0-4
安息の日々は、たった一年で終わりを告げた。
父が、偶然この村に迷い込んだ人間に、姿を見られたからだ。
怯えて、誰も追いつけないくらいにあっという間に逃げ去ってしまった人間は、すぐさま国に通報したらしい。あの日、アリーを狙ってきた騎士団が、再び立ち塞がってきた。
父はアリーを背負う母を連れて、すぐさま村から逃げた。逃げる際に、父は村の長に何事かを言っていたようだが、あまりにも小さくて聞き取れなかった。
背後を追って来る人達は、誰も彼もおぞましい殺気を放ちながら、執拗に追って来た。皆、魔族なのか、異常なほどに体力が続いている。
アリーは怖くて、ずっと眼を瞑ってた。もう、ちゃんと物は見える。だが、皮肉にも今はそれが恨めしい。
それでも二人は、しばらく駆け続けた。ただひたすらに、逃げ続けた。途中、母の息が切れ、座り込みそうになったが、すぐに抱きかかえて、父は駆け続けた。
だがそれも、限界がある。
父の足が、不意に止まった。少し乱れた息を整えながら、父は小さく舌打ちする。
アリーは、恐る恐る目を開いた。前方には、わらわらと湧き出したような敵が、待ち構えていた。
「やってくれるな、てめえら」
母を降ろし、父が剣を抜く。
辺りは、森の中のありふれた街道のようだった。まっすぐに伸びる道だけはきちんと整備されていて、そうでないところは木々や茂みが伸びるままに任された感じになっている。人が通るには少し難しいかもしれないが、無理をすれば行けないことはないかもしれない。
ただそれらは、暗がりでぼんやりと見えるだけに過ぎない。日は落ちきり、今夜は月影もない。追手の、篝火で朧気に照らされた辺りが、辛うじて見えているだけだ。
前後から迫る敵が、父からいくらか距離を取った所で足を止めた。誰も彼も剣を抜き、今にも攻めてきそうな感がある。それがやはり恐ろしくて、アリーはまた目を瞑った。
「諦めよ、王よ。あなたに、最早未来などないのだ」
あの時の男の声が、はっきりと聞こえてきた。
「ったく」
呆れたように、それでいて諦めたように、父は言う。
「さすがに、これ以上は無理か」
何が無理なのか。父は明確に言わなかったが、アリーは何となくわかってしまった。
これ以上、二人を護って逃げるのは難しい。そういうことだ。
母を茂みの方へ押しやり、父が庇うように前に立つ。
「ここは任せろ。お前らが逃げる時間ぐらいは稼いでやる」
母は何も言わない。いや、何も言えないのだろう。辛くて、悲しくて、言葉が出せないに違いない。
今、母はどんな顔をしているのだろう。アリーはふと思ったが、怖くて開けられなかった。
頬に、一滴の雫が落ちた。温かい。けれど、どこか悲しい気持ちになってくる。
涙、だろうか。母は、きっと泣いている。その涙を拭いたくて手を伸ばそうとしたが、体は金縛りにあったかのように動かなかった。
「じゃあな、マリー」
「……うん、またね」
それが、父と母が交わした、最後の言葉だった。
アリーを抱く手が強くなったかと思えば、急に振動を感じた。母が、走り出したのだろう。
後ろの方で、喊声が聞こえる。乾いた金属音や、水みたいなものが落ちる音も、たくさん聞こえる。
――怖い。けど。
見なくていいわけがない。
父との別れをはっきりと意識したら、ずっと心を支配していたものが、唐突に振り払われた。
今生の別れかもしれないのに、父の姿を見なかったら、きっと後悔する。その思いが、アリーの心に強くあった。
必死になった。怖くて開かなかった目をこじ開けて、アリーは母の体をよじ登るようにして、後ろを見た。
暗い森や空、赤い炎に照らされる人影。他にも色々なものが、アリーの頭へ鮮明に刻み込まれていく。その中で、特に大切なものへと、アリーは視線を注いだ。
母が慌てながら止めようとするも、もう遅い。見なければいけないものは、しっかりと見えてしまった。
父の、雄々しい背中。何本もの剣で串刺しにされても倒れない、父の大きな背中。
その背中を、また剣が貫いた。体の真ん中あたりを、中年の騎士の太い幅を持つ剣が、刺し貫いていた。
父が、赤黒いものを吐き出した。それでも、倒れない。
「父様?」
無意識のうちに、声が出たのかはわからない。しかし、声が聞こえたのか、父が微かに振り返る。
顔は血まみれで、生気が消えてる。瞳は虚ろに開かれ、表情はまったくと言っていいほどなかった。しかし、その双眸がアリーの姿を認めた時だけ、父は口元だけで微かに笑っていた。そして、ゆっくりと口を動かし、何事かを呟いた。
「父様」
母のすすり泣く声が聞こえる。
アリーは、頷けなかった。聞こえない、遠くて聞こえない。傍にいなければ、父の言葉が届くわけがない。そう、思い込みたかった。
――いや、いやだよ、父様。私の傍にいて。ずっと、傍にいて。
その言葉を、アリーは届けたかった。届けたくて、ずっと後ろを向いていた。
けれど、母が必死に走ったから、アリーの視界の父は、あっと言う間に消えてしまった。
それからの記憶は、あまり覚えていない。父を失ったあの瞬間から、辛い日々が始まったのだから。
混血児という重荷を背負いながら、母と共に過ごしてきた。たくさんの酷いことを受けながらも、何とか生きてきた。
しかし、苦しかった。誰かに助けを求めたくても、差し伸べた手を取ってくれる者はいない。払いのけ、踏みつけにするような人しかいない。
耐えるしかない苦痛の日々。目を背けることしかできない悲哀に満ちた日々。あまりの辛さに、アリーは自分が無感情になっていくのを感じながら。
そうしてアリーは、十七年の歳月を過ごした。