51話 昼寝の誘惑
散歩に出かけた正巳は、少し前を歩くにゃん太を眺めながら桜並木を歩いていた。
にゃん太は、歩道の上だけでなく、ブロック塀や木の根の上などを歩いて移動している。短い脚を精一杯使って歩く姿は、見ているだけで癒されるものがあった。
「さいこうだなぁ~」
頬を緩めながら呟いた正巳だったが、手前に見える公園に入るにゃん太に、付いて入った。基本的には、にゃん太の行きたい方に行かせてやるのが、いつもの散歩スタイルだ。
時間的制限がある日は、時間の半分はにゃん太に自由にさせ、半分は正巳が抱えて来た道を戻っている。他の猫はどうか分からないが、にゃん太は抱えると大人しくなるので、非常に助かる。
公園内を見渡した正巳は、前回来た時より人が少ない事を見て呟いた。
「やっぱり、落ち着いて来たよな……」
これがもう二か月ほど前だったら、何処かのレジャー施設かと思うほど人で溢れていた。それら人々は、"会えるアイドル"と化したヒトミ達目当てに来ていた内、疲れて休憩しに来た人々だった。
そんな、休憩にあぶれた人数でさえ、公園が一杯になるほどだったのに……今では、少しひと気の多い程度になっている。
爆発的な人気は、緩やかに落ち着いて行くと予想してはいたが、やはり予想通りだったらしい。
そもそも、元が人気商売では無いのだ。
今後の事を考えると、事業全体を本来の方向へと戻す必要が出て来る。
本来の方向とは、コンビニの在り方――"便利で何でも揃う場所"な訳だが……これを進める為には、人員を恒常的な業務から解放する必要がある。
「その為の自動化だよな……」
品出しから会計まで、全て人力で行っている面々を思い浮かべながら、その負担を減らしたいなと呟いた。
「そうすれば、ヒトミだってにゃん太と散歩に……にゃん太?」
物思いにふけっている間に、にゃん太が視界から消えていた。
慌てて、リードを辿って探すと、どうやら茂みの向こうに続いているらしかった。
「にゃん太ー?」
茂みをかき分けると、そこににゃん太の姿があった。しかし、にゃん太はひとりでは無く、そこに横になった人の胸元に前足を乗せていた。
慌てた正巳だったが、どうやらその人は横になったまま寝ているみたいだった。
「にゃん太、ほら、こっちに戻っておいで」
声を小さくして呼んだが……
「みゃっ」
一瞬だけこちらを見て、直ぐに顔を戻す。
「にゃん太ぁ……」
普段大人しく言う事を聞いてくれるにゃん太が、珍しく反抗していた。しかも、よりによって横になって寝ている女性の胸に手を乗せたまま……。
心の中で、にゃん太に対して「早く帰って来いー!」っと、悲鳴にも似た懇願をしていた。しかし、そんな正巳の叫びに反する様に、にゃん太が前足を使ってフミフミし始めた。
「うぁぁ……ダメだよぉにゃん太ぁ……」
生身の男がやったら、確実に引いて行かれる事をしている。
「うっ、ふぅんんっ……」
にゃん太の足踏みによって適度な刺激が加わったせいだろうか、呼吸を乱し始めた女性を見て、これ以上黙っている訳に行かなかった。
「にゃん太ダメだ」
慌ててにゃん太の体を掴んだ正巳だったが、急な動きがにゃん太を驚かせたのだろう。
「みゃあぁぁー!」
鳴き声を上げると、前足を踏ん張らせ始めた。
定期的に爪を切っているので、それほど長くない筈だが……どうやら、多少なり飛び出た爪が女性の服に引っ掛かったらしい。正巳がにゃん太を持ち上げると、女性の服も伸びあがってしまった。
「マズイ――」
その様子を見て呟いた正巳だったが、次の瞬間――心臓が飛び跳ねた。
「何がマズイって?」
声のした方を恐る恐る見ると、さっきまで目を瞑っていた筈の女性が、目を開けてこちらを睨んでいた。どうやら、にゃん太と格闘している間に目を覚ましていたらしい。
……まぁ、あれだけ刺激が行けば目も覚めるか。
心の中でため息を吐いた正巳だったが、その視線は意識しない内に胸元へと行っていたらしい。ジトっとした視線に、やってしまったと思った。
普段、ヒトミやミヤと接していても、この女性ほど主張するモノがない為、特に気にならなかったのだ。それがこんな……。
「……すまない」
女性の視線に耐えられなくなって謝ると、ため息を吐いた女性が言った。
「まぁ良いさ。そりゃ、知らない人にまじまじと見られたら、良い気分はしないけどね。君の猫くんを抱かせてもらう権利と、僕の頼みを聞いてくれたらそれでチャラにしてあげるよ」
そう言って、早くこちらに寄こせと仕草して来る。仕方ないので、にゃん太のリードを握ったまま、女性ににゃん太を抱かせてあげる事にした。
「……それで、頼みと言うのは何ですか?」
抱えられたにゃん太が、気持ち良さそうにしているのを見ながら言うと、"ちょっと待って"とジェスチャーをして来た。
どうやら、にゃん太を十分に堪能した後でないと、話をするつもりはないらしい。
その後、心地良さそうに抱えられるにゃん太と、女性を見守っていた。初めキツそうな性格の女性だと思ったが、その様子を見ている内に、どうやらそういう訳でもないらしいと分かって来た。
女性は、初め眉をしかめていたが、にゃん太が「にゃぁ」と鳴く度に言葉を返し、終いにはにゃん太の鳴き声に対して「みゃぁ?」と返していた。
隣に正巳が居る事を忘れ、どっぷりにゃん太との世界に使っていた女性だったが、不意に鳴ったコール音に我に返ったらしかった。
『"ヴィーヴィーヴィー……"』
音の主は、正巳が腕に付けた小型端末だった。
「っと、すみません。私の方の呼び出しみたいです」
「へっ、あっ、別に僕はこの子と話してなんかないんだからっ――!」
何か、一人でパニックになっているみたいだったが、それに構っている場合じゃなかった。軽く愛想笑いで受け流すと、呼び出しに応えた。
「はい。正巳です――」
「正巳様、ファスです」
呼び出し相手はファスだった。
「あぁ、ファスか」
「はい。いま正巳様は何方にいらっしゃいますか?」
「……ん? 今は常緑公園に居るが……」
「承知しました。そろそろお時間ですので、お迎えに上がります」
どうやら、もう直ぐ約束の時間らしかった。いつの間に時間が過ぎたのかと思ったが、どうやら久々の散歩という事と、散歩先でのアクシデントで時間間隔が狂ったらしい。
「え、もうそんな時間か……分かった、入り口まで行く」
そう言って切った正巳は、何故か機嫌が良さそうになった女性を見て言った。
「すみません、どうやらこの後の予定が来ちゃったみたいで……その、頼みと言うのを教えて頂けますか? 場合によっては後日にしますし、そうでなければ何か違う形で返しますので」
元々、正巳が直接何かした訳では無かったが、約束した事を破るのは違うだろう。出来る範囲で応えようとした。しかし、そんな正巳に女性は事も無げに言った。
「いや、その必要はないよ。猫くんで大分満たされたし、それに……もう一つの方も――」
最後の方は、小さい声だった為聞き取れなかったが、どうやら"頼み"とやらはもういいらしい。その後、公園の入り口までにゃん太を抱かせてあげる事にして、歩き始めた。
「ねえ、君に夢はあるかい?」
「夢ですか?」
赤みが掛かったこげ茶の髪がふわっと舞う。
「そう、夢さ!」
「そうですねぇ……今は特に思い付かないですね、それより目の前の事に精一杯なので」
我ながらつまらない回答だったが、それも仕方がないだろう。
それこそ、今ある状況自体が、何処か夢の最中に居るようなモノなのだ。
「そうかぁ、僕はねあるよ、"夢"!」
そう言って、少し小走りになった女性は、にゃん太を抱え上げると振り返って言った。
「――僕の夢は、動物と話せる"異種族翻訳機"を作る事なんだ!」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「それは――」
口を開いて、女性が何処か不安げな顔をしているのが見えて、一呼吸おいてから言った。
「それは、とても素敵な夢ですね!」
正巳の言葉に、不安そうな表情を浮かべていた女性は、一気に花を咲かせたような笑顔になった。
「そうだろ、その為にも頑張るよ!」
女性の言葉に、何処か引っ掛かりを覚えた正巳だったが、特に気にする必要も無い事だろうと深く考える事はしなかった。それが重要な手がかりであるとも知らず――