47話 ドーソン博士
担当者が責任者を呼びに行ってから数分後。ドア越しでも分かる、大きな話し声が聞こえて来た。言葉の意味は分からなかったが、何となく責めるような調子だ。
「訳してくれるか?」
もし何か機嫌が悪いのであれば、こちらも気を付けなくてはいけない。そんな事を考えての頼みだったが……正巳の言葉を聞いたファスが、一瞬苦笑いを浮かべた気がした。
「承知しました……『もうっ、あなたのせいで怒って帰っちゃったら減給よっ! まったく、久し振りに可愛い子が来たと思ったのにっ! それでどの部屋なの、その男子が――』」
ファスの口から出る言葉に困惑した正巳だったが、数秒聞いていてどういう話かようやく理解できた。そこで、確認しようと慌てて遮った。
「ちょっと待て、本当に訳して――」
遅かった。
確認する前に開いたドア。それに加えて、そこに立つ白衣の巨漢……
「この人が……?」
一瞬思考停止した正巳だったが、フリーズしている場合では無かった。
「ええそうよぉ~! ようこそぉ、私の研究所へ!」
長袖の白衣と黒ぶちの眼鏡、服の上からでも分かる隆起した筋肉。そして、その上に乗った整った顔……それ等全てが一つに組み合わさっている。
もし、どこか少しでも違えばバランスが崩れる――そんな感想を持った正巳だったが、呆けて観察している場合ではなかった。
「あらぁ、良いわねぇ。黒髪黒目の男の子!」
目の前に近づいて来た男は、そのままぐるりと正巳を一周すると手を握って来た。
「私はドーソン。博士と呼ぶ人も多いけど、好きに呼んでくれて構わないわ。趣味は男の子を愛でる事と研究ね! 本当は美容医薬品の研究をしたかったんだけど、故あって総合的な研究会社をやってるわ」
博士の勢いに若干引きながらも、一つ引っ掛かった事があった。それを確認する為にも、先ずは来訪の目的を伝えよう。そう思ったのだが……
「初めまして、本郷正巳です。今日は試験段階にあると言う医薬品について――」
「ちょっとぉ、仕事の話なんて後で良いじゃない~もう少し貴方の事を教えてちょうだい~」
早速本題に入ろうとするも遮られた正巳だったが、なるほどと思った。
以前は、会社と言う"信頼の保証"が後ろ盾としてあった。しかし、今や只の一個人なのだ。重要な話をしようにも、先ずはお互いの事を知らなくては始まらない――そういう事なのだろう。
「分かりました。それにしても、日本語がお上手ですね」
「そうなの。わたし黒髪の子が好きでね、黒髪の子の居る国の言葉を覚えたのよ。日本語の他に、中国語、韓国語、アムハラ語、オロモ語、ソマリ語、ズールー語、ポルトガル語、スペイン語……」
聞いた事のある言語もない言語もあったが、どうやらこの人は相当に変人で勉強家らしい。止まらない話に、適度に相づちを挟み口を開く。
「なるほど、私はファスの方がカッコ良いと思うんですがね……」
そう、横にいるファスは男から見ても"美しい"と思う。
しかし――
「違うのよ! ただ整っている顔が見たかったら、鏡を置いておけば十分なのよ。私が思うに、この黒髪と瞳の黒があってこそなのよね! メラニンの量でこの髪色は変わるのだけど――」
その後しばらく話が続いたが、分かったのは男の趣味とその情熱のかけ方が半端ではない事。そして、その頭脳は頭抜けて優れていると言う事だった。
「それでですね、博士はこの製薬会社の経営をしているのですか?」
「あぁん、名前呼びで良いのに~」
"良いのに~"と言いながら、どこか"呼びなさい"というニュアンスを感じる。
「……それでは、ドーソン博士?」
正巳の言葉に「いけず~」と言いながらも、ようやく諦めたようで話し始めた。因みに、ドーソン博士は少し前のギャル達から日本語を学んでいたらしく、言い回しが若干古かった。
「そうよ、この会社は私の"100%"持ち株会社なの。以前は美容関連の会社にいたんだけどね、そこで"新薬開発"をしようとしたら追い出されちゃったのよ~」
博士が話す間、後ろに立っていたファスが耳打ちしてくる。
「その時着手したのが、今研究中の"難病の薬"だったようですが、その理由は"高齢"の男性の為だったそうで……」
ファスの耳打ちに頷いた正巳だったが、それよりも何よりも、衝撃的な事があった。
「あの、この"ラシュナー製薬会社"と言うのは……確かですね、画期的な新薬を立て続けに開発して、莫大な利益をあげる言わば"権利収益会社"で、社長の名前もラシュナーと付いたと……」
そう、調査書によるとそういう話だった筈なのだ。だからこそ、一番確実であろう"金銭的対価"によって薬を得ようとしていた。
しかし、ここまで話を聞いて来た正巳は、書面からの印象とは差を感じていた。
正巳の疑問に、博士が笑顔を浮かべる。
「あらぁ、良く調べたのね~そうよ、表向きは"クリフォード・ラシュナー"としているわ。でも、正式には"クリフォード・ラシュナー・ドーソン"ね!」
……どうやら、間違いではないが完全では無かったらしい。
「それに、権利収益で資金集めをしたのは確かだけど、それは新薬の開発に必要な資金を用意する為だったのよ。ほら、自前で色々やるにはお金がかかるじゃない?」
なるほど。言われて腑に落ちる話だが、この話も調査書には書かれていなかった。
この程度をファス達が調査時に落としたとは思えない。それに、書いてはいたが読み落としたか、そもそも書いていなかったでは、大分大きな違いになってくるのだが……
チラリとファスへ視線を向けると、目を伏して何処か申し訳なさそうにしていた。
「ふぅ、なるほどな……」
ファスの様子と現状から状況を理解した正巳は、深くため息を吐いていた。
……なるほど、直接出向く必要があるってのと、手土産がこんな物なのはそういう事だったのか。
重ねてため息を吐きたくなった正巳だったが、どうにかこらえると言った。
「それで、私達はその"新薬"を売って頂きに来たのですが……その、これは手土産でして」
若干緊張しながら込み袋を差し出すと、それ迄博士の後ろに控えていた男が出て来た。男が紙袋と博士の間に立とうとするのを見て、どうしたのかと思ったが、ファスの耳打ちに納得した。
どうやら、これまで何度か"襲撃"があったらしい。
新薬と言うのは、莫大な利益を生むものだが、同時に既得権益を破壊する事すらある。
これ迄も何度か襲撃があったらしく、男も警戒したらしかった。
しかし、そんな男に対して博士が何か言うと下がらせた。
「ごめんなさいね、この子も優秀なんだけど融通が利かなくてねぇ」
……護衛であれば、融通が利いてしまうのは駄目だろう。
「いえ、その方が良いですよ」
苦笑すると、ゆっくりとした動作で紙袋を渡した。
その場で紙袋を開いた博士だったが、中身を見た瞬間破顔していた。そんな博士の顔を見て、必死に羞恥心を殺していた正巳だったが、落ち着いて来た博士が言った。
「さあ、何が欲しいの! 何でも言ってみてちょうだい! サインを入れてくれるならそれなりに割り引くわ! もしかして自画像なの?!」
矢継ぎ早に繰り出された言葉だったが、一度落ち着かせてから言った。
「私にはそんな才能は有りませんが……そうですね、サイン位ならいくらでも書きますよ」
その後、自分の持って来た手土産にサインを入れると、自分の世界に入り始めた博士を横目に聞いた。
「あれは、誰が書いたんだ?」
正巳に聞かれたファスは、心なしか照れると言った。
「……お恥ずかしながら私が」
どうやら、手土産として持参した"肖像画"は、ファスの"作品"らしかった。
恥ずかしそうなファスを横目に、ふと(今回"必要"だから用意したんだよな? 普段から俺の肖像画なんて書いてないよな?)――と思ったが、流石に自信過剰な気がして止めた。
その後、研究所の金庫に保管される事になる"肖像画"だったが……まさか、これが将来とんでもない価値を付ける事になる等とは、そこにいた誰一人として想像すらしていなかった。