シンフォニック
きっと、こんな事柄を隣で貴方も同じように思い、考え、吟味し、そして二人の思考が折り重なり合い、交差する時、人は答えを出してしまうのでしょう。
空も風も草木も様々な音を奏でている。私も彼もその音に溶け込み一つとなる。
こんな時、彼はいつだって指揮者を気取る。そこはまるで優しい彼の精神世界と同じような、綺麗でとても広い公園だった。見渡す限りの人工芝は深緑色で、なだらかな起伏が連続し波打っている。地面に直に生える金属のオブジェに不思議な形のモニュメント、個性的な植物。昔は世界中から人が集まったこの場所。なのに今はもう人が寄り付かない夢の跡地だった。そんな広大な公園を私たち夫婦は、手を繋いで歩いていた。穏やかで柔らかい時間が流れている。
——昔のこと思い出すね。
彼は云った。確か出会ったその頃は、この公園にも人がごった返していて、交通にリニアモーターカーが敷かれ、世界各地から様々なものが集められていた。誰もが色めき立ち、それはそれは素敵な未来を皆夢見たように思う。
ここは初めて二人で出掛けた場所だった。同僚の彼に誘われた私は、精一杯のお洒落をして、確かに彼とここに来ていた。
今とは違って様々なアトラクションがあって、指揮者を気取った彼は、我が儘な私の行きたい場所を予測し、先回りし、提案してくれた。全然的外れであったが、彼のそんなところが可愛かった。その時買ったお揃いのピアスを、彼は未だにもっている。私は何処かに無くしてしまったのに。
今は自然ばかりが残って、でもその静けさを私も彼も凄く気に入っている。こういう静かな場所で、取り留めのない老夫婦のような会話をすることが、こんなにも幸せだなんて、少し前まで思いもしなかった。
勾配の緩い坂を少し歩くと、彼の額から汗が滲んで、私は鞄からハンカチを取り出し、彼に手渡す。
彼は汗っかきで、いつも一生懸命私の前に立とうとしてくれる。そんなところに惹かれて私は彼を想うようになり、いつしか結婚していた。その頃、私は彼に自分自身の異常性を隠していた。
◇
超未熟児で生まれた私も大人になって、何とか身長も一四〇センチを上回ったころ、このガラクタの身体は薬なしでは眠れなくなっていた。
剥き出しの電球にコバエがぱしぱしと何度も当たる。服やゴミ袋の散乱したリビングで、ガタガタ震える母親を何度も殴って、無理やり薬を奪いワンシートを全て口に含み、がりがりとそれを奥歯で噛み潰す。父親は私が生まれて直ぐに行方をくらませた。
鼻血を垂らしながら泣き噦る母親に同情などしない。ほんの数年前まで、そこで鼻血を出して泣いていたのは私の方であったのだから。ざまあみろ。小さな身体ではあるが、年老いた母親よりは幾分か腕力もある。こんな荒んだ生活を外に隠したまま、私は彼と付き合っていた。
私は彼に自分の異常なところを少しずつ知って欲しくてSOSを何度も出したが、彼にそういう関心は無いらしく、口では色々言うものの、何もしてはくれなかった。彼が私の異常に気づかないまま、時計の針はチクタクと軽快に進み、季節は刻一刻と移り変わる。その時の流れに身を任せ、私たち二人は結婚し、それはそれは可愛らしい子供が生まれる。それがいけなかった。私は虐待されて育ったのだ。日がまた登り繰り返すように、こういった事象は連鎖する。この子を傷付けたくなる衝動が日に日に膨れていく。母親の遺伝子と母親から植え付けられた業を呪った。
あるとても穏やかな日のこと、まだ首も座らぬ我が子を傷付けたくなくて、私は代わりにばっさり自分の手首を切った。その後、薬をたくさん飲んで二度と目覚めぬよう深い眠りについた。結局は救急搬送され、彼が警察に事情聴取されるだけであった。
流石の彼も、事の重大さに気づいたのか、慌てて私を心療内科に通わせた。初見で大病院への紹介状が医師から手渡される。
◇
鳥が宙を舞い、木々は汚い二酸化炭素を吸っては咳き込んで、代わりに生命の息吹を吐き出している。生の営みとは生きる為に起こす行動であり、自己防衛とも言えるであろう。それと同じなのだと言わんばかりに夫である彼は、私の手を強く強く握り、とても穏やかな顔で私に「離婚しよう」と、そう告げた。
まるでそれが自然の摂理であるかのように。まるでそれが初めからそう記されていた決め事かのように。まるでそれが世界の在るべき姿であるように、ただただ穏やかに、なんの躊躇いもなく彼は私に告げたのだ。
西に暮れかかる過去は、色鮮やかな朱色で、大気中に漂う塵芥を照らし、綺麗な思い出ばかりを映し出す。私は残された僅かな現実を噛み締め、——はい。と短くそれに応じた。
そこで靡く草木の揺れが収まり、鳥の歌声が止み、私たち二人の影は長く伸び、無音の世界が生まれる。間も無く世界に夜が訪れる。森羅万象を見通すような、彼の冷めた視線が私の身体を刺す。こんな時、彼はいつだって指揮者を気取る。
◇
太陽がちかちか明滅するよう晴れと雨を交互に繰り返していた当時の私は、いよいよ焼きが回って鍵付きの病棟に閉じ込められていた。気鬱を患っていたと思って頂ければ解り易いやもしれない。
生まれたばかりの子供の世話と、ベランダから飛び降りようとする異常者な私。二つの足枷で身動きが取れなくなった彼は、已むを得ず仕事を退職していた。それは言葉にすれば容易いが、とんでも無いことである。人は働かねば生きてはいけない。
己の罪が手首から二の腕の半分に差し掛かった頃、やっと私は自分が彼を不幸にしていたことに気付き、この入院を承諾した。私の近くにいては、夫まで狂ってしまう。と。
檻の中、それはそれは悲惨な世界で、何をもってして私にとって悲惨かと云うと、自分がここにいる人たちと、同じ線の上に立っていることが、まず最も恐ろしくて震えた。私はもう人ではないのかもしれない。ここはそういう場所であった。
しかし一年もの長い入院生活の中、私もまた時と共に変わりつつあった。何も全てを悲観的に捉えなくても良いように思えてきた。この狭い鳥籠の中、私は自尊心を取り戻していた。もしかしたら治療の賜物なのかもしれない。ここにいる人たちには、申し訳ないが、この中では私は比較的マトモであると、そう錯覚した。独り言をぶつぶつ話す老婆、突然叫び出す酷く太った少女、同じことを何度も話すお隣さん。この境界線を一歩跨げば、まだまだ私も捨てたものでは無いと思うようになっていた。
けれどもはっきりしたことがある。夫である彼は彼方側の人間で、私はこの病棟の扉を隔てた此方側の人外である。共に生きるとどうしても歪みが生じてしまうのだ。
どうしようもない程人外な私は、それでもなんとか檻の中、優等生を演じ、彩り豊かな外の世界に帰還することができた。
夫である彼は、私の所為で一年間仕事をしていない。貯金を切り崩し、節約しながら生きていた。私の入院費も、子供との生活費も、なんとか集めて集めてギリギリのところで生きていた。彼は捨てることの出来ない人間なのである。捨ててしまえば楽なのに、彼はとてもいい人だ。でも、本当は捨ててしまいたい人。だから私は一つだけ、賭けをすることにした。私は家計を助ける為、とある仕事に手を出そうとした。沢山沢山ヒントを残した。携帯電話、パソコン、態度。私の仕事。それはとても如何わしい仕事で、男の人のそれを満たす仕事だった。気鬱のようなものを患う私にとっては、唯一務まる仕事であり、夫である彼への酷い裏切り行為でもあった。
実行に移す前に沢山沢山残したヒント。もしも彼がそれに気付かず、私を叱らないのならば、私は彼を自由にしよう。この檻付きの人生から解き放ってあげよう。そう心に誓っていた。夫である彼は夜中に仕事をするという私の嘘に、まんまと騙される振りをしてくれた。私が残したヒントを盡く無視した。私が檻に入る以前、私の異変に気付かなかったのと同じように、またもや彼は気付かなかったのだ。
仕事を始めた私が、別の男に抱かれ帰るのは朝方である。この異常に気付かない彼もまた異常であったのだ。
結局私たちは似た者同士で、どうしようも無いくらいに異常者同士で、境界線の彼方と此方ギリギリに立たされていて、それでもそのボーダーラインに在る隔たりの溝の深さが怖くて怖くて仕方なかったのであろう。手を伸ばせば、直ぐに手を繋げる程近くにいたにも関わらず、今の今まで繋ぐことは叶わなかった。
例えば二人、似て非なるものだとしても、共に等しく老いていきたいと願っていた。悲しいけれど、どうやらそれはもう叶わない。
或いは、今この瞬間みたいに、掌を強く強く握ってくれていたのならば、私は彼の側へ勇気を出して飛べたのやも知れない。
もう少しだけ早く、この手を握ってくれていたのなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
◇
——肌寒くなってきた。そろそろ帰ろう。
貴方に告げられて数秒。私は泣かないよう、叫ばないよう、普通の人でいられるよう、冷静に彼の手から、自分の掌を離し、私は傷だらけの腕を天に掲げ、貴方の代わりに世界の指揮を執る。
この物語のマエストロは端っから私である。貴方は繋いだ私の掌の上で指揮者を気取っていたに過ぎない。貴方に云わせた私が狡いのだ。
私が腕を振り掲げたその刹那、木々に止まった鳥たちは飛び立ち世界の沈黙が覆される。同時にスズムシがメロディを奏で、ソロ、デュオ、トリオ、カルテットと徐々にその数を増やし、柔らかなストリングスとなる。
貴方が最後に見破った私の嘘。私がわざと見破らせた嘘。多分貴方はほっとしている。私と離れる理由が出来たことに。
貴方は優しいから私が今ここで泣き喚きながら謝れば私を赦すと思う。でも私は貴方を赦さない。貴方の狡くて智くて優しいところを赦さない。
私は確信している。直ぐにこの関係は逆になる。きっと一年後、私がどんなに謝っても貴方は赦してくれはしない。だって貴方は新しく手に入れたものを捨てられないのだから。
似て非なるからこそ生まれた不協和音は、この日初めて上手い具合に重なり共鳴し、共に奏でた旋律は、同じ別れという結論を導き出した。なんと皮肉で因果なシンクロニシティであろうか。
帰り道、彼の車は何の躊躇も無く、私の実家へ向かう。別々の家へ帰るのだ。咲いた花が枯れるように、これでお終いなのである。
夏が終わり、秋を過ぎ冬を迎え、そしてまた春に芽吹けるよう、私は自分の足で立ちたいと願った。車内から見上げる窓越しの夜空、幾億もの星に祈った。
◇
子供は私が引き取った。彼は自分が引き取りたいと云ってきたが、私はそれを拒んだ。
もし彼が私と戦ってでも、子供の親権を欲しがるような強い人間であったのならば、私は彼と生きていくことができたのかもしれない。
あれから何人もの男と付き合った。誰一人取っても、かつてこんな私を唯一愛してくれた狂人よりは、幾分かマシであった。
終