事さんなんか叔父さんみたいで……こんな自称記憶喪失なんて怪しい人間を雇ってくれて、エリザベスの担当になったときも励ましてくれて……嬉しかったんで……」
ホワイトリーの腕が上がり、コートから冬の冷気が舞い散った。
腕はミカの背後で止まり、空気をつかみ、ゆっくりと降ろされた。
「母親と祖母がいると言ったな? 父親は?」
「いません」
「いないの意味は?」
「……あたしが産まれたときに別れたそうで」
「きみを認知せずに?」
「はい」
「親戚もいないのか?」
「はい」
「……親族を見てみたいと思うか?」
「……よく分かんないです。最初からいなかったから」
ホワイトリーは床に視線を落とし、メガネを押さえた。
吐息でグラスが曇り、また晴れては曇っていく。
声をかけることもできず、目の前で俯く男をミカは無言で眺めた。
「悪いな、引き留めて。もう行っていいよ」
会釈して、階段にむかう途中で声をかけられた。
「……アリー様にお礼を申し上げたら、きみに言えと言われた」
「え?」
「ありがとう、ミカ。屋敷を離れずにすんで…………本当は嬉しい」
傾斜の急な使用人階段は、窓もなく昼間でも薄暗い。ギイギイと軋む木の階段を踏みしめながら、ホワイトリーの声がランプのように胸に灯った。
◆
正午の日差しが、扉に光の模様を描いている。応じた声にノブをまわした。アリトはソファの横で、黒いコートを脱いでいた。
「よお」
「アリト……アリー様、ありがとうございました」
手袋を丸テーブルに置き、アリトが目の前にやってきた。
「あれからすぐに動いてくれたんですね。ありがとうございます」
「ああ、だから夜食はいらねーっつったろ」
「え?」
「朝にはロンドンに発ったから。いつ帰れるか分かんなかったし」
「……あ、そういう意味?」
「は? 他にどんな意味があるんだ?」
「いやもうただのメイドと夜会って話すことなんかねーぞって」
「メイドって……おまえはおまえだろーが?」
アリトは不思議そうに眉を上げた。
片手がミカに差しだされる。
「え?」
「時計。見せてくれ」
アリトは繊細な動作で蓋を開け、針を見つめた。
「……巻いてないのか」
「もうすぐ満月だし。うっかり帰っちゃったら困るし」
「帰んねーのか?」
「へ⁈ いや働けって言ったのあんたで」
「帰ればいいじゃねーか」
「はい⁈」
「満月に巻けば帰れるんだろ? だったらこっそり巻いて、とっとと帰りゃいいじゃねーか。どうせただの口約束なんだし」
「いや? いやいや残るよ? 残りますよ⁈」
「なんで? 望みどおり、ホワイトリーの治療も決まっただろ」
「なんでって……いや、正直帰ろうかなって思わなかったわけじゃないけどさ……ちらとは思ったけどさ……」
「ああ。だったら……」
「でも嫌じゃん。こっそり帰って、そんでアリトにあいつ嘘ついたとか思われてもさ……もう絶対会えないんだし。弁解もできないし」
「おまえ……なんだよ。意外と真面目だな」
「いやそこはなんていうか、約束は約束じゃない? だってあんた本気で残れって言ってたでしょ? 冗談には聞こえなかったし」
アリトは片方の口端を上げた。自嘲するような笑みがうかんだ。
「ああ、本気でそう思ってた。でも困ったんだ」
「なにが?」
「……おまえから、俺でも残るって言われたとき。嬉しかったんだ」
「…………」
「尤もらしいことを言い連ねても、俺はホワイトリーが羨ましかっただけかもなって。そんなふうに、自分を気にかけて貰えたことがなかったから」
「アリト」
「それに医師とホワイトリーの面会に立ち会って、あいつの病歴を聞いてたら、俺がこの屋敷に来てからだろ? 俺の手続き関連で、あいつに負担を掛けてたんだ。それを父に話して、辞職の受理を撤回して、治療費も負担することになった。だからおまえが残って稼ぐ必要はない」
「……ほんとに?」
「正直、試したい気持ちもあったんだ。自分の身も削らずに、他人に頼るのかって思って。悪かったな。でも俺が言うのもなんだけど、おまえそんな捨て身でこの先の人生、大丈夫か?」
「いいよ。別に捨て身じゃないし」
「二、三年、ほんとに残るつもりだったんだろ?」
「うん。でもさすがに一生とかは無理だし。今回は特別っていうか」
「ホワイトリーが?」
「うーん……いやあ……あたしのお母さんとお祖父ちゃんもアルコール依存症だったんだ。だからなんか、あんま他人事じゃないっていうか……」
アリトがぴくり、と手を動かした。
「……悪ぃ。あんとき言ってくれたらよかったのに」
ミカは目を逸らして頭をかいた。
「はは、なんていうか……あんま知られたくなかった? かな? アリトには。そんな自慢できるよーな話じゃないし……別に恥ずかしいってわけじゃないけど……そんなのお母さんとお祖父ちゃんに失礼だけど……」
そっと視線を上げたら、柔らかなまなざしとぶつかった。
「満月は明後日だ。鍵は巻くなよ」
「……うん。え? やっぱ帰るなって?」
「勝手に帰るな。夜、部屋に来い。挨拶ぐらいしてもいいだろ?」
「…………分かった。そうする」
ミカの手を掴まれて、懐中時計がのせられた。
「よかったな。もうすぐ会えるじゃんか」
「……うん。ありがと」
優しい笑顔を見ていたら、胸がちくりと疼いた。
帰りたい。
帰りたいんだけど。
この金色の目が、明後日には、もう永遠に見れなくなるんだ。
そう思ったら、胸の奥がざわめいた。




