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2-1 ミカ、ワガシを作る(上)

 雲が重なり、木々の葉群れに、なだらかに連なる丘陵に、たゆたう水面に、濃い影を落としていく。ミカは芝生に立ち、目を閉じた。頬をなでる風は湿った匂いがした。こうして戸外の空気に触れていると、頭がクリアになっていく。


「…………はああ」


 思わずため息が漏れた。昨夜はアリー、いや、アリトの部屋から戻ったあと、眠りについたのは明け方だった。いろいろ衝撃すぎて寝つけなかった。これから使用人ホールに戻って、昼食の時間。目を覚ましたくて、中庭をぬけて芝生に寄り道した。もうすぐ雨が降りそう。草の上に置いたカゴを持ち上げた。木製の簡素なカゴで、取っ手は金属製。ブラシや磨き布、クリームや洗浄剤入りの瓶がぎっしり詰まった、ハウスメイド・ボックスだ。水面にさざなみが走りぬける。ミカは池に背をむけ、芝生を踏み鳴らした。アーチの下で、黒い上着の男と鉢合わせた。アンソニーだった。


「なにしてるの?」

「昼食に向かうところです」

 すれ違いざまに、カゴを持つ手をつかまれた。

「なんですか?」


 すみれ色の双眸が、ミカの手に注がれる。

 ミカは半歩後ろに下がった。

 キスされたり指つっこまれたりしたの、忘れてないぞ。

 アンソニーは一歩にじり寄り、ミカの右手を開かせた。


「や、だからなにす……」

 黒い上着の内ポケットを探り、銀色の缶をミカの手にのせた。

 蓋を開けてみたら、ラベンダーの香りがふわりと漂う。

「うちで採れたラベンダーの軟膏。虫刺されや火傷に効くけど、手荒れにもいいと思うよ」

「あ……」


 そうなのだ。この仕事を始めて一週間。秋葉原のメイドは「お帰りなさいませご主人さま」の接客業。19世紀英国のハウスメイドは、ご主人さまから姿を隠し、掃除、掃除、ひたすら掃除。水仕事が多いから手が荒れる。給湯器なんてないしハンドクリームもどこで買えるか分かんない。ミカの手は霜焼けとあかぎれだらけで、だいぶ痛々しい。


「……ありがとうございます」

 見上げたら、人懐こい微笑がうかんでいた。

 身なりを整え、微笑む姿は完璧な紳士にみえる。

(…………かなり強引だけど、悪意は感じないんだよね)

 ミカは銀色の缶に視線を落とした。

 はっと顔を上げ、アンソニーに近づいた。


「あの! これ……あと六つあったりします?」

「え、屋敷にまだたくさんあるけど……いる? なら送らせるけど」

「ありがとうございます! いくらですか?」

「いくらって……別にいらないよ」

「いやお願いしといてタダってさすがに厚かましくて」

「ふうん。なら……一個一ソブリン。六個で六ソブリンでどう?」


 にやりと笑う顔を前に、ミカはもぞもぞと両手を動かした。


「そのー、六ソブリンって……いくらぐらいですか?」

 アンソニーはぽかんと口を開けた。

「まさか……貨幣価値まで忘れたって?」

「はい」

「ああ…………それとも、お金の要らない生活をしてたのかな?」

「え?」


 青紫色のまなざしが細められる。

 ミカが首を傾げていると、その目がふっと和らいだ。


「一ペニー」

「え?」

「一個一ペニー。六個で六ペンスでいい」

「六ペンス」


 ていくらだろ? なんて考えてるうちに、アンソニーの背中が庭園の脇道に遠ざかっていく。道のむこうに、小さくエリザベスの姿が見えた。



 昼食後、廊下を歩くホワイトリーを呼び止めた。ふたりで並んで中庭をぬけ、北東の棟にある執務室にむかう。石壁に囲まれた中庭は、博物館みたいな匂いがする。アーチから風が吹きぬけて、草と雨の匂いを運んできた。ミカは空をあおいだ。雲は水滴をはらんだまま、いつ落とそうか迷っているようだった。


「週払いできないかって?」

「はい。この一週間ぶんだけ、貰ったりできませんか?」

「なに? なんか急ぎなの?」

「手が荒れるんでハンドクリームが欲しいんです」

「ハンドクリーム? ラードじゃだめなのか?」

「ラ……ラード? って豚の? それはいやかも……」

「あっそ」


 ホワイトリーのメガネが、ちらとミカの手に向けられた。


「六ペンスあれば有難いんですけど……あたしのお給料ってそんなあります? 時給いくらでしたっけ? 今さらですけど」

 不安な顔をするミカに、呆れまじりの声が返ってくる。

「六ペンスって……きみ、たった六ペンスも持ってないわけ?」

「はい。あの、お金はまったく持ってなくてですね……」

「よくこの屋敷まで来れたな」


 組んだ両手に鋭利なあごがのせられる。

 ホワイトリーは首を傾いで、ミカの顔をのぞきこんだ。


「きみの給料は、一年で24ポンド、ひと月で二ポンドだ。一週間なら10シリングだな。時給は算出してないよ」

「10シリング……それだけあれば、六ペンスに足りますか?」

「きみさ……まさか、貨幣価値も覚えてないって言うんじゃ」

「覚えてないんです」

「……ほんとかよ」


 ぶつぶつと独り言ちながら、ホワイトリーは紙を一枚取った。インク壺にペン先をひたし、手を動かしていく。


「いいか。一ペニーが硬貨の最小単位とする。ほんとはファージングとかあるけど、ここじゃあんま使わないからな。12ペンスで一シリング。20シリングで一ポンド。ああ、ペニーが複数になるとペンスになるんだ。そうだな……例えば、燻製ニシンなら一缶で五ペンス。桃の缶詰は10ペンス。ロンドンのお高いレストランなら、コーヒー一杯で一シリング六ペンス。いいホテルに食事付きで泊まったら、15シリングってとこだな」


 紙に黒い線がにじんでいく。前のめりになって、のぞきこむ。顔を上げたら、触れそうな距離に秀でた白い額があった。近づきすぎちゃった。ミカは机から離れようとして、鼻をひくつかせた。なんだろ。甘い果実のような……そうだ、葡萄みたいな香り。


「ミスター・ホワイトリー、香水かなにかつけてます?」

「え? いや?」

「おかしいな。いま葡萄の香りがして」


 ミカは窓に目をむけた。ガラス窓はぴたりと閉ざされている。厚い雲が果てまでひろがり、北門もまわりの黒い柵もくすんで見えた。窓から視線をはなす。ホワイトリーは机から椅子をひいていた。もう葡萄の香りはしない。


「気のせいだろう」

「ですね。あ、ちなみに一ソブリンはいくらですか?」

「一ソブリンは一ポンドと同じ。20シリングだ」

 うん? じゃあ、一ソブリンを一ペンスって破格じゃない?

「じゃあ週払いで10シリングな。ほら、クラウン銀貨二枚……細かいほうがいいか? ならクラウン銀貨一枚で五シリング。残りはシリング銀貨四枚と、六ペンス銀貨一枚、一ペンス銅貨六枚で払おう。いいか?」

 ホワイトリーは懐から鍵の束を取りだした。机の引き出しを開け、黒い革張りの箱を天板に置いた。硬貨を数枚つまみ上げ、ミカの手にのせる。


「はい。ごくろうさん」


 手のなかで12枚の硬貨が音をたてた。ミカは顔いっぱいに笑みをうかべた。21世紀でも19世紀でも、お給料ってテンション上がる。

「嬉しそうだな」

「嬉しいですよー」

 片方の眉を下げて、ホワイトリーは扉を指さした。はい、働きますよ。お給料も貰ったもんね。ミカはお礼を言って、踵を返した。


 軽く音を鳴らして扉が閉まる。

 ホワイトリーは、茶色い髪を小刻みにかき上げた。

 壁際の棚に目をやり、また目を戻す。

 窓の外を見て、ぽつりと呟いた。

「……降りそうだな」

 立ち上がり、重い足取りで棚に近づいていく。

 棚からワインの瓶をつかんで、グラスに傾ける。

 額にしわが刻まれた。

 赤い雫は一滴も落ちてはこなかった。



「村にでるけど、なにか要るものある?」


 使用人ホールに、ローズとマーガレットが顔をのぞかせた。ふたりとも明るい青のドレスに着替えて、小花の飾りがついた帽子を被っている。うんうん、オフのときぐらいお洒落したいよね。ミカたちの休日は、週に一度の時間休と、月に一度の午後休がある。時間休は、昼食のあとの三時間。午後休は、朝の掃除を終えてから門限の夜22時まで。一人ずつ交替で休むけど、ふたりは仲が良いから一緒に取るみたい。現代の感覚からしたら、一ヶ月で一度もフルの休日がないってびっくりだけど。働いてると慣れるもんなのかな。


 長テーブルには、まぶしい真っ白なリネンが積まれている。洗濯を終えて戻ってきたシーツやカバー、テーブルクロス、ナプキン、タオル。その隣には、カゴが置かれている。ご家族の衣類が、一枚一枚、薄紙に包まれて入ってる。洗濯物はまとめて村に送ったら、数日後に荷馬車で届けてくれる。ミカたちが洗うのは、自分の衣類ぐらい。ミカは息を吸いこんだ。太陽の下にいるみたい。柔軟剤とは違うけど、ずっと嗅いでたい匂いがする。


「ガールズ・オウン・ペーパーの最新号ってあるかな?」

「キャンディーをお願いしようかしら。あとリボンを……そうね、三フィートぐらい」


 アリスとエロル夫人に頷いて、ローズがこっちを向いた。


「ミカは? ミスター・ホワイトリーから、買いたい物があるって聞いたけど」

「あ……ううん、大丈夫! ありがと! そうだ、あのさ……」

 リネンの谷間に、こん、と銀色の缶を置く。

「これって、いくらぐらいで買える物かな?」


 ローズ、アリス、マーガレットとエロル夫人が顔を寄せた。


「なに、これ軟膏?」

「うわあ、いい香り」

「ラベンダーね。それに……蜜蝋かしら」

「容器も銀製なのね。高級品だわ」

「一ソブリンぐらいします?」

「一ソブリン……そうねえ、それぐらいしてもいい品だわ」


 みんなの視線がミカに集まった。


「えーーっと。アンソニー、いや、ミスター・アシュリーが……お世話になるのでって。たぶん滞在中にみんなに渡されると思うんだ」

「まあ、チップの代わりに? ずいぶん気前のいい御方ねえ」


 こうして、アンソニーの知らないところでメイドたちの好感度が上がったみたい。



 リネンを部屋に運びながら、ミカは頭をひねった。


 …………最初からお金をもらう気なんかなくて。あたしの気が済むようにタダ同然にしてくれたんだよね。申し訳ないな。みんなの分もあればって思ったんだけど。今さら払うって言っても受け取って貰えなさそうだし。いやそもそも10シリングしか払えないんだけどね。


 現代だったら「お気持ちだけでも」ってデパ地下でお菓子とか買えるんだけど。クッキーとかケーキとか。でもあたしよりパメラの手作りのほうが美味しいからなあ。うーん。あたしに作れて屋敷であまり食べない物……日本のお菓子とか? 和菓子? 和菓子ってなにがあるんだっけ? おせんべい、最中に羊かん。いやいやどーやって作るのそれ。お米を炊いてつぶして焼いて? 最中のあんな薄い皮なんてむりむり。寒天なんて手に入んないし。ゼラチンはあるけど……豆のゼリー寄せ? なんかもう別のお菓子じゃない? そうだ、もち系ならつぶせばいけるかな? お米はあるし。餡は……小豆はないからグリーンピース? じゃあぜんざい、おはぎ……ぜんざいは温ったかいほうが美味しいよね。作り置きするならおはぎかな? 冷めても食べられるし。


(……19世紀英国でメイドになったら、お米とグリーンピースを潰して和菓子を作ります?)


 リネンを運び終えて、ミカは再び執務室にむかった。



 屋敷の玄関は、中庭の東側に面している。扉は二階の高さにあり、双翼の階段が据えられていた。扉が開き、アリトが階段を下りていく。ふと足が止まった。石造りの階段にもたれ、金髪の青年が立っていた。


「やあ」

「ミスター・アシュリー。どうも」


 足早に通りゆく彼を、軽やかな声が呼び止めた。


「乗馬かい? 雨になりそうだよ」

「夜まではもちそうです」

 両腕を組んで、アンソニーは頭をそらした。

 石壁に囲まれた四角い空には、灰色の雲がたちこめている。

「避けてるの?」

「なにをですか?」

「僕。ジョージ。サザランド夫人」

「まさか」


 アリトは靴の先を青年にむけた。

 青年は微笑をたたえ、彼に煙草を差しだした。


「私は……」

「ああ、きみは吸わないんだっけ」


 声音は穏やかながら、その目に挑発の色がうかんでいた。

 紙巻煙草をくわえ、マッチをこする。

 アンソニーの唇から細い煙が吐きだされた。


「きみがこの屋敷に来て一年か……すっかり慣れたようだね」

「おかげさまで」

「ずいぶん優秀らしいな。きみの話題になると公爵は機嫌がいい。あの人があんなに楽しそうなのは久しぶりだよ。この先はどうするんだ? オクスフォードに進学? その先は弁護士か、内科医か……それとも近衛連隊にでも入るのかい?」


 アリトは静かに唇の端を上げた。

 答えはない。

 アンソニーの目が鎌のように弧になった。


「ジョージはいい奴だ。彼が公爵家を継いだあとも、きみを悪いようにはしないだろう」

 アリトが笑みを深くした。獰猛な獣のようだった。

「……なんだよその顔。きみがどれだけ気に入られても、この屋敷を継ぐことはできない。分かってるだろう? きみは養子なんだから」

「分かってますよ」


 一瞬だった。

 アリトの腕が伸び、青年の煙草をかすめとる。

 唇に含んで、深く吸いこんだ。

 ふたりを隔てるように口から紫煙をくゆらせる。


「嫡出子がこの屋敷を継ぐ…………当然のことです」


 煙草が石畳に落とされた。

 革靴でぐいぐいと押し潰される。

 こぼれた葉が黒い虫のようにこびりついていた。

 端正な笑みを残して、アリトは背中をむけた。

 足音が階段を上がり、やがて扉が音をたてた。

 無残に散らばる煙草を見下ろし、アンソニーは髪をかき上げた。


「……いやな奴だな」


 もう一本取りだして、火をつけた。灰色の雲に白い煙が重なっていく。すみれ色の双眸がぼんやりと空を見上げていた。背後で扉が鳴った。硬い足音が聞こえ、アリトが脇をすり抜けた。足元にかがみこみ、背中を丸めている。

 アンソニーは眉を動かし、首を前にのばした。


「なにしてるんだ?」

「拾ってるんだよ。ポイ捨てはだめだろ」

 かき集めた破片を紙にまとめ、アリトが立ち上がる。

 何食わぬ顔で階段を戻り、玄関のなかに消えた。


「……へんな奴だな」


 扉を見上げ、アンソニーは頭をかいた。

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