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心が落ち着いたのは、朝日がすっかり昇りきった頃だった。
窓を開けると、冷たい風が部屋いっぱいに入り込んでくる。春になったばかりの朝は、まだまだ肌寒い。
アリーは寝間着を着替え、灰色のローブに身を通した。本当だったらもう少し明るい色の服を着てみたいが、容姿が目立つために、頭まですっぽり収まるフードが付いたローブばかりを着ていた。
最初は抵抗があったそれも、今では大分愛着が湧いている。亡き母が選んでくれたものだというのが、大きな理由かもしれない。
おなかが小さく鳴り、アリーは朝食の用意を始めた。
用意したのは、小さなロールパンを二つと、母が良く作ってくれたトマトのスープだ。昔は二人で、談笑しながら食事をしたものである。子供の頃、スープで赤く汚した口を、母がいつも奇麗に拭ってくれたのは、今でも記憶に新しい。
「どうしてだろ。母様みたいな味には、なかなかならないや」
スープを飲んで、首を傾げながらアリーは溜息をつく。
よく母の手伝いをしていたから、スープの作る手順はしっかり覚えている。なのに、味は似ているようで何かが違った。隠し味でもあったのかと思って記憶を辿ってみるも、そんな覚えはやはりない。
トマトのスープは、結構な頻度で作っている。味を再現できれば母の面影を感じられると思って作っているのだが、微かに違っているがゆえに、母の味は少し遠めな憧れのように感じられた。
ただ、似ているだけでも、思い出の味は母との日々を鮮明に思い返させるには十分だった。
「何が、足りないのかな」
ぼんやり考えながらスープを口に運んでいると、お皿からこつこつと小さな音が聞こえてきた。ふと視線を向けると、いっぱいに入っていたはずのスープは既にからっぽで、赤く汚れたお皿の底を無意識のうちにスプーンで叩いていた。
あんまり食べた気がしない。そう思うも、また作って食べるほど、アリーの胃袋はあまり大きくない。ちゃんと意識していれば、今日の朝食だけで十分過ぎるほどおなかは満たされる。
どことなく感じる空腹感を少しでも満たすために、アリーはゆっくりとロールパンを口に運んだ。足しになるものは何もつけず、そのままの味だが、アリーはその素朴さが何となく好きだった。
時間をかけてロールパンを食べ終わると、アリーはテーブルに置いてあった読みかけの本に手を伸ばした。
挿絵のついた童話である。巫女と呼ばれる混血の少女が、人間族と魔族の男の子と仲良く世界を旅する話だ。
物語の世界は平和と平等に満ちていて、人間族も魔族も、混血の少女さえも毎日を楽しみながら世界中を見て回る。物語に出てくる人たちは誰もが幸せそうで、読んでいるアリーもどこか胸が温かくなってくる。
これまでたくさんの物語を読んできたが、アリーはこの童話が何よりも好きだった。幼い頃には母に何度もせがんで読んでもらい、大きくなった今でも暇があったら目を通してしまうくらい、好きだった。
この童話を読んでいる時だけは、アリーはすべてを忘れて幸せな気分になれた。
ただその分、現実に立ち返った時の虚しさは、この上ないものを感じさせる。
この国は、差別に満ちている。混血児だけが、ではない。人間族も魔族も、激しい貧富と自身の出自で分け隔てられている。アリーが住むこの王都からして、その差別は顕著なものだ。
例えば王都は、王と富裕層の貴族の住む貴族街と、裕福でもなければ貧しくもない平民が暮らす平民街、そして日々を暮らすので精一杯の下民が集う下界の掃き溜めと呼ばれる街の三つで構成されている。下層の民は貴族街に立ち入ることさえ許されず、逆に貴族はどこだろうが自由に行き来できる。自由に、何でもできる。
貴族は、下層の民からあらゆるものを搾取していく。お金も食べ物も、時には命さえも、単なる気まぐれで毟り取っていった。どんな理不尽が起きても、下民はもちろん、平民さえも貴族には逆らえない。国を統べるのは貴族であり、この国を守る騎士を有しているのもまた、貴族なのだ。その大きな力に逆らう気持ちは、誰も持っていなかった。
王都がそうだと、この国全体は似たようなものになる。どこも身分の差別に満ち、居場所を制限していく。
ただ、混血児だけは違った。混血児だけは、居場所がなかった。
差別というには、それはあまりにも度が過ぎていた。下民は辛うじて人扱いされるのに対し、混血児は家畜以下と蔑まれる。これまで母と王国領内を回った時に、何人かの混血児を見てきたが、貴族たちに奴隷のように使われていた。顔は薄汚れて痩せこけ、体は棒のように細くなり、身に纏うものは決まってボロだった。無理やり働かされて今にも倒れて動かなくなりそうだったのに、そんな彼らを貴族はいたぶっては引きずってでも働かせていた。
幼い頃に見たその光景は、今でも目に焼き付いている。皆の双眸に張り付いた深い絶望の色さえも、鮮明に思い出せる。
そして、誰かが言っていた言葉も、記憶の奥底から嫌でも聞こえてくる。
――お前たちの存在は、罪なのだ。生きていることさえ、大罪なのだ。
あまりにも冷たい言葉。あまりにも悲しい言葉。けれど、誰も否定しようとしない、受け入れられてしまった言葉。
「どうして、なんだろ。どんな人だって、みんなと同じように生きてるのにな」
寂しい思いと共に深いため息が出たのは、童話を読み終えてからしばらくしてのことだった。
混血児だって、生きている。他の人とは色々違うとはいえ、紛れもなく生きている。それなのに、なぜ他の人たちは普通に生きることすら認めてくれないのか。
「やっぱり、わからないや」
いつもと同じ結論に、アリーは涙ぐんで俯いた。童話を読み終えた後に、現実と向き合って暗澹たる気持ちになるのは、ほぼ習慣化していると言ってもいい。
誰かに聞こうにも聞いてくれる人はなく、生まれた頃から持ち合わせている知識も、明確な答えを示してくれることはない。結局は同じところをぐるぐる回るだけで、何の解決にもならない。それがもどかしく、やはり寂しかった。
母が生きていた頃なら、優しく抱きしめて慰めてくれた。大丈夫、あなたは望まれて生まれてきた。あなただけじゃない、みんな本当は、望まれて生きている。そう言って、いつもアリーの頭を優しく撫でてくれた。
それももう、遠い思い出だ。言葉は鮮明に思い返せるが、あの頃の温もりは、どこか遠いものになってしまっている。
しばらく俯いていたが、遠くでよく通るベルの音が聞こえて、アリーは顔を上げた。
「そういえば、今日は本売りのおじさんが来る日だっけ」
この王都には二週に一度、中年の男が本を売りに来る。どこかで仕入れた多くの本を荷車いっぱいに詰め込んできて、平民街で売っているのだ。その男はとても心穏やかな性格の人で、誰でも分け隔てなく本を売ってくれる。貴族だろうが下民だろうが、適正の値で本を売る彼は、公平さなどないこの国では稀有な商人だった。
読書が大好きなアリーは、そこでよく本を買った。最初はこの外見故にためらっていたが、勇気を出して一度買いに行った時に、男は何でもないように本を売ってくれた。その時におずおずとしながら買った本と商人を交互に見ていたら、本が好きな人に悪い人はいない、と商人は優しく言ってくれた。
それがあってから、アリーは商人が来る時は必ず、本を買いに行っていた。
お金は、父が母と別れる前に、魔法の小箱という際限なく物が入る代物に、宝石を詰め込んで渡してくれていた。母はその宝石を少しずつ換金することで、長い旅をうまく乗り越えさせてくれた。アリーとしてはそんなものよりも父の命の方が残ってほしかったが、結果として宝石はたくさん残せて、王都で家を構えられたし、今日まで無事に生きて来られた。
ただ、旅や家の購入などで大分使ったため、あとどれくらいこのまま過ごせるかはわからない。それでも、アリーは質素な暮らしをしているから、あと数年は大丈夫なはずだ。
「今日は、どんなのがあるのかな」
沈んでいた心に、微かな温かさが戻ってくる。母が死んでからというものの、アリーにとって本を見に行くことは、生きる上での数少ない楽しみの一つとなっていた。
滅入っていた気分を変えるのには、本を見に行くのはおあつらえ向きだ。
アリーは、すぐに身支度を整え、家を出た。目立つ髪色を隠すために、しっかりとフードは被っている。
逸る気持ちを抑えながら、アリーは本売りの許へと向かった。