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航介は、この日に決めていた。太陽が一番高く昇る特別な日の、この朝に決めていた。
わざわざ裸馬の背中に乗って現れたのは、傷めた左足をかばうためだけではなかった。馬好きとされる八幡神を考えてのことだった。航介は、エジプト・ギザ出身であることを教えてくださった八幡神に、地ビールとニンニク、そしてモロヘイヤを携えて参道の左端を進んだ。開けられたばかりの門の向こうでは、白く映える装束を着た神官が竹箒で境内を掃き清めている。航介は、地ビールらを寄進したあと、社務所で祓いの申込みをした。若い巫女は、「宮司に聞いてきます」と言い、門をくぐっていった。
どうやら、事前予約が必要だった。気を利かせてくれたのは地ビールのおかげだろうか、すぐに社務所へと戻ってきた巫女は、宮司の了解を得ていた。
「こちらに、願掛けの内容を記入してください。」
航介は、B5の用紙への記入を求められた。
『護国平安 京都市 市野沢航介 二十歳』
同い年ぐらいの巫女は、「護国平安」と書いた航介をいぶかしげに二度見した。八幡神への祈願は、家内安全を第一に、海上安全や交通安全というものが一般的である。個人的な利益を求めていない参詣者は珍しかったのかもしれない。いや、ただ単に、馬に乗って現れた姿や、献上した品物が珍しかったからだろうか。しかし、航介は、「護国平安」だけを八幡神に祈願することにしていた。
鎌倉幕府が崩壊し、南北朝の争乱の後、天下を再統一したのは足利源氏の棟梁、足利尊氏である。室町幕府を興した尊氏が、まだ高氏の頃に入洛した際、本陣を置いたのは東寺(京都市)だった。その東寺は、弘仁十四(八二三)年に、空海が嵯峨天皇から下賜された真言密教の根本道場である。
この名刹は、焼けてしまった西寺に対して東寺と呼ばれていたが、その別称に航介は惹かれていた。
「弥勒八幡山総持普賢院」
教王護国寺とも呼ばれる東寺の山号は、なぜか「八幡山」だった。「南無八幡」と言って生まれてきた空海。室戸岬(高知県)では金星が口の中に飛び込んで、悟りを開いたとされる空海。航介は、空海の知恵が込められた立体曼荼羅を思い浮かべながら、この「護国平安」というフレーズを引き出したのである。
・陽が昇る 館鼻岬 ちぎれ雲
・海原に ひかりかかやく 明け星が
大和という名の 船を牽く (航介)
航介は、宮司の準備が整うまでの空き時間で、こう詠んだ。本来ならば、御前神社へ出張に行くべきこの日の八幡神は、暦の改変という社会的な混乱のせいで、櫛引八幡宮に留まったままだった。
航介は、だいぶ高くなった夏至の朝日を背にして、八幡神の正体を振り返った。三位一体のこの神は、ギザのピラミッドに由来するにちがいない。三基並ぶあのピラミッドは、少し退いた場所から眺めたとき、勢いよく燃え上がる炎に見えているはずだ。
「そういえば、山形県章も炎に見える…」
航介は、勾留されていた鶴岡署の取調室から見えていた風にはためく山形県旗を、ふと思い出した。
出羽三山と山形県の「山」をデフォルメした旗は、あの夜の月山おろしの強さと、その吹出し口の方向を示していただけではなく、囚われていた航介の心に染み入るような根源的なインテリジェンスを刷り込んでいたのだった。
ようやく導かれた神殿では、さきほどまで境内を掃き清めていた老人が、航介を出迎えた。
「遠いとごろから、よぐおんでやぁんした。」
この宮司も古い南部弁を話す。航介は、廃れていく方言とイントネーションに京ことばの香りを感じた。同時に、高坏に盛られたニンニクの山が目に入った。ずいぶん太っていて滋養強壮によさそうだ。ピラミッドを造る際には、ファラオから疲れた労働者たちへ、ビールの伴に支給されていたのかもしれない。
カイロ郊外の光景を思い浮かべながら神への賛歌を耳にしていた航介は、ようやく巫女に促されて榊をあげ、「護国平安」というフレーズが入った祝詞を耳にしたとき、八幡神に自分の祖国愛や郷土愛という思いが通じた気がして満足した。
三十分ほどで終わった儀式のあと、宮司は「よぐ、おんでやぁんしたなす」と繰り返した。南部人の宮司にとって、東京や鎌倉よりも遠い京都からの参拝客は、だいぶ珍しいようだ。
「もともとは、麦沢の出です。今はたまたま京都に住んでいます。大学生なので。」
航介は、小さい嘘をついて、宮司の関心をはぐらかした。京都にも半年以上帰っていない。
「宮司は、国宝の鎧兜が長慶天皇のものだとお思いですか?」
航介は切り出した。宮司の表情は変わらない。
「このお宮を守っている者としては、天皇さまと関わることができるのは光栄なことでございますが。」
どうやら、無関係だと思っているのだろう。
「僕は、あの鎧兜は長慶天皇のものではないと確信しています。」
「なぜでしょう。」
「あの色です。」
航介は、あの鎧を編んだ糸の色に惹かれていた。それぞれ赤糸と白糸。すなわち紅白である。鎌倉期と南北朝期、奉納されたとする年代に時間差があるように見えるが、この二組の鎧兜は、実は二つで一つなのではないだろうか。
「おめでたいその色と、天皇さまとの御関係とは?」
「ヒントは、長慶天皇の生まれ年です。」
航介は、調べてきた長慶天皇の誕生年を示した。
「長慶天皇は、南朝の元号で興国四年(一三四三)の癸未年にお生まれになりました。この年は、節分まで一白水星、立春からは九紫火星となります。この九星には、相性と言うものがあります。宮司もご存知でしょう。」
神道では、干支や九星といった暦を重んじる。九星は、基本的に陰陽五行を発展させたものなので、相生や旺、そして相剋の関係はそれぞれの星の性格を理解していれば、すぐにわかることである。
「長慶天皇の生まれ月はよくわかりません。仮に、節分までのお生まれならば、一白水星年の星を持っていらっしゃいます。色でいえば黒色が対応します。立春以後ならば九紫火星の星ですから、赤色が対応することになります。」
「およそ九割の確率で、九紫生まれですな。」
「確率ではそうなります。」
「さきほど、あなたは例の鎧が長慶天皇さまのものではないとおっしゃった。赤色年生まれの天皇さまは、赤糸威鎧を召されるのではないのですか。」
「僕はちがうと思っているんです。赤色の星を持つ人が赤色の物を身につけるというのは、旺の関係です。旺の関係よりも、より強烈な呪力を得ることができるのは、相生の関係の時です。」
「ということは、『木生火』か『火生土』ですな。」
さすがに老宮司らしく、和田はすぐに解答した。
「狭義の相生の関係とは、『木生火』のみです。鎧というものは、単なる衣服ではありません。外敵から身を護り、死を遠ざける存在でなければなりません。つまり、その鎧から生のエネルギーを得るという関係が必要なのです。」
航介は、カボチャを好例として、ちょうど半年前にアーニランへ教えたことと同じことを説明している。
「結局、冬至にカボチャを食することは、冬の寒さに打ち勝とうということです。」
「あちらでは冬至にゆず湯に浸かるらしいですな。」
「論理は同じことです。ゆずは黄色ですから。しかし、ここら辺では、寒くて柑橘系の植物など育ちませんよね。ゆずの代わりに割ったカボチャを風呂に入れたらどうでしょう。カボチャは、あんなに重いのに水に浮くんです。ゆずのように香りなど楽しめませんけど。」
航介のウィットに、和田宮司は満足そうだ。
「節分の夜に、ひいらぎの枝をイワシの頭に刺して、門口に鬼除けとして置くなんてのがありますよね。この風習も昔のインテリのとんちが利いています。」
航介も、総鎮守の宮司の反応に気をよくしている。
「ひいらぎは『柊』と書きます。イワシは『鰯』と書きます。もう、おわかりですよね。」
「『いよいよ冬が弱まります』ということですか…。」
「こういった風習をつまらない迷信とするのではなく、とんちの利いたおおらかな文化として、僕は継承していくべきだと思っているんです。『鬼除け』なんてところに気が行くから、臆病者たちが科学を持ち出してくるんでしょうね。無機質な数字の羅列で、人の心が治まるわけではないでしょうに。」
航介は、この老宮司に媚びるわけでもなく、先人がつくってきた歴史に保守的であるべきだと語った。
「京都にあるあの有名な石清水八幡宮にも、この秘密が込められているとおもっているんです。」
「と、いいますと?」
「あそこの八幡さまは、他とはちがって、真ん中に応神天皇が祀られています。それだけ朝廷のつよい意思がはたらいています。しかし、あの場所には、その政治的な意図よりも重大な地形的要因があるのです。」
「たしか、三川合流部ですな。あそこから下流が淀川となる。」
「日本一の広さを誇る琵琶湖を源流とする宇治川だけじゃなく、京都盆地の地下に貯まっていた水も流れ込んできます。しかも、最近まで行われていた干拓事業が完了するまでは、巨椋池という巨大な湿地帯でした。」
「水があふれかえる…。」
「朝廷は、その水をコントロールしたかったのではないでしょうか。八幡さまの力を借りて。石清水とは、『いわ・しみず』じゃなくて、『いわし・みず』なんですよ!」
「鰯水…。」
「出水を弱めてくださいね、火気の八幡さまの霊験で。」
航介は、ふたたび火剋金の効用を説明して、洪水の原因となる金気の環境を改善するための呪術として、火気の特性がある八幡神を利用したという推理をはたらかせた。
「さて、火気と相性がいい木気の色とは青色です。染物では、青色というのは出しにくいそうです。ブルーの植物は、なかなか無いですから。」
「藍染めというのはありますな。」
藍色というのはブルーではない。「青は藍よりいでて藍より青し」というではないか。航介は生意気にもそう思ったが、祖父のような年齢の和田は、荒ぶる心をいなす柳のようなしなやかさで応対してくる。
「青系の甲冑は青糸威と呼ばれます。九紫生まれの長慶天皇ならば、この青糸威の甲冑を召されていたにちがいないんです。生まれ年の九星と甲冑を編む糸の色というのは法則性があるはずです。学者のように検証してはいませんが。」
航介は、臆病に予防線を張っておいた。私的な解釈が、総鎮守の宮司によって一般化されて世間に流布されてもかなわない。私説の発表相手が、ゼミ仲間や地誌を愛するサークルのメンバー、そしてアーニランというパーソナルな関係ならば許されていても、神の遣いの前では法螺を吹くべきでない。航介は、一連の解釈が「杉沢村」のように都市伝説化することをおそれて、宮司という彼の立場を尊重した。
「ただし、長慶天皇の生まれ年が正確かどうかは、わかりません。」
航介は、あえて繰り返した。長らく存在が疑わしいとされてきた天皇の個人情報が、皇統譜に記載されたとたんに事実となるというのは、無理がある。
「いいお話を伺いました。少々お待ちください。」
十秒ほど航介の目を見据えていた和田宮司は、若い航介に深々と頭を下げ、渡り廊下の向こうにある国宝館へと消えた。
寒冷前線が、近くに移動してきたのだろう。初夏らしい陽気だった境内に、ひんやりとした風が吹きはじめた。航介は、巨大な杉並木のせいで狭くなった空を見上げて、流れの速い雲の群れを確認した。はるか遠くで鳴っていた轟きは、稲妻とともにすぐに航介の頭上へと来訪し、それとほぼ同時に、大粒の涙が地上へと落とされた。
片屋根の下に身を隠している航介は、どしゃぶりのせいで出来た水溜まりと、そこへと注ぐ小さな流路の様子を見ている。
「水は、高いところから低いところに流れている…」
誰にでもわかるこの法則は、治水の神である八幡神の御前では、精度の高いアンテナを人一倍高くしている航介に新たなヒントを引き出させ、百人一首でも有名な和歌を思い起こさせた。
・ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれないに みつくくるとは (在原業平)
六歌仙の一人でもある業平は、嵯峨天皇や空海と同じ時代を生きた貴族歌人である。業平は、この歌で奈良県南部を流れる大和川支流の紅葉を詠んだとされている。女性によくモテたという業平は、航介の憧れでもあった。
航介は、古典落語「ちはやぶる」を噺す落語家と同じように、文節を自分のセンスで区切って解釈したあと、上下を入れ替えた。
・田川から くれないに満つ くくる鳥羽
ちはやぶる神 四方きかず起つ (航介)
勅撰の古今和歌集に収められている和歌の数々は、何をもって貴族たちに評価されたのだろうか。風景や心情の描写が美しいからだろうか。それとも、彼らだけに理解できるような理由があるのだろうか。航介は、自らが「ジオ俳句・ジオ短歌の会」でその作品に工夫してきたように、ひとつの確信をしていた。
「本物のインテリが詠みこんだ句や歌は、ウラ読みできるように創られているはずだ!」
五・七・五なり、三十一文字という音数制限と、せいぜい季語の挿入で風光明媚を表現することで、貴族は知と美を感じ、それを競い合ったのではない。むしろ、その句や歌に込められている知のエッセンスが、より高級で複数であるところを競い合ったはずだ。その点が、インテリたちを虜にしたにちがいない。
たとえば、この和歌には飛鳥の地を流れる竜田川のほかに、地名が隠されているのかもしれない。
田川郡である。
日本書紀には「高羽」と記されている福岡県央のこの地域は、道真が流された太宰府、八幡信仰の宇佐、そして玄界灘に面する宗像を結ぶ繁華な辻であり、航介にとって、どこか惹かれる土地であった。その地は今では筑豊と呼ばれ、代表的な炭田地帯でもある。その「黒いダイヤ」は火をつけるとよく燃え、石炭の鉱脈をもたない畿内では宝の山として噂になっていたのかもしれない。
興味深いことに、筑豊には庄内という地名があり、今では、なぜか庄内地方と呼ばれている山形県西部の古い郡名は、福岡県中央部由来であるという推測もできる。
「この地名の共有は、単なる偶然だろうか?」
航介は、「櫛引」を共有する土地から共通のDNAを確認したように、そのプレパラートを顕微鏡で覗いてみた。豊前田川では、やはり炭田や石灰鉱山の地図記号が目につき、とくに、「ボタ山」とよばれるクズ石炭の小山があちこちに散らばっている。一方、羽前田川には鉱山などなく、稲作を主とする農業地帯として国づくりをしてきたようだ。
なかなか共通点が見つからないものの、「田川」や「庄内」という地名は、千キロ・メートル離れた山形と福岡の間に、いかにも古くからの関係がありそうな雰囲気を醸し出していた。しかし、出羽三山の麓に広がる旧田川郡の由来は、今ではひとりぼっちの航介にとって、せいぜい、似た者どうしによって支配されていたという分析までしかできなかった。
・方舟の 帆をたて向かう 日向なり (航介)
・黒山の 種が流るる 赤池か (航介)
・もののふの 八十市たちて 御岩なる (航介)
航介は、ここまでのメモ代わりに、上陸したことがない九州の「繁華な辻」に思いを馳せた三句をつづけて詠んで、時空を越えたその作品に自惚れた。
ようやく国宝館から戻ってきた和田宮司は、重そうに抱えてきた絵馬を航介の前に静かに置いた。
「なんのことかわかりますかな。」
白手袋を脱ぎながら宮司は問う。
『天地相関、陰陽一体の気が通ずるとき
太一から伯夷叔斉が天降る
汝、不明の杉の澤を探し出せ
我れ、栗林の下で生まれ変わらん』
航介は腕を組み、草書体で書かれてある筆跡を丁寧に追った。
「『伯夷叔斉』云々と書かれてありますから、いわゆる国譲りのことでしょうね。」
「史記ですな。」
航介は、持ち歩いているメモ紙をリュック・サックから取り出し、読みにくい文字を書き写していく。漢字は比較的かたちが残っているので把握しやすいが、仮名は書き手のクセがでやすいためになかなか理解しにくい。
「もうすこし習字を勉強しておきゃ良かったかな。」
航介は、宮司に聞こえない程度で愚痴をこぼした。その愚痴も、強い雨音にかき消されている。
「こっちは、見当がついています。」
航介は、その詩文の脇にはべる図形の意とするところを、宮司に解説しはじめた。
「市野沢様、でしたね。」
「ハイ。」
「将来は、あちらで就職されるのですか?」
「いずれは戻ってきたいと思っているのですが、若いうちは都会で揉まれたほうがいいのかなと思っています。一見、享楽的に見えて、それが修行かなと。ここらでは就職先も限られてきますしね。みんな公務員になりたがるじゃないですか。僕は、たとえ給料が高くても、役場職員とか教職とかには興味がないんです。権力によりかかって威張っている彼らの生き方に、美しさを感じません。」
「大学では、何を学ばれているのですか?」
「地理です。」
「チリ?」
「ジオグラフィーです。地の理、風水です。」
航介は、羅経盤を取り出して、
「ここに示されている小宇宙を解明したいとおもっています。これは曼陀羅のようなものです。」
「おぉ、羅経盤ではないですか!」
和田宮司は、その羅経盤を航介から受け取り、「美しい!」と興奮気味に繰り返した。
「北野天満宮の縁日で見つけたんですよ。」
「天神様ですか。」
宮司がそう言ったとき、稲光と同時に、大きな雷がひとつ鳴った。
「市野沢様、このお宮の宮司になられるおつもりはないでしょうか?」
宮司はそう言って、静かに羅経盤を航介に返す。
「なにをおっしゃいますか。畏れ多い。」
航介は、まさかの宮司の言葉に慌てた。
「僕は、いろいろ教授いただいた八幡さまに感謝していますが、同時に仏教徒でもあります。結婚式では、教会で式を挙げることにもなるでしょう。八幡さまには、他にふさわしい方がおられるとおもいますよ。」
航介は、失礼のないように気をつけながら、丁重に断りを入れた。まさか総鎮守の老宮司が、あの卑しい杢蓮と同じことを言い出すとはおもわなかった。
「日本の国民宗教は、神道でなければ仏教でもないんです。本来、これらが混交していなければならない。平和的で温厚で、かつ敗者を畏れ敬う民族宗教が、明治よりも前には各地に根づいていたはずなんです。もともと八幡さまは神仏混交だったのに、現代の八幡宮は、古典的な仏教を包容していない不完全な存在じゃないですか。このギャップは、もはやとり返しがつかないものになっている。僕は、自分が宮司になることよりも、むしろこの点を是正する運動を試みたい。この国を守ってくださる八幡さまに、人々がより関心を持たれるようなことをやろうとおもっているんです。宇佐八幡での法蓮のように。」
「法蓮さんですか。中興の祖ですな。」
「これまで八幡信仰とは何たるか、僕なりに解釈してきましたが、センスだけでツッパった独りよがりであることはわかっています。だけど、僕にとって、これは本能なんです。できるだけ政治性を排除しなければ本質がみえない。研究の蓄積を重要視するのは、学会に所属する学者が、内輪でやっていればいいことだとおもっているんです。」
小さかった水溜まりは溢れ、となりの水溜まりと合わされて大きくなっている。
「宮司さん、八幡さまの正体を教えてください!」
航介は、深く額ずいた。
「教えるもなにも、わたくしの方こそあなたから教わっているのですよ。八幡さまが治水の神様であるとは、聞いたことがございませんでした。もちろん、ギザの金字塔由来だということも存じ上げない。ただ…。」
「ただ、なんでしょうか?」
航介は、色めく。
「ただ、八幡さまは修験道の一派のはずです。本来、わたくしも山伏姿にならなければならない。」
「修験道!」
航介は、このひとことに、これまでの冒険のマスター・キーを手に入れたことを確信した。山伏こそ、あの「星秀麻呂」であり、「星筆麻呂」にちがいない。
絵本に描かれていたイラストから「おとぎ話の会」で増幅された山伏、そして天狗のイメージ。ガイジンに見えた子供のころの第一印象は、あながち間違っていなかったのかもしれない。