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2-2 ミカ、貴族と取引する(上)

 テーブルの上で紅茶が温かな湯気をたてている。銀色のトレーには、二つのカップとビスケットの皿。それから、緑色のおはぎの皿。窓がガタガタと鳴り、雨は激しさを増していた。ミカはちらと暖炉に目を向けた。火格子で炎が踊っている。暖かな部屋のなかでは、荒ぶる雨も静かな音楽のようだった。


「……よく作ったな」

「どうかな? わりとイケるって思ったんだけど」

「ああ、まあ、いんじゃね?」

 にこりともせず、アリトはスプーンを握っている。

 あれ? びみょーだったかな。

「朝作ったし硬くなっちゃってた?」

 金色の目がミカを見て、すっとスプーンを差しだした。

「…………毒味?」

「ちげーよ。食ってみれば?」

 軽く口を開けると、ぽん、と甘い塊が落とされた。

「……不味くはないと思うけど」

「美味いよ」


 もぐもぐと口を動かす姿に、ミカは口をつぐんだ。

 美味いのか。そっか。そっかあ。うわなんか今さら恥ずかしいんですけど。なにこのシチュエーション。部活の先輩に差し入れ的な。いやでも。


「アリトって同じ学年なんだよね?」

「ああ。春から高二になるはずだった。こっちに一年だから、おまえより一歳上だな」

「そっか。よろしく先輩」

「じゃねーし。おまえあと数日したら帰るんだろ」

「まあうん、そーだけど」

「ま、元気でな」

「うん……」


 なめらかな頬に明かりが揺らめいている。白いシャツ。黒のベスト。濃い灰色のズボン。組んだ足の上に置かれた指先。貴族の姿をした青年。ほんとなら、ここがファミレスで一緒にコーラとか飲んでてもおかしくないのに。


「なんかさびしいな」

「じゃあ残れよ」

「いや⁈ いやいや、帰るよ!」


 慌てた声に、アリトがからからと笑った。


「あのさ、マイケルって知ってる?」

「マイケル?」

「うん。今朝アンソニーがあたしを見てマイケルって。呟いてて。あと四日前、ジョージにもマイケルを知らないかって聞かれたし」

「へえ……なんでおまえに」

「さあ?」

「父の息子だ」

「え?」

「父の……クリブデン公爵家のひとり息子だった。マイケル・サザランド。去年、事故で亡くなったそうだ」

「事故って……公爵ってあたしたちの親世代ぐらいだよね? 息子さんていくつで?」

「20歳になる前だな」

「…………かわいそう。やりたいこととかあったよね」


 アリトは紅茶をひと口飲んで、背もたれに片腕をまわした。


「棺のうえで目覚めたって言ったろ。マイケルの棺だった。それに墓参りの墓も……」

 目の前の視線がミカから逸らされた。

「いや……なんでもねー」

「うん?」

「まあなんつーか。俺は身代わりみたいなもんだろな。マイケルの」

「そうかな? アリトたちほんとの親子みたいだよ。言われるまで全然気づかなかったもん。二人とも自然だし」

「……そうか」


 アリトが照れくさそうに笑みをうかべた。嬉しいんだ。そうだよね。21世紀に帰らないぐらいだもん。公爵のこと慕ってるんだ。


「マイケルってどんな人? 公爵に似てる?」

「さあな。見たことねーんだ。肖像画も写真も。この部屋も彼のものだったらしいけど、なんの痕跡もねーし」

「……ってなんで?」

「知らね。てかおまえこそ、なんでマイケルのことなんか聞かれてんだ? なんか思いあたることねーの?」

「ないよ! あたしのほうが知りたいもん。ジョージもアンソニーもエリザベスも公爵もみんななんか変……」

「父も?」

「あ! いや別に公爵は変じゃないけど……」


 大階段の踊り場でほっぺた触られて見つめられたけど。


「ジョージは、マイケルのこと屋敷では禁句だって言うし」

「……初耳だな。他には?」

「アンソニーは…………」

 おはぎを食べたら泣きだして。ってのはあんま人に知られたくないよね。

「結婚……」

「結婚?」

「キス……」

「キス?」


 結婚しようてキスされて指突っこまれて財産めあてとか思われて懐柔しろって言われました…………言えない。てか言いたくない。いろいろ説明がめんどくさい。


「や、なんでもない。なに考えてるかよく分かんなくない? あの人」

「昨日、ケンカ売られたぞ」

「ええ⁈ なんで?」

「俺がケンカ売ってるからじゃね? いや俺と父が、か」

「アンソニーに?」

「いや、ジョージ……それとサザランド夫人に」

「なんでまた」

「たいしたことじゃねーよ。で、サザランド夫人は?」

「……うん。エリザベスは」


 爪で引っかかれました。あれわざとだよね? いやでもそんな女の争い的なこと言ったところでどーよそれ。


「うん、まあなんでもない」

「煮えきらねーな」

「アリトだって」

「なにが」

「たいしたことじゃねーって……ま、いいや。なんかみんなあたしが記憶戻らないかって。気にしてる感じなんだ」

「へえ……」

「ま、いいけど。あと数日で帰れるんだし」


 帰れる…………よね? たぶん。満月になったら。でもそれまでに。


「ねえアリト」

 大腿に両手をのせ、ミカはぐっと身を乗りだした。


「な、なんだ……」

「あのね、ホワイトリーが……」

「ああ、なんだ。おまえも知ってんのか?」

「え?」

「知らねーのか?」

「なにを?」

「知らねーのか……ならいーや。で?」

「いやいや気になるし。先に教えてよ」

「おまえもーすぐ帰るんだろ」

「それとこれとは別だってば」

「まあ……いいけど。ホワイトリーが辞職するそうだ」

「はっ⁈」

「いやだからホワイトリーが……」

「なんで⁈」

「……帰るまで誰にも言うなよ? さっき、父の部屋にきたんだ。窃盗未遂したって告白した。父と話して、来週中に引継ぎを終えて、抱えてる仕事を片づけたら退職することになった」

「窃盗未遂って……ワイン?」

「なんだ。やっぱ知ってんのか?」

「他には? なんか言ってなかった?」

「いや、なにも……」


 がた、と椅子が激しく鳴った。アリトが驚いたように見上げている。

 もつれる足を急がせて、ミカは扉に駆けていった。


「ごめんアリト‼ またね!」

 扉が大きく弧を描き、バタンと閉まった。



 薄暗い廊下を走り、一階まで階段を駆けおりた。扉をたたき、それと同時にノブをまわした。執務室はまだランプが灯っていた。机の先で、ホワイトリーが腰を浮かせている。


「なんだ? こんな時間に……なにかあったのか?」

「辞めるって……」

「……ああ……なんできみの耳に……」

「なんで話したんですか。未遂って……初めてだったんですよね? 部屋の空き瓶は違うんでしょ? だったら……戻したんだから……言わなきゃ誰にも分かんなかったのに……」

「見てたのか」

「……見てました」

「……楽になりたかったのかもな」

「え」


 ホワイトリーは椅子に深く背をもたれた。メガネを外し、ダークグレイの目を細めた。


「よかったんだ。きみが来てくれたから。未遂ですんだ」

「手は……震えたりしませんか?」

「は?」

「震えたりしませんか?」

「しないけど」

「寝汗をかいたり幻覚を見たりとか」

「なにそれ。ないよ」

「一度飲み始めたら記憶を失うまで止められないとか」

「……そこまでひどくない」

「飲みたくて盗もうとしたんですか?」

「……ああ」

「治療しましょう。依存症ですよそれ」

「依存症?」

「アルコール依存症。病気です。治療しなくちゃ」

「依存な……そうかもな。でもミカ、病気じゃない。おれのせいだ。コントロールできるつもりが出来なくなってた。意志が弱いんだよ」

「違いますよ。意志とかじゃなくて病気ですってば。治療しないと絶対だめなんですよ。ここを辞めたら病院に行くんですか?」

「まさか。ロンドンにでも行って……事務員の仕事でも探すさ」

「お酒は? 止めるんですか?」

「止めれない……だろうな」

「だめですよ! 飲み続けたら絶対いつか……」

「いつか?」


 ダークグレイの双眸が、ふたつの深い穴のようだった。


「仕事もできなくなって……身体がぼろぼろになって……」

「そのときは救貧院かイーストエンドの路上で暮らすよ」

「どこですかそれ……」

「それも忘れたって? ほんときみなんなの……」

「あたしのことなんてどーでもいいんです。ちゃんと治療してください」

「だから治療なんかできないって」

「できますって」

「もう放っといてくれ」


 細く長い指先が、鼻のつけ根をおさえた。

 あご先を天井にむけ、ホワイトリーはまぶたを閉じた。


「聞く?」

「……え?」

「昔話」

「……はい」

「おれが執事になったのは六年前……27歳のときだ。執事になるには若すぎるだろ?」

「いや執事の平均年齢とか分かんないですけど……え、六年前? ていまミスター・ホワイトリー、33歳……」

「ああ」

「うそ。二十代後半ぐらいかなって」

「童顔なんだよ」

「あ……。すみません、それで?」

「追いだしたんだ。前任の執事を辞めさせた」

「…………」

「六年前、先代公爵が亡くなって公爵が爵位をついだ。先代は前任の執事を気に入ってたけど、公爵は好きじゃなかった。おれもな。それで追いだしたんだ」

「でも……なんか理由があるんですよね」

「帳簿をごまかしてた。ワインの仕入れ数を偽装して、自分が飲んだり転売したりな……公爵もおれも気づいてたけど、先代が耳を貸さなかった。仕事中も赤ら顔であきらかに酔っ払ってた。依存だよ。アルコールなしでは駄目になってた。不正を明らかにして、警察沙汰にしない代わりに辞職させた。それでおれが後任になったんだ」

「それは仕方ないと思うんですけど」

「数か月後、人づてに救貧院にいると聞いた。まともに働けなくなったらしい。そうなることは予想できた……それでもおれはそうした」

「それはミスター・ホワイトリーのせいじゃ……」

「おれも間違ったことをしたとは思ってない。でもいい気分でもない。それから毎晩ワインを一杯飲むようになった。自分がしたことを忘れないためにな。去年まではなんの問題もなかった。去年……いろいろと重なって、気づいたら酒の量が増えていった。月に4本が8本、10本、15本……自腹で買ったぶんが、昨日で底をついた。業者が納入にくるまで数日はかかる。少しだけ借りてすぐ返せばいい。そう思ったんだ」

「去年て」

「たいしたことじゃない」

「マイケル……」


 ホワイトリーの肩がぴくりと動いた。視線がゆっくりと下がり、ミカに焦点を合わせた。


「誰に聞いた?」

「……分かりません。いま思い出したんで」

「へえ」


 椅子がきしみ、ミカの前に陰ができた。

 ダークグレイの双眸が見下ろしている。


「誰の指図でこの屋敷にきた?」

「指図なんて……」

「自分の意志できたのか?」

「……覚えて」

「覚えてるんだろう? 最初から」

 射るように見据えられ、ミカは身体を固くした。

「きみの目的はなんだ?」

「あたしの目的は……」


 21世紀に帰ること。だけど。


「ミスター・ホワイトリーに……治療を受けてほしいです」

「……おれに?」


 鋭いまなざしに戸惑いがうかんだ。


「はい。母は治療を受けて治りました。お祖母ちゃ……祖母が早いうちに病院に連れていってくれたから。ミスター・ホワイトリーも今なら治るはずです。放っといちゃだめだってお医者さんも言ってました」

「言っただろ? 病気じゃないんだ。おれは窃盗未遂まで……」

「祖父も盗みました。盗んで、板前をクビになったって……あたしは会ったことないですけど。お酒を止められなくて、それで身体を壊したって聞きました」

「……記憶喪失なんだろ? いいのか、そんなポロポロ話して」

「だって執事さんが頑固だから……」


 唇を噛んでうつむいた。やわらかな声が頭上に響いた。


「……きみは天国から来たのかな」

「……え?」

「奥方様がきみを寄こしてくれたのか……なんて。夢見すぎだな」

「え……」

「止めてくれてありがとう。罪人として屋敷から去らずにすんだ。それだけで十分だ」

「そうじゃなくて」

「もう遅い。明日も早いぞ。もう寝なさい」

「ミスター・ホワイトリー‼」

「もう行きなさい。おやすみ、ミカ」

「…………おやすみなさい」


 慇懃な口調は、それ以上、話を続ける意思がないと告げていた。

 開けられた扉の先は、薄暗い。ミカは重い足どりで部屋をでた。

 背後をみたら、夜の闇に紛れるように扉は固く閉ざされていた。



 二階の南東、図書室で、ランプの光が本の背表紙を撫でていく。壁一面に並んだ本を、ミカは食い入るように目でなぞった。茶色、紺色、小豆色、深緑色。布張りの背表紙には金色の文字でタイトルが書かれている。どれも高価そうなものばかりだった。


『PEPYS’DIARY』

『DEMOCRACY IN AMERICA』

『JOHNSONS SHAKESPEARE』


 ちがう。ちがう。Aはないの? アルコール依存症の治療についてとか。イギリスの名医図鑑とか。ミカは絨毯にへたりこんだ。ぐるりと壁を見まわした。こんなに広いのに。こんなにたくさん本はあるのに。欲しい本が見つからない。ううん、もし見つかっても。ミカは俯いた。あたしには読めない。やっぱ無理だ。19世紀で、あたしにはなんの力もない。ミカは立ち上がった。机にランプが置かれ、図書室の明かりが消える。ミカは大階段を駆け上がった。三階の北東、アリトの部屋の前に立つ。ノックをして間もなく、扉が開かれた。


「なんだ……もう寝たのかと思った」

「ごめんね、遅くに。アリトに……頼みたいことがあるんだ」

「……なんだ?」

「ホワイトリーを助けて」


 ミカの前で、金色の瞳が三日月のように細くなる。

 アリトは静かに口を開いた。


「断る」

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