0-3
「ここは、俺の故郷の自室だ。まさかこんな所に戻ってるとは、あいつらも思わねえだろ。見つからないうちは、しっかり体を休めとけ」
父の声は、どこか疲れていた。
やはり、さっきの瞬間移動が堪えたのだろうか。どさりと腰を下ろして壁に背中を預けてから、父は大きく息を吐いた。一人ならともかく、三人も運んだのだ。もしかしたら、想像もつかないほどの魔力を使ったのかもしれない。
「もちろん休むけど、よかったの? 瞬間移動だなんて、絶対に使わないって言ってなかったっけ?」
母は、ちょっとむくれながら言ったようだ。
「そりゃ言ったけどさ、あの状況じゃ仕方ねえだろ。お前たちを連れて逃げる方法なんざ、あれ以外になかったし」
「わかってるわよ。ちょっと、からかっただけ」
くすくすと笑う母に、父はもう一度大きく息を吐いた。
「ったく。でも、あの場所には悪いことをしちまったな。多分、しばらくは枯れ果てて、何も生み出されない。あそこが人の立ち入る場所じゃなくて、よかったな」
少し寂しそうに、父が言う。その言葉の意味は、赤子にはよくわからなかった。
「それより、お前たちは大丈夫か?」
「私は大丈夫。だけど、この子は大丈夫なのかな。生まれてすぐにこんな目に遭って。怖がっていないかしら」
母の心配が嬉しくて、赤子は少しくすぐったかった。けれど、ちょっとだけ、喋れない自分が恨めしかった。
――母様、大丈夫だよ。私は平気。平気だから、心配しないで。
胸の内で呟く。そんな言葉が、この時言えたら良かったのに、と寂しげに思う。
「まあ、多分大丈夫だろ。あれだけ騒がれても泣かなかったんだ。きっと、俺に似て強い子なんだろうな」
「あら、あなたに似ちゃったら、この子はきっと無茶しちゃうわ。それは嫌よ?」
「うるせえ」
悪態をつきながらも、父は小さく笑っているようだった。母も、また静かに笑っている。
その父の声が、不意に止まった。
「……すまない、少しだけ眠る」
心の底から疲れたようなか細い声が、父の口から洩れた。
わかった、と言った母だったが、何かを思い出したように小さく声を上げた。
「待って」
「……何だ」
父の声は、どこか物憂げな感じだ。
「この子に、名前をつけなきゃ。あなたが決めるって言って、ずっとつけてくれてないもの。今日こそ、決めて」
自分にまだ名前がないことを、赤子はそういえば、と思い出した。母がつけてくれようとしたが、父が強情にも自分が決めると言って聞かなかった。聞かなかったのに、あちこち飛び回って留守にしていたため、結局今の今までつけてくれなかったのだ。
父は、しばらく何も言わなかった。聞いてるの、と痺れを切らした母が困ったように言うが、やっぱり父は何も言わない。
「もう」
諦めたように溜息をついて、母が私が考えるからね、と言ったところところに、父の小さな呟きが聞こえた。
「……アリー」
「えっ?」
「お前がマリーだから、娘のコイツはアリー。ずっと、そう呼ぼうと思ってた」
何だか適当な付け方だったが、その名前は嫌いじゃなかった。それに何よりも、母に似た名前というのは、赤子に取っては嬉しいものであった。
「アリー、かぁ。そうね、この子はアリー。私とあなたの、大切な娘」
「わかりきったことを言うな」
「もう。相変わらずの憎まれ口ね。でも、決まってたのに、なんで早くつけてくれなかったの?」
「それは、だな」
父の言葉は、どこか歯切れが悪かった。
「……自分が本当に父親になったってのが信じられなくて、少し、恥ずかしかったんだ。だから、自分とちゃんと向き合えたら、アリーに名前を贈ろうと思ってた」
「もう。本当、あなたってバカなんだから。どうしようもないくらい不器用の、おバカさん」
「おい、馬鹿馬鹿うるせえよ」
「本当のことでしょ? あなたの気持ちのせいで、ずっと名前がなかったアリーがかわいそうよ」
呆れたような母の言葉に、父は何も返せないようだった。
そんな母から、小さな笑い声が漏れる。幸せそうな気持が、伝わってくる。なんだかんだ言っても、母は父のことが大好きなのだろう。多分今、幸せに満ちた笑みを浮かべていると思うと、あまり目が利かない自分を、アリーは恨めしく思った。
実際に、見てみたかった。母の、幸せそうな笑顔を。
「これからはきっと大変な日々が続くだろうが、俺がきっと、お前達を護ってみせる」
「ええ。期待してるわ」
母が言った直後に、父の寝息がすぐに聞こえてきた。おやすみ、と言って、母が毛布を掛けてあげているのを、アリーはぼんやりとした視界の中で見ていた。
それからは、しばらく父の部屋で過ごした。時々、少し若い見た目の村の長が様子を見に来たが、それ以外は特に変わったことはなかった。
長は、父に好意的に接してくれて、食べ物や衣類などを定期的に届けてくれた。時々、母に抱かれたアリーを、いたずらっぽい笑みを浮かべながらあやそうともしてくれた。
村人たちも、両親を邪険に扱うことはなかったのか、干渉してくる者はない。ひそと陰口を叩いているような険悪な空気も、アリーはないように思っていた。
アリーは、この時は幸せだった。一日一日が、楽しくてしょうがなかった。父も母も笑ってくれているこの時間が、たまらなく好きだった。
しかし。
幸せなど、そう長く続くものではない。