72話 壁に耳あり
真っ白な玄関を入ると、そこには半透明の壁で出来た廊下があった。
天井までは三メートル弱と言った処だが、何となく不穏な気配のある天井だ。床は当然の如くコンクリート製で、土足で歩けるようになっている。
「これは……"問題無し"ですか?」
リーナの言葉に答える。
「ええ、この道は"スキャナー"の役割をしているだけですからね」
以前、フォンファに説明して貰った"機能"を伝えると、インシュンが何やらため息を吐いていた。
「気を付けろよ。ほら、床の一部に黒い点があるがな、それは血だまりだからな。下手に壁を破ろうとすれば、酷い目に遭うぜ……」
その言葉に、リーナは顔を青ざめている。
「問題無いんじゃ――」
「ええ、普通に通り抜ければ問題ありません。そこの血だまりは、大方発砲した銃弾が跳ねて怪我をしたんでしょう。この壁はそんなものでは壊れませんからね……」
「だな、質感からアクリルに近いが、表面のコーティング加工と言い強度が増す加工がされている事に間違いなさそうだ。こんなの、特殊装甲車の強化ガラス以外で見た事ねえぜ……これを壊すとなったら、少なくとも数種類の溶剤と三十分は時間がいるな……超振動ドリルとダイヤモンドカッター辺りも有ったら早いな。それに、これは多層型の様だから――」
癖なのだろう。状態を確認し始めたインシュンを横目に、先に進み始めた。
――ここからは、ひたすら迷路格子の中を歩く事になる。
◇◆
入口のスキャンエリアを抜けた後は、どうと言う事は無かった。
それこそ、普通の家――と言うには少しばかり無理があるが、別に何も障害の無い半透明の壁で入り組んだ廊下を通り、その先にあった階段を下に降りた。
途中、インシュンはビクビクとしており、やたらと床を気にしていた。ファス自身も経験がある為、苦笑しかなかったが……きっと、床が開いて下に落ちないかが心配なのだろう。
そう、通常は進もうとすれば壁に阻まれ、そこでされる質問に答える事になる。
もし質問に嘘があれば、瞬時に落とされる事になるが、落ちればその先は下水道……死にはしないが最悪な経験をする事になる。
真偽の判定は、世界中から集めた情報データと、本人から得た情報を元に判断すると言う事だ。恐らく、壁のスキャナーを通して常にモニタリングしているのだろう。
心拍数の上昇や無意識下の動きを見て、嘘をついているかいないかを判断する――聞いた事は有るが、何とも対策の難しい事だ。
「すみません、休憩……良いですか?」
「あぁ、俺も悪いが……変な汗が止まらねえ」
何度か経験があるファスはともかく、リーナとインシュンの二人は、気の張り過ぎで既に疲労し始めているらしかった。
何となく空気が薄い気もするが、もしかしたら酸素量を調整しているのかも知れない。もう少し先はあるが、急いでも仕方がないので休憩する事にした。
「そうですね、ここで一度休憩を取りましょうか」
そう言ったファスは、片膝を付いて休憩を取る二人を見ながら、少し"会話"をする事にした。
「リーナは、私と仕事をするようになって数年経ちますが、整備士として働いて来てどうですか?」
唐突な質問だったが、リーナは直ぐに答えた。
「楽しいですよ? ……逆に、旦那はどうですか? 幼い頃から第一線で活躍して来て、若いながらに序列一位となった貴方が、今は主人を持つ身となった訳ですが」
ノータイムで答えたリーナに苦笑したファスだったが、そこから話を広げてくれた事に感謝した。続けて「一生、主人は持たないものだと思ってましたけど」と言うのに、苦笑しながら答える。
「正巳様は、私にとっては少し特別なんです」
そう言うと、リーナは興味津々と言う様子で目を輝かせていたが、横のインシュンも興味深そうに耳をそばだてて居るのが分かった。
インシュンがいる場所で話をするのはリスクのある事だ。しかし、ここでこの話をするのは、リスクを負う以外にも理由がある為、辞める訳にも行かない。
もし問題が起きても、自分が全力で主人を守れば良いだろう。
先を待つ二人に、呼吸を一つすると話した。
「実は、昔正巳様のご両親とお会いした事がありましてね……まぁ、それは些細な切っ掛けに過ぎなかったのですが、それからずっとあの方を見て来たんです」
紛れもない"ストーカー"発言だったが、普段から"監視"に親しんでいる二人は、特に反応した様子はない。それ自体おかしな事だったが、どうやら二人には別の事での"驚き"があったらしい。
「えっ、それじゃあずっと前から"主人"を決めてたって事ですか?」
「おいおい、あの坊ちゃんがかぁ?」
二人して、正巳がその対象であると言う事に驚いているらしい。
「ええ、私が執事として専属になるのはあの方だけです」
そう明言すると、問い返した。
「逆にインシュン、貴方は囚われている"大切な人"を助け出す為、こうしてユンファを迎えに来ている訳ですが……全てが丸く済んだ後。その後はどうするんですか?」
主人の性格からして放っておく事はまず無いだろう。予測される事態になった時、その準備には少し時間がかかるものがある。
そんな理由もあって確認しておきたい内容だったが、半ば説明的なのはご愛敬だ。
ファスの質問にインシュンが答える。
「逃亡生活になるだろうな。どこまで出来るか分からないが、逃げて逃げて、その先で諦めてくれたら……きっと、そこでまた"孤児院"でもやるだろうさ」
遠くを見るように言うインシュンに頷いた。
「そうですか。それもまた良いのでしょうね」
頭の中で、手配すべき"書類"と根回しすべき"関連組織"に当たりを付けたファスは、二人が十分に休息出来たのを見て言った。
「残り半分ほどです。進みましょうか」
頷いた二人が再び歩き始めるのを見て、数歩離れた所で呟いた。
「冒険に出ませんか?」
それは独り言だったが、独り言では無かった。
聞いているであろう家主へ呟くと、狭くも広い空間へと消えていった。