1-3
二週に一度の来訪ということもあって、本売りの許にはちらほら人が集まっていた。
皆、思い思いの本を手に取ってはちらと読み、あるいは買っていく。それを、アリーは少し離れたところから見ていた。
早く本を探したいと思っても、足は錘でもつけられたかのように重く、なかなか動かない。たくさん人がいるところにあまり行きたくないという思いが、そうさせているのかもしれない。
「ちょっと、待とうかな」
まだ日は中天に差し掛かってもいない。本売りの商人は日が落ちる頃には去るから、時間的にはまだ余裕がある。それに、人々が最も集まってくるのは、お昼時と夕刻の丁度間くらいだ。少し待てば、今の人だかりはなくなる。
アリーの予想通り、程なくして人々は去っていった。中年の男が、一つの波を超えたという感じで、右肩を反対の手で押さえながらぐるぐる回している。
「こんにちは、おじさん」
そっと近づいて、アリーは声をかけた。
商人はアリーの姿を認めると、いつもの柔和な笑顔を向けてくれた。
「いらっしゃい、アリーちゃん。随分と待ったのではないかい?」
「大丈夫だよ。待つことは、慣れっこだもの」
そう言うと、商人は声をあげて笑った。
アリーが人前にあまり姿をさらしたくないのを、商人は理解してくれている。仕事柄なのか、それとも別に何かがあるのかはわからないが、それでも受け入れられていることは、アリーの心を少し慰めてくれた。
アリーは、荷車にたくさん置いてある本に目をやり、思わず嘆息した。
「今日も、たくさんあるんだね」
「そりゃあ、各地を必死に回って手に入れているからね。みんなに本を読んでもらうために、わたしゃ頑張ってるのさ」
「すごく、大変そう。商売って、やっぱり手間がかかるんだね」
アリーが言うと、商人はまた声をあげて笑った。よく意味が分からず小首を傾げていると、商人は笑いながら、実はそうでもない、と言った。
「まあ、各地を回るのは大変だけど、仕入れはそんなに難しくないのさ。この国は、本を売る商人が、何故か圧倒的に少ない。商売敵がいないのなら、それはもう仕入れは楽に済む。値だって、気にしなくていい。わたしは、結構気楽に商売をしているんだよ」
この体だから旅は辛いがね、と少し出ているお腹を軽く叩いて、商人はまた笑った。少し小太りだからか、勢いよく笑うと、おなかの肉が小さく揺れる。
つられて、アリーは小さく笑った。笑うのは、あまり得意ではない。声を上げてなどとてもできなく、満面の笑みなどもっと無理だろう。それでも、自分の表情が穏やかなものになっているのを、アリーはこういうひと時では感じられた。
アリーは、この商人と話す時間が好きだった。ここに頻繁に訪れるのも、本が欲しいだけではない。誰かと話せるこの時間もまた、アリーは求めていた。
だからいつも、どうしても長話になってしまう。他愛のない話をして心を満たして、そして一冊の本を買っていく。
そうすることで、アリーは自信の孤独は少し紛れさせていた。
「ねえ、おじさん。どうして、本を売ろうと思ったの?」
商人が笑い止むのを待って、アリーはずっと思っていたことを聞いてみた。
「そうだなぁ。理由は二つあって、一つは本が好きで、他のみんなにも読んでもらいたかったからだけど、もしかしたらもう一つのほうがきっかけは強いかもしれない」
「どんな理由なの?」
「それはだね」
商人は柔和な表情を真顔にしてから、左右を何度か窺った。そして、囁くような声で言う。
「魔女って、知ってるかい?」
「魔女?」
その言葉に、胸の奥に一瞬痛みが走っては、消えた。あまりにも唐突のことに戸惑いながらも、知らないや、とアリーは答えた。
商人は、真顔を崩さずに言葉を続ける。
「昔、この国を滅ぼしかけた女をそう呼んだらしいのだが、これが何故か殆ど伝承に残っていない。国の歴史を紐解いても、それらしきものは消されたように記されていないんだ」
「本当に、実在してたの?」
「多分、していたと思うよ。この王都と結びつきが強い南西の交易都市には、魔女の像があるし、眉唾だけどいくらか魔女に関する話も伝わっている。なのに、確かな伝承はない。国が滅びかけたのに、そんなのおかしいだろう?」
アリーは頷くも、先の戸惑いから逃れられないでいた。不思議と、動悸がする。何か聞いてはならないものを聞いているような気分になって、アリーは自分の何気ない問いかけを少し後悔した。
しかし、その話が気になっている自分もいて、アリーは自分の中でさらに戸惑った。
「わたしはね、そんな不可思議さをはっきりさせたいんだ。この国は、きっと魔女を隠している。隠しているのなら、何としても暴きたい。だからわたしは、各地で魔女に関する伝承を探しているのさ」
「本を集めるのは、そのついで?」
ふと湧き上がったちょっと寂しい思いに触れながら、アリーは聞いた。
「初めはそうだったけどね。今は、半分だよ。さっきも言った通り、わたしは本が好きで、他のみんなにも読んでもらいたい。貴族だろうが平民だろうが、誰であろうが本を読んでもらいたい。その気持ちだって、本物だよ」
満面に笑みを浮かべて、商人は大きく笑った。それから、ばつが悪そうに頭を掻きながら苦笑した。
「すまないね、楽しくない話をして。ちょっと嫌な気持ちになってしまっただろう?」
「ううん、大丈夫だよ。あんまり予想してなかったから、ちょっと驚いただけ」
「そうかい? いやでもなぁ……」
アリーがいくら言っても、商人はあまり納得していないようだった。
本当は、今でも戸惑っている。商人はきっとそれを見て取っているのだろうが、アリーは敢えて平静を装っている。自分でもうまく言葉にできないことは、たとえ本音がばれていても胸の内に秘めておいた方がいい。
納得しないで頭を抱えている商人に、一度困ったように笑みをくれてから、アリーは荷台に並べられた本に眼をやった。
大衆が読めそうな小説から少し難しめの小説、伝記や歴史書など、さまざまな種類の本が並んでいる。その中で、アリーは一つの本に目を惹かれた。
その本の表紙には不思議とタイトルがなく、それの代わりなのか赤い目の少女と男の子が笑顔で手を取り合っている絵が描かれていた。
赤目というだけで、アリーはただ惹かれた。気になり、その本に手を伸ばす。
不意に、伸ばした手に重なるようにして、別の手が重ねられた。少し硬いが、どことなく温かさを感じる手。それでも驚いて、アリーは思わず顔を上げた。
白を基調とした鎧を纏った金の髪を持つ青年が、そこにはいた。背はアリーより幾分か高く、見下ろす彼の視線は、どこか戸惑ったものを孕んでいる。
アリーもまた、戸惑っていた。視線は絡み合い、手は重なったままで、それでもどうしたらいいのかわからない。青年も、何故か視線も手も、外そうとはしなかった。
しかしその硬直も、唐突な終わりを迎える。
いきなり、アリーを襲うように強い風が吹きすさんだ。ローブが激しく揺られ、深く被っていたはずのフードが、抑える間もなく頭から離れた。
「あっ」
青年から、小さな声が漏れた。驚きに似たような声。視線は、アリーの鮮やかな銀の髪と深紅の瞳を、交互に見比べている。
――見られた。
あまりにも突然の出来事に、アリーは怯える目を青年に向けることしかできなかった。