プロローグ 夜更け
二十年前のある日、あまりにも急であまりにも呆気ないその一つの『揺れ』が世界を変えた。
人間を含む多くの生物達は命を落とし、街は崩壊し、森や山などは元と比べれば氷山の一角と呼ばれるほどの面積だけを残し、それがかつて山や森だったなどとは信じてはもらえないほど小さくなってしまった。
そして、それは世界に何かが現れた時でもあった。中にはそれを奇跡だと崇める者、終焉への誘いだと恐れる者それぞれだった。皆、共通して思ったことはただ一つ――彼らはただの一般人にすら『異質』だと分かるほどの力の持ち主だという事だ。
彼らは後にこう呼ばれるようになる。
一つは正義を貫いた英雄として『英霊』と呼ばれる者。
一つは非道の限りを行った罪人として『幻象』と呼ばれる者。
この二十年前に起きた悲劇――『ノアズ・アークの夜』によって僅かな魔力を持ってしまった人間、『魔人』と呼ばれる者。
その三つの存在がいずれ『再び訪れる悲劇』を生むための歯車となる――その事は誰も知る由もなかった。
◆◇◆◇
六月の上旬、天気は梅雨の時期だと言うのに雨どころか曇りない晴れ、正しく快晴といったところだ。
当分雨が降りそうにない空を見上げれば昼だと言うのに星や月が見えてくる。夜になれば二つの月が見え、必ず右側に現れる月が月食状態で現れる。
『ノアズ・アークの夜』以前の世界では有り得なかったことらしいがそれよりも後に生まれた俺――桜川樹や同年代の人にとってはこれが当たり前の世界だ。
そんなちょっとしたファンタジー世界観が入ったぐらいで今日も今日とて平穏な毎日が俺達の日常だ、というには遥か遠く『ノアズ・アークの夜』以降、世界は大きな問題に悩まされていた。
それは『幻象』と呼ばれる怪奇現象について、だ。
俺自身がそれに遭遇したというわけでもないが近場だけそれも今日限定で見ても三件は発生しているし、被害者は30人にも昇る勢いで増え続けている。
そんな中、学校の屋上で横になりながらニュースを確認してる俺は周りにどう思われているのだろうか?
いや、考えるような事じゃない。専門家や偉い人でさえこの問題には対策がしようがないと匙を投げてしまっている。噂だと霊が見える人見えない人と同じで霊感とは関係なく幻象の原因が見える人見えない人と分かれるらしいが、当然噂というだけで信じてもらえず、仮に信じてもらえてもそれでも対策の一部にすらならないという現状だ。
そういった中でこうして何事もなく過ごせてるのはただ運が良いとしか言い様がない世界というのも俺達では暗黙の了解と化している。
「なに寝っ転がってるのよ、もう最終下校時間よ!?」
ドアの音がするなり、開口一番で一人の女子生徒が話しかけてくる。彼女の名前は成瀬川奏、俺の幼馴染だったりする。
俺は委員会の仕事も終わり、横になってニュースチェックをしながら時間を潰していたのだが、もうそんな時間か。
そんな事を考えながら、仰向けになり立つための準備をする。
「お前はもう少し羞恥心って奴をだな……」
奏に言い返す。仰向け状態の俺に対して見下すように眺める彼女は当然ながら立っている。立っていると自然とあるものが見えてくる。白と水色でストライプ柄に装飾された下着が……。
それを理解するやいなや奏は赤面して、踵を鳩尾へと落とす。
「もう知らない!ストレスで下痢して死ね!」
「俺は、ゴリラか…なにかかよ……!」
彼女の蹴りは非常に強く、急所である鳩尾に見事クリーンヒットし、俺は悶え苦しむ。
かろうじて呼吸はできるものの立つほどまでには時間がかかるだろう。
そもそも理不尽だ。注意してあげたのにこの始末だ。俺だったから良かったものの他人だったら間違いなく辱めを受けていたというのに。
「奏……お前の方がゴリラだよ……」
当の本人がいないからこそ呟く。
痛みも引き、やっと立ち上がり、教室へと向かう。
改めて、自己紹介をすると俺の名前は桜川樹、公立天蘭高校二年、土曜日も学校という制度があるこの学校に通い、部活は委員会で忙しい身で所属しておらず、委員会の仕事が終われば最終下校時間まで宿題や今のようにニュースチェックして時間を潰し帰り、両親は共働きで帰りが遅いために妹や弟の世話に明け暮れる日々を送る普通の高校生……のつもりだ。
『つもり』というのも俺には『ノアズ・アークの夜』以降に生まれた子達によく見られる『第二の精神』と呼ばれるモノが体内に通ってる。医学的にも科学的にもはっきりとしてはいないがレントゲンなどで取るとよく映る。何か害があるという訳じゃないため、特に問題視することは無い。
ただ独特的な感覚を持つ事が多く、非常に小さくて弱くだが、何かが自分の体内に住んでるような感覚がある。不思議な事にこれが他人の精神だとかと思うような事はなく、自分の精神だと確信を持って言えるのだ。自分の中では今更それを言ってもどうにもならないので俺は奏にぶつけられた理不尽に少しモヤモヤとした気分を晴らすために炭酸ジュースを買い、飲みながら家に帰ることにした。
◆◇◆◇
―帰宅後―
「兄さん、おかえり……少しふらついてる、大丈夫?」
家に到着し、玄関を開けると落ち着いた声音が出迎えてくれた。
「なんとか大丈夫だ、ただいま」
家に帰ればば必ず妹の桜月が出迎えてくれる。
今日は俺が帰ってくるやいなやお腹を空かした弟の大樹が急かすように夕飯の準備を催促してくる。……この腹ぺこ魔神め。
さっきも言ったが、両親が共働きで帰りは遅い。ほとんど面倒を見るのは俺、そして肝心の両親は運の悪い事に両方とも先月から海外出張で家にはいない。
今月は授業参観の時期と重なって家庭重視な俺はその日を休んだりしていた。普通なら欠席日数にはカウントされるのだが、通ってる学校の独自システムに救われて欠席扱いにはされない。卒業も安泰だ。
そんなことより腹ぺこ魔神の腹を満たさなければいけないか。今ある食材は人参にブロッコリー、タマネギ、ジャガイモ、ベーコン、他にも色々あるが今ある材料で俺が作り慣れて得意なモノと言えばアレしかない。
「今日はシチューにするか」
そう言うと大樹は喜び、桜月は綻ぶ。
何を我が家の俺を含む子供達は揃いに揃って、シチューが好きなのだ。それこそ、1日跨ぐことなく完食するほどに。
母さんが作るシチューと俺が作るシチューがシチューを作る担当は交互に出るのが我が家での決まりのようになっており、母さんの方が美味いだの俺の方が美味いだのと盛り上がる。
だというのも両親が入ればの話でいなければただ単に雑談してはあっという間に時間が過ぎ行くだけだった。
「「ごちそうさま~」」
「お粗末さま」
こうして各自の時間へと入る。
◆◇◆◇
自室に入り、窓を開ける。刹那、男の悲鳴が聞こえた。遠くはない。それもすぐ近くと言うよりは目前だ。
数メートル離れた場所で黒い『何か』を纏いながら空から男が悲鳴を上げながら落ちていった。頭に過ぎったのは『幻象』と呼ばれる言葉だった。空から落ちていった男の命はもう助からず、落下した所で既に絶命していた。道端に原形さえ留めずに見事に鮮明な赤い水となってしまっていた。あまりにもグロテスクで吐きそうになる。目を背けたくなる。だが、それを許さなかったのは『第二の精神』だった。目逸らしたら死ぬぞと言わんばかりに警鐘を鳴らし続けていた。
やがて、その血溜まりから黒い『何か』がこちらへ猛スピードで迫ってきた。それが案外ゆっくりに見えたのは走馬灯という現象か、いや、そんなことはどうでもいい、アレをどうにかする方法を考えないといけないのが最優先だ。
アレに捕まったら死ぬ、一つ目に理解したのはそれだ。
方向を変える様子はなくただただ、突っ込んでくる。曲がれないのか曲がらないのか分からないが一点集中なら対処は難しくない。避ければいいだけなのだ。
なるようになれと下の方へしゃがんで回避を試みる。物音はしなかったが、風が上の方を突き抜ける。どうやら回避成功のようだ。
避けた後に二つ目に理解したのはあの黒いヤツは人間ではない物を透過すること、憑依するが出来ないということだ。
透過されていたら隣の部屋にいる桜月が危なかった。
窓から飛び降り、誰もいないところへと逃げる。まだ俺が標的のようで追いかけてくるヤツ。猛スピードで迫られても避けれる自分の身体能力と物にぶつかることを考えれば、なんとか応戦は出来る。対処は全くわからないが……とりあえず、洗濯棒を持ち応戦する構えを取る。それぐらいの余裕はあった。
ヤツは俺を見るなり迫ってくる。当然、避ける。塀にぶつかるが振り返ったのか俺の方へまた突撃しだした。今度は洗濯棒で薙ぎ払い、黒いヤツは塀にまたぶつかる。そうやって繰り返して応戦するうちに肉体がある俺は疲労がたまり、やがて指一つ動けなくなった。正しく絶体絶命と言ったところだ。
やれることはやった。でもやっぱり、という絶望は不思議な事になかった。ヤツから桜月達を必死で守ろうと頑張った事にすら誇りを覚えるような感触しかない。
ヤツが俺が動けなくなると好機と言わんばかりに突撃を繰り出す。
――――が、俺の命を奪おうとするその突撃は虚しくも一つの槍の介入により防がれてしまう。
「……契約英霊なし。当然だけど原典も聖典も魔典も無し。『幻象』が見えるだけの『魔力』しか持ってない。それでいて、私がここに来るまでの間、疲労で動けなくなるまで応戦が出来るなんて少し驚きね」
声がする方向――左斜め上を向く。逆光でよく見えないが、確かに人がいる。声からして性別は女だと分かるが、風貌までは捉えられない。
ヤツはターゲットを俺からその女性に変えたのか声が聞こえた方へとひたすら真っ直ぐに突き進む。
「邪魔よ」
彼女はその一言だけ呟くと俺が苦戦していた相手をあっさりと持っていた槍で貫き、爆散……と言うより砂のように崩れ、ヤツが消滅する。
ヤツが消滅したのを確認し終わったのか彼女が地面に降り、こちらに近寄ってきた。絶体絶命のピンチを救ってくれた槍はいつの間にか消えていたのには驚いたが、その槍の持ち主であろう彼女の風貌にも俺は驚いた。
単純に説明するなら綺麗の一言しか出てこないしか出てこない。日本人どころか世界中を探したってこれほど整った顔立ちに出会うことはないし、夜風に靡く真紅の髪はまるで躍る宝石状態だ。眼だって右は翡翠色、左が赤みがかった灰色の異色の瞳とまるでラノベでよく見かける異世界の人間がこちらに来たかのような感覚だ。クラスの男子なら誰もが告白に挑むだろうな……って、風貌云々そんな事は今はどうでもいい。それより聞かないといけないことがあった。
「……あんた、知ってるならもうちょい早く助けてくれたって――」
「残念だけど、ここに私が着いたのは今さっきよ?あなたが『幻象』と戦ってた経緯を知ったのは私の能力のうちの一つよ」
「そう……なのか、それであんたはアレの仲間なのか?それとも――」
次の言葉を紡ごうとした時には既に遅く、口を塞がれた。それも口で……。一瞬、貞操観念を疑うがどうもそうじゃないらしい。
「その問いにはこれが答えよ、と言っても分からないわよね……あなたが他の英霊に取られる前に『契約』は済ませて貰ったわ。へぇ、そう……あなた、サクラガワイツキって言うのね」
自己紹介もしてないのにキス一つで名前を知るとかどういう能力なんだ、と疑問も当然浮かんだがそれは頭の隅に追いやり、『契約』ってなんだ?と問おうとした時には既に彼女の口は開いており、説明し出した。
「イツキ達のように『魔力』……この世界では『第二の精神』を持つ者には力を与え、私達のような二十年前の二つの世界の衝突によってこの世界にいるもう一つの世界の住人は私達の世界と同じように力を使えるようにするためというのが建前で本質は『幻象』討伐を行うための契約よ。つまり、さっき私が接吻したその時から私の主はイツキ――あなたよ」
聞きながら頭の中で整理するもなかなか処理が追いつかず、俺は一言、彼女に告げた。
「待ってくれ、情報量多すぎだ」