1-1 ミカ、メイドになる(上)
その屋敷は、イングランドの南東部、バッキンガムシャーの森のなかにある。屋敷のまわりの丘も森も、目に映る地平線の果てまですべて、クリブデン公爵家の領地であった。冬の早朝はまだ夜の帳が下りたまま、暗く、屋敷の傍らでゆれる木も、鏡のように映す池も、庭園の草花も、みな眠りについているようだった。静寂。屋敷の南側のガラス窓に、ぽっと明かりがともる。静寂を破るように、窓が上げられた。少女が顔をのぞかせて、窓からぐっと身を乗りだして、白い息を吐いた。コマドリが高く鳴いた。少女の姿は消え、窓が下げられて、屋敷はまた重いまぶたを閉じたようだった。
◆
静寂。ミカはため息をついた。窓のむこうの黒い陰(目の前の池とか、その先の丘とか、そのもっと先の森とか)は、ぴくりとも動かない。静かすぎた。昨日までの朝とは、すべてが違った。アラームがなくてもいつも6時には目が覚める。シャワーを浴びて、ブレザーに着替えて、トーストを焼いて、目玉焼きとサラダを作って、夜勤明けで寝てるお母さんのぶんはラップをかけて冷蔵庫に入れた。テレビのアナウンサーの声、上階の住人の足音に、車のクラクション。ミカの知る朝は、いつもにぎやかだった。この19世紀の田舎の屋敷は静かすぎて、広すぎて、おまけに寒い。ミカはぶるりと震えて、くしゃみをした。
ランプの薄明りを頼りに、服を着替える。もうとにかく、寒い、寒い。ひと晩寝たら、身体はすっかり冷えきっていた。エアコンもなければ、ヒーターもない冬なんて正気じゃない。部屋の壁ぎわにある暖炉は、ただの四角い箱だった。同室の少女に「使わない?」と尋ねると、「雪が降る日だけね」と笑って言われ、ミカはがっくりとうなだれた。
着替えた服は、メイドの制服だ。
窓ガラスに自分の姿を映してみる。
にっこりと笑って、小首を傾げた。
「おかえりなさいませ、ごしゅ…………あー、うん。ないな」
ガラスに映る少女は、うんざりと顔をしかめた。
秋葉原に行ったことはない。メイドになりたいと思ったこともない。でもちょっとだけ、ワクワクしたのだ。昨日、メイドとして雇われると決まったとき。あの黒いドレスと白いエプロンを着た自分を想像して。それなのに。いまミカが着ているのは、スーパーの鮮魚コーナーの、サーモンのお寿司みたいな淡いピンクのドレスだった。似合わない。おそろしく似合わない。ボブの黒髪と黒い目に、パステルカラーのピンクは反則だ。いや、似合う子だっているのだろうけど、ミカには壊滅的に似合わなかった。
「おかあさん……そのプディング……わたしのぶん……」
背後から聞こえる声は、尻すぼみに消えた。ベッドの主は、頭まですっぽりと毛布をかぶり、すうすうと寝息をたてている。ミカは毛布を見下ろした。そのなかにいるのは、淡い金髪と翡翠色の目をもつ少女だった。ミカより4つ年下で、まだ13歳の幼いメイド。朝が弱いという彼女を起こすのは、もう少し後にしよう。ミカは苦笑いした。このおぞましいピンクのドレスも、可愛いアリスにはよく似合うだろう。
◆
昨日、芝生のうえで目が覚めた。
背中が湿って冷たくて、ぴちちと小鳥の鳴き声がして、ひやりとした風が頬にふいて、なんで? と思って目を開けた。青空があった。ミカの目と同じ色で、太陽がまぶしかった。そのまま首をそらすと、大きな屋敷があった。三階建ての洋館で、どこかの国立美術館とか博物館とかそんな感じの。なんでこんな夢見てるんだろ、てかお祖母ちゃんの遺品整理してたのになんだあたし寝落ちしたのかお風呂もまだなのに、とミカは思った。そして、固まった。ぐっと首をそらして頭のうしろを地面につけたら、視線の先に少女がいた。
「うわっ」
「きゃっ」
少女は膝立ちになって、おそるおそるといった様子でミカをのぞきこんだ。
「よかった……死んでない……」
いやいやひとを勝手に殺すなと思いながら、ミカは上体を起こした。少女は翡翠色の目で、じっとミカを見つめている。ミカはゆっくりと首をまわした。風にゆれる木立、草がそよぐ丘陵、さざ波がたつ池、水鳥、高い青空、厳めしい石造りの屋敷。それから。黒いドレスに白いエプロン姿の可愛い少女。
「……ゆめ?」
ミカはつぶやいた。いやこれ夢だよね。夢でしょう。夢じゃないの。そう思いながら、息を吸いこんだ。森の匂いがする。遊歩道みたいな、土と葉のまじった青くさい匂い。手にふれる芝生はひんやりと固い。手。ミカは右手を見た。石のように固く指を握りこんでいる。ぎこちなく指を開いた。手のなかに金色の丸い物体がある。
「すごい……きれいな懐中時計」
少女が声を弾ませた。手のひらで、小さくコチコチと音が鳴っている。金色の懐中時計は、お祖母ちゃんの遺品だった。ベッドのうえで、鍵を巻いたところまでは覚えている。そのあとの記憶がなくて、今ここ、どこかの外国の田舎にいる。ミカは空を見上げた。雲ひとつなくて、澄んだ青空。なんてきれい。
(……これ夢じゃない。なんかよく分かんないけど、夢じゃないな?)
ミカと目が合うと、少女はにっこりと笑った。
あまり無邪気で可愛らしくて、ミカは笑みをこぼした。
◆
少女はアリスと名乗り、屋敷のなかにミカを連れていった。
「外にいたら風邪ひいちゃうよ」
建物の中央にアーチがあって、その先は中庭だった。敷石のうえを歩いて、簡素な造りの扉を開けてもらう。アリスはすたすたと廊下を進み、大きな扉の前で止まった。ノックの後で、若い男性の声が返ってきた。
「ミスター・ホワイトリー。女の子が倒れてました!」
部屋の奥に座っているのは、すらりとした痩せぎすの男性だった。上品な黒い服を着て、優雅な所作でミカを見上げている。メガネのひと。というのが、ミカの第一印象だった。白い肌に紅色の唇をもつ中性的な顔だちは、少女漫画みたいなイケメンの空気を醸しだしていた。だけど、メガネ。その鼻にかけられたレンズは分厚すぎて、印象のすべてをメガネに持っていかれていた。
「倒れてたって……具合でも悪いんですか?」
「や、大丈夫です。ちょっと寝ちゃってて」
「こんな寒空のなか?」
その声にわずかな棘を感じた。
「ご主人様の客人ですか。それとも、アリー様の?」
「……客、ではないです」
「じゃあ、不法侵入者でしょうか?」
ぞっとする響きに、息をのんだ。答えあぐねるミカの隣で、可愛い声が聞こえた。
「そんな怪しい子じゃないです! 逃げるそぶりもないし、起きたとき、きょとんてしてたんですから。きっと、村の子が迷いこんじゃったんですよ」
「ってもねぇ……門衛だっているんだからさ……きみ、なんていうの?」
「え?」
「名前」
「……ミカです」
男性は、がた、と椅子から腰をうかせた。
「姓は?」
「え?」
「きみの姓は?」
早口で問いかけられ、ミカは言葉につまった。
「…………おぼえてません」
「……は?」
「お…………覚えてないです」
メガネのつるに手をふれて、男性は矢継ぎ早にたずねてきた。
「出身地は?」
「覚えてません」
「両親は?」
「覚えてません」
「なぜここに来た?」
「覚えてません」
男性は睨みつけるようにこっちを見た。
ミカも負けじと見つめ返した。
根負けしたように、男性は深いため息をついた。
「…………きみ怪しすぎるんだけど」
「記憶喪失です」
「は?」
「記憶を失ったんです」
「うそだろ……」
呆れたように首をふって、男性は茶色の髪をかきむしった。
じーーーっとミカを見つめた挙句、目を閉じた。
「……じゃあ、明後日ご主人様が戻られるまで、客人として」
「働かせてください」
二人の声が重なった。
男性は、まじまじとミカを見た。
「えっ……働きたいの」
「はい、働きたいです」
「別に客人として、部屋でお茶飲んでくれてていいけど」
「や、無理です」
「え、なんで」
「暇すぎて」
二人は見つめ合った。
男性はぷっと吹きだして、アリスに声をかけた。
「エロル夫人を呼んできて」
「かしこまりました。あ、ミスター・ホワイトリー。レンズに汚れがついてますよ」
「おっ、まじか。いかんいかん」
引き出しから布を取りだして、男性がメガネを外した。ダークグレイの双眸が細められる。ミカは心のなかで呟いた。うん、空気だけじゃなかった、しっかりイケメンでした。男性はぴかぴかに磨かれたメガネをつけて、明るい顔で手を差しだした。
「執事のホワイトリーだ。よろしく、ミカ」
<改稿について>
物語の本筋に関わるような改稿は、前書きにて報告いたします(現在予定はありません)。それ以外の改稿は、更新予定日の削除(後書き)や語句の修正など些細なもので、読者の方に読み直しをお願いするものではございません。