2-2 ミカ、貴族と取引する(下)
室内の明かりがアリトの輪郭を縁どっている。狭く開かれた扉を背に、アリトは黙って立っていた。ミカは唇を開きかけ、また閉じた。言葉が思い浮かばなかった。
「それだけか? じゃあ」
「待って‼ 待って、あの……っ‼」
とっさにアリトの腕をつかんだ。ミカの右手を見下ろして、アリトは自分の腕から退けた。あ、これキツい。胸に石を詰めこまれたみたい。ミカは床を見つめた。退けられた右手が、アリトの手から解かれるのを待った。視線の先が、暗い床から明るい絨毯に変わる。右手は繋がれたまま、部屋のなかに引きこまれていた。
「……なんで?」
「は? まだ話があるんだろ? 立ち話するつもりか? 冷えるぞ」
暖炉のそばに連れて行かれ、アリトは左側の椅子に腰かけた。ミカも暖炉に近い、右側の椅子に座った。紅茶のカップが目の前に置かれる。
「さっきの残りだけど」
ミカは両手でカップを抱えた。ひんやりと冷たい。紅茶は冷めていて、でも豊潤な味はそのままでミカの喉を潤してくれた。はやる鼓動が段々と落ち着いていく。
「ありがと。あのさ、なんでか聞いていい? だめな理由」
アリトは短く息を吐き、背を丸め、広げた膝のあいだで指先を合わせた。
「未遂っつっても、窃盗の意思はあったんだ。盗みを働こうとした使用人を、お前は助けろって言うのか?」
「ホワイトリーはアルコール依存症だよ」
「ああ…………そうか。だから……」
「うん、病気なの。だから治療を受けさせてあげて」
「無理だ」
「……なんで?」
アリトは指先を握りこみ、深く息を吐いた。
「アルコール依存症は、まだ病気だって認識が広まってねーんだ。本人の意志の問題だって思われてる。21世紀みたいに、病院にいけば誰でも治療できるわけじゃねえ」
「でも探せばお医者さんが見つかるかも」
「まあ国中を探せばな……で、誰が探すんだ?」
「……アリトしか浮かばなくて」
「探して、見つかったとしてどうする。あいつは給料の大半を仕送りしてるらしい。残りは酒代に消えてるだろ。治療費は誰が払うんだ。この時代に、国民皆保険制度なんてねーぞ」
「公爵家が立て替えてあげれない?」
「……ミカ。例えば、ギャンブルに依存して、会社の金を横領しようとした社員がいたとする。会社はその社員を更生させる義務があるか? その罪をなかったことにして、治療費を払ってやるか?」
「でも福祉が……」
「ああ。現代なら、福祉や相談機関があるだろな。でもここは19世紀だ。21世紀じゃねーんだよ」
「でもアリトは21世紀のヒトでしょう?」
「言っただろ? 俺は19世紀の人間として生きていくって」
ミカは視線を上下させた。
目の前にいるのは、自分と同じ21世紀の男子高校生。
…………じゃなかった。
そっか。19世紀で生きていくって、そういうことなんだ。
あたしが喋ってるのは、貴族のアリーなんだ。
「あのさ、ここに来る前、図書室に寄ってみたんだ」
「ああ……」
「アルコール依存症に関する本とかないかなって。だめだった。全然わかんなかった。それに英語だから当然、読めないし。21世紀ならスマホで調べて病院探して、治療費だって払ってあげれるけど」
「……払えるのかよ」
「払えるよ。コンビニのバイト代、貯めてるもん」
「すげーな」
「いや別にすごくないけど……でもこっちじゃあたし、全然役に立てない。執事さん助けてあげれないんだ。だから……お願いします。力を貸してください。あたしに出来ることなら、なんでもしますんで」
ミカは頭を下げた。そのまま姿勢を保つ。
「おい……なんだよ突然。改まって」
「だってアリト……いえ、アリー様は貴族でしょう? あたしはただのメイドだから……ただのメイドが、ご家族にお願いしてるんです」
沈黙が空気に溶けていく。
ざあざあと雨音が、窓のむこうで滴を散らしている。
「……おまえはあと数日もすれば帰るんだ。帰ったら、ホワイトリーも、それに俺だってもう死んでる。いいじゃねーか。女子高生に戻って、楽しく暮らせよ。19世紀も、こっちの人間のことも忘れちまえ」
「むりです。帰って、執事さんのこと思い出して、行き倒れて死んじゃってたら……って想像すると思うんで。出来ることはしたいんです。だから……お願いします」
「……なんでもするのか?」
「はい」
「……本当に、なんでも?」
「はい」
うつむいた視線の先に、白い指先が伸びる。大腿に置いたミカの手に、硬い手のひらが重ねられた。
「…………本当に、なんでもか?」
「…………はい」
乾いた肌から熱が伝わってくる。
焦れたような声が空気を震わせた。
「顔、上げろよ」
見上げた先に、金色の双眸があった。
挑むようにミカを見つめている。
「おまえが払うか?」
「え?」
「おまえがホワイトリーの治療費を払うなら、助けてやる」
低く重たい声が頭にこだまする。
ミカはうなずいた。
「はい。あたしが払います」
「おまえ、金なんて持ってねーだろ」
「ここで働いて稼ぎます」
「いくら貰ってんだ?」
「毎月二ポンドです」
「二、三年はかかるぞ」
「…………っ‼」
「帰りてーんだろ? 気まぐれな同情心なんて捨てろよ。たかだか一週間知り合っただけの相手じゃねーか」
「……二年でも三年でも、払えるまで残ります」
アリトが眉を上げ、ふっと息を漏らした。
「あいつに惚れてんのか?」
揶揄するような笑みをむけられる。
ミカは唇の端を上げた。
「そんなんじゃないよ。アリトが同じ状況になっても、残って助けるよ」
アリトの笑いが消え、手の重みがなくなった。
細長い指先が、黒い髪をかき上げる。
閉じたまぶたがゆっくりと持ち上がり、
雲間の月のように金色にきらめいた。
「本気だな?」
「え?」
「本気で残るつもりなんだな?」
「うん」
「わかった。助けてやる」
ミカは目を見開いた。
「……ありがとう」
「もう帰れ」
椅子が音をたてた。
遠ざかる背中を、後ろから追いかける。
扉を開けて、アリトはミカに向きなおった。
「ありがとう、アリト」
「ミカ」
「うん」
「明日から夜食はいらない」
「……わかりました。夜中に失礼しました、アリー様」
「ゆっくり休め」
アリトが扉の奥に消えていく。
暗い廊下に雨の合奏が響いている。
夜の闇のなかに、ひとり取り残された気分だった。
◆
窓の外で、ぽたぽたと雨垂れの音が聞こえている。
カーテンの隙間から朝の光がこぼれていた。
アンソニーは両腕を伸ばし、あくびを漏らした。
前方で扉が動いた。
すみれ色の目が細められる。
「なんだ……昨日はメイドで、今朝は執事が朝のお茶を持ってくるのか」
「よくお休みになられたようで、なによりでございます」
「嫌味を言うなよ。仕方ないだろ。寝るのが明け方なんだ。朝も遅くなるさ」
「嫌味だなどと……とんでもないことでございます、サー」
「いいかげんにしろよ。執事ごっこは止めて、普通に話せ」
「これがわたしの普通でございますが……」
細い金髪をがしがしと掻いて、アンソニーは上目遣いでにらんだ。
「……寝起きの男の部屋にミカを寄こすな。寝ぼけて手を出したらどうするんだ」
「まさか。あなたに手は出せないでしょう」
「あの子がその気なら、もう抱いてるよ」
「…………そうですか」
ホワイトリーの手が止まる。茶器から目がはなれ、アンソニーに振りむいた。
「それは……ミカにその気がなくて、なによりです」
「何者なんだ? 変装して屋敷に潜入して、公爵にあの容姿で挨拶したって……ずいぶん計算高い女じゃないか。機会をやれば、僕を誘惑して手駒にするだろうと……そう思ったのに。全然なびかないんだ。おかしくない? なんなんだ、あの子?」
「ただのメイドですよ」
「公爵の亡き奥方にそっくりの?」
アンソニーの前にトレーが置かれた。琥珀色の水面から白い湯気が舞っている。
「きみだって、内心動揺してるくせに」
「してませんよ」
「言葉が乱れてるぞ」
「……しておりません」
メガネの奥に苛立ちが浮かんだ。アンソニーはいたずらめいた笑みを見せた。
「兄みたいに思ってるのに。あまり慇懃ぶってると、いじめたくなる」
「ったく。あいかわらず人が悪い」
執事に見下ろされながら、アンソニーはカップを持ち上げた。
「美味いな。この茶葉、うちにも卸してもらおうかな」
「マザワティーですよ。今度紹介して……誰かに言付けておきます」
「え?」
「いえ。ラチェットさんですが、特に怪しい様子はないですよ。あなたの言うとおり、釘は刺しておきました。なるべく一人にさせないようにしています」
「ならいいんだ。わざわざ公爵家のメイドと火遊びなんてしないと思うけど……気になったから、一応ね」
「あなたの従者でしょう。信頼してないんですか?」
「まだ三ヶ月足らずだからな……サザランド夫人に頼まれて、紹介状も特に問題なかったし」
「サザランド夫人の紹介で?」
「ああ、あそこのフットマンだったんだ。でも従者を希望してるっていうから。まあ、僕もちょうど従者がいなかったし。断る理由もなかったし」
「……正直、意外でした。あなたがサザランド夫人と……」
「公爵と対立している女性と、愛人関係になるとは?」
「……思いませんでした」
「似てるんだ、僕と」
「……え?」
「あまり幸せそうじゃない。望みどおりにいかない現実から一刻、離れたくて、互いに貪りあっている。それでも……ジョージがクリブデン公爵家を継げば、あの人も少しは満たされるだろう。僕は…………ミカが傍にいてくれたら、満たされるのかな?」
迷子の子どものような顔が、執事を見上げている。
彼はメガネを外した。鉱石のような双眸がまたたいた。
「あなたには幸せになって欲しいんです。マイケル様のぶんまで」
「ミカがほしい」
「彼女は奥方様でもマイケル様でもありませんよ」
「知ってる。それでも見ていたら堪らなくなる。亡くした大切な人間が目の前にまた現れたようで……手放したくない。あの子が何者でも構わない。結婚して、ずっと繋ぎとめておきたい」
「アシュリー家の跡取りが、メイドと結婚ですか?」
「ただのメイドじゃない。ミシェルの生家の私生児だ。そうだろう?」
「……他人の空似ですよ」
「これっぽっちも思ってないくせに」
「ミカはいい子です。傍にいてほしいなら素直になりなさい。最近のあなたは思わせぶりで、手の内を明かさないから……公爵、ジョージ様、サザランド夫人、綱渡りばかりしてると自分が傷つきますよ。軽薄に振る舞っていても、あなたは善良な人間なんですから」
「なんだよ。説教くさいな」
「兄みたいに思ってくれてるんでしょう?」
彼はメガネを戻し、一歩はなれて頭を下げた。
「ラチェットさんの件は、ジョンに頼んでおきます。どうか、アンソニー様もお元気で」
「おい。別れの場面みたいじゃないか」
眉根を寄せるアンソニーに、苦い笑いが返ってくる。
「感傷的な気分なんですよ」
「疲れてるんじゃないのか? 少し休んだらどうだ?」
「……これからゆっくり休みます」
「ホワイトリー」
扉にむかう後ろ姿が、おもむろに振りかえる。
「はい?」
「あまり自分をいじめるな。大事にしろよ」
「……その言葉、そのままお返しします」
懐かしそうに笑い、幕引きの役者のように、ホワイトリーは礼をした。




