博士は過保護
その博士は、まぎれもなく天才であった。専門は遺伝子工学。百年に一人の秀才といわれ、これまでに数多くの研究成果をあげ、医学の発展に尽力してきた。
博士には、40歳の時に出来たひとり息子がおり、それはそれは溺愛していた。歳を取ってから生まれた子供はとりわけ可愛いと言われるが、まさにそうだった。
そんな息子の様子が、最近少しおかしい。前までなら何でも話してくれていたのに、学校での事を話したがらないのだ。中学一年生という精神発達の過程で起こる反抗期かもしれない。それなら取り越し苦労で終わるのだが、万が一学校でいじめられてでもいたら…。そう思うと、居ても立っても居られず、どうにかして学校での息子の様子を知る手立てがないかと考えを巡らせるのであった。
そしてある日、博士は息子の通う中学校に忍び込んだ。許可を取ってないので、こんな事がバレたら不法侵入で警察を呼ばれてしまうだろう。しかしそれは、博士の存在に気が付いたらの話。実際には、誰にも博士の姿は見えていない。だから、父親参観日さながら、教室の後ろに鎮座して、息子の授業風景を観察する事が出来た。
数日前。学校での息子の様子が気になって仕方がなかった博士は、研究室に籠り薬の開発に取り組んだ。専門の遺伝子組換え技術を用いり、薬は見事に完成した。その薬を飲むと、ヒトの体内に存在する約3万個の遺伝子が、組み換えられ、透明人間という生物になれるのだ。元通りに戻れる薬も開発し、課題は全てクリアした。
朝。透明人間となった博士は、息子と共に学校に向かった。もちろん息子にも見えてはいないし、内緒にしている。博士は、どうか取り越し苦労であってくれと願うばかりだったが、学校に近づくにつれ、息子の様子に変化が現れた。家では決して見せない強張った顔付きになり、息苦しそうだった。
学校に着いて教室に入ると、息子は窓際の一番前の席に着く。そこに辿り着くまでの間に、数人のクラスメイトとすれ違ったが、誰も息子に「おはよう」と声を掛けてくるものはいなかった。どうやらクラスメイト全員から無視されているようだ。博士が抱いていた懸念はどうやら現実らしい。教室に入ってからの息子は、常にビクビクと怯えている様子だった。
授業内容は息子の学力からしたら低レベルであった。放課後になり、息子は鞄を持つとキョロキョロと辺りを見回してから、逃げるように教室を出て行く。
学校からの帰り道、待ち伏せしていたのか、3人組の男子生徒が息子の前に立ち塞がった。ひとりは同じクラスの生徒で、髪の色が茶色で、授業中も碌に先生の話を聞こうとはせず、漫画を読んだり、携帯ゲームをしたりと目立っていた。博士は、この生徒こそが諸悪の根源だと気が付いた。息子をいじめの標的にした詳しい理由は分からないが、想像するに、優秀で、裕福な息子に嫉妬したのであろう。
「おい、何処行く気だ。逃げるつもりじゃねぇだろうな」と、茶髪が凄んでくると、息子はガタガタと震える脚で立つだけで精一杯だった。「逃げるなんて…」息子が消え入りそうな声で言った。待ち合わせ場所に向かうところだったと。博士は心臓を鷲掴みにされるような感覚だった。
「じゃ持ってきたんだろうな。10万円」と、茶髪は息子の胸を殴った。博士はカッと頭に血が上る。父親のわたしですら、ぶったことないのに。「ごめん。やっぱり10万円なんてお金持ってなくて」息子は申し訳なさそうな顔をした。「何言ってんだ。お前の家、金持ちだろうが。ちょっと来い」と、茶髪は息子の胸倉を掴むと、引っ張っていき、近くの空き地まで連れて行く。
空き地は、裏通りにあって、人通りが少なく、人を痛めつけるには持って来いの場所だった。茶髪は息子の腹を殴り、うずくまったところを、脇腹を狙ってつま先で蹴ってくる。息子は苦しそうに顔を歪める。茶髪に続いて、仲間の2人も、上から背中をガンガン踏んでくる。
息子の痛めつけられているところなんて、父親なら誰でも見ていられるわけがない。激昂した博士は、息子を執拗に蹴りまくる茶髪の前にやってくると、頬を思いっきり殴りつけた。小さな頃から勉強ばかりしてきた博士にとって、人を殴るなんて事は初めてだった。
それでも博士の拳は茶髪の頬にジャストミートした。茶髪は殴られた事で、よろめく。痛みを感じるよりも先に、不思議そうに顔を歪める。それは仲間の2人も同じで、ポカーンと開いた口が塞がらないといった感じだった。何が起こったんだ?と、3人は顔を見合わせる。
亀のように体を丸くしていた息子は、蹴りが止んだこの隙に、腹這いになって、必死に地面をするように逃げようとする。
「てめえ、何しやがんだ」と、茶髪が息子に向かって怒鳴った。息子が何らかの、石を投げつけたとか、そういう方法で、反撃をしてきたと勘違いをしたようだ。博士の姿が見えてないのだから、無理もない。
四つん這いで、無我夢中で逃げようとしている息子の前に、無情にも空き地のブロック塀が立ち塞がる。恐怖から視界が狭まり、ただ真っ直ぐ進んでいた事が失敗だった。行き場を失った息子が振り返ると、茶髪が目を吊り上げ「殺してやる」と近づいてくる。
息子は、両手を茶髪の方に突き出し「やめて、やめて、来ないで、ああああああああ~」と発狂したように叫んだ。すると、息子までまだ3㍍ほど離れていた茶髪が、突然吹っ飛んだ。
種明かしをするまでもないが、透明人間の博士が、迫ってきた茶髪目掛けて体当たりしたのだ。
茶髪はカウンターを食らったようなもので、相当な威力だったのか、どん、どん、と地面でバウンドを繰り返して、空き地の入り口付近で止まった。5㍍ぐらいは吹っ飛ばされた事になる。茶髪は地面にくの字の体勢で倒れている。意識はあるようだが、何が起こったのか分からず、呆然としていた。
息子もまた、空き地のブロック塀にもたれた体勢のまま固まっていた。しかし頭の中では、目の前で起こった怪奇現象が何だったのか思考を巡らせている。何が起こったんだ。何だったんだ。訳が分からない。突然吹っ飛んだぞ。誰がやった?空き地には僕と彼ら以外誰もいない。という事は、僕か彼らがやったのか。仲間の彼らがやったのか。仲間割れか?いや、揉めている様子はなかった。じゃ彼が自ら吹っ飛んだのか。そんな事をする理由が分からない。じゃ僕がやったのか。僕がどうやってやったんだ。
思い返してみる。追い詰められ、両手を突き出し「ああああああああ~!」と発狂したように叫んでいた。すると、突如彼が吹っ飛んだ。
息子はゆっくりと自分の掌に視線を向ける。掌から何か衝撃波のようなモノが出た、というのか。そんな事って…。信じられない。でも、他に何か思い当たる事があるか。ないよなぁ。という事は…
ようやく立ち上がった息子の顔付きは、どこか勇ましくなっていた。「試してみれば分かる事だ」そう呟いた息子は、両手を茶髪の仲間のひとりの方に突き出した。その男との距離は4㍍ほどある。男は顔を歪めて「ハァ!?何だよそれ。何する気だよ」と声を張り上げる。「はぁあああああああああ!」と、息子が掌から衝撃波を出そうとするものだから、慌てたのは博士だ。
息子は何かとんでもない誤解をしたようだ。博士はどうしたらいいものかと右往左往。「はぁあああああああああ!」と、大真面目な顔をして衝撃波を出そうとしている息子。これで、出ませんでした、なんてカッコ悪すぎる。息子に恥をかかすわけにはいかない。博士は息子が手をかざしている男の前までやってくると、どん、とその男の胸の辺りを力いっぱい押した。男は急に体に衝撃を受けたものだから、踏ん張りも効かず、よろけて、尻餅をつく。
息子はニヤリと片方の口角をあげる。完全に、特殊な力を持っていると確信した様子だ。弱虫だった主人公が能力に目覚めてキャラが一変するように、息子のキャラも一変した。
「覚悟しやがれ、悪党ども」そう言い放った息子は、もうひとりの男の方にも両手をかざすと「はぁあああああああああ!」と、衝撃波を出そうと掌を掲げる。乗り掛かった船というか、自分で蒔いた種。今更無視は出来ない。次はこっちかと、博士はそそくさと、もうひとりの男の方にも近づいていき、どん、とその男の胸の辺りを力いっぱい押した。突然の衝撃に男はよろけて、尻餅をつく。
「さぁ、お楽しみはこれからだぜ」息子は止まらない。イケイケノリノリ状態であった。目をぎらつかせ、両手を掲げ、茶髪たちの方に近づいていく。目に見えない、何だか分からない攻撃を食らった3人は、不安そうに顔を歪める。息子に対して恐怖を感じ始めていた。突き飛ばされた体を起こして、ゆっくりと立ち上がった脚は、ガタガタと震えている。3人は顔を見合わせると、誰からともなく、その場から逃げるように去って行った。
息子はじっと、自分の掌を見詰めた。眠っていた超人的な特殊能力が覚醒した。恍惚したような目付きで、空を見上げると、人が変わったように、アッハハハっと高笑いを始めた。博士は頭を抱える。これはこれで、見ていられなかった。
次の日には、息子の特殊な力(実際は透明人間になった博士がやったことだが)の事は、学校中に知れ渡っていた。あの3人のうちの誰かが言いふらしたのだろう。親が遺伝子工学の博士である事から、遺伝子実験の実験台にされた息子が、特殊能力を持つミュータントになってしまったというアメコミのような筋書きまで広まっていた。過保護の博士が、息子を実験台にする非道な父親になってしまうとは、なんとも皮肉なものだ。
しかしあの日以来、息子のいじめはなくなった。どこの誰が、ミュータントをいじめようと思うのだ。そんな事をしたら、どんな仕返しをされるか分からない。いじめはなくなったが、クラスメイトたちは、息子を怖がり、気味悪がり、ますます誰も近づかなくなった。無視されていた時と状況はそれほど変わらないが、息子がビクビクと怯える事はなくなった。それどころか、ミュータントとしての自覚が芽生えて、自信に満ち溢れていた。いつかこの力を使って世界を救おうと真剣に考えているようだ。
あれから博士は、息子がいつミュータントの力を発揮してもいいように、透明人間となって、息子のそばに張り付いていた。息子に恥をかかせるわけにはいかないので。
息子は放課後、街の路地裏をパトロールするようになった。いじめやリンチを発見すると手を掲げ、「はぁあああああああああ!」と衝撃波を出す。博士は老体に鞭を打ちヤンキーを突き飛ばす。助けられた人は息子に感謝の意を伝える。「いいって事よ」息子はますますヒーローらしくなっていた。博士は、老いには勝てず疲労していた。こんな事では、いつか息子に恥をかかしてしまうかもしれないからと、時間を見付けジムに通うようになった。若干筋肉も付き始めていた。
博士だって、さっさと息子に真実を話さなければと思っているが、本当の事を知った時の息子の悲しそうな顔を想像すると、言い出せないでいた。だから、昼は透明人間として、夜は遺伝子工学の博士として、忙しい日々を送っていた。
そんなある日、別のクラスのひとりの女子が息子を訪ねてきた。「お願い、助けて」「どうした?何があった?」
こうして息子は、ヒーローとして一歩踏み出す事になるのだが、それはまた別の話。
終