序章6
アンジェの眉間にシワがよってきたので、そそくさとオフィスを出てエレベーターを待つ。
隣に人の気配を感じた。ハイジは目もくれず声をかける。
「やあ、今朝はやけに上機嫌そうだね。山岡捜査官」
「分かるか?」
そこで、ハイジは初めて目をあわした。
山岡とは顔の濃い、嫌みたらしい笑顔を貼り付けた、壮年の男だった。
「足運び、呼吸のリズム、何より声が弾んでいるからね。アンジェちゃんは非常にカリカリしてるのに、対して君は上機嫌」
「天塚が不機嫌?」
「うん、そうだね」
エレベーターが到着したので、二人で搭乗する。
一階のボタンを押して、動き出した頃にハイジは言った。
「ねえ、山岡捜査官。僕は人の弱味につけ込むのを悪いとは言わないけど、相手によりけりだと思ってる」
「なんの事だ?」
「いやいや、僕の考えを聞いてもらいたかっただけだよ。あと」
言いかけた所で扉が開き、ささっと表に出て振り返る。
嫌味な笑顔は相変わらずそこに仮面のように貼りついていた。
「シャンプーの匂い。安っぽいから、昨日行ったラブホテルはオススメしない」
言い終わり出口に向き直る瞬間、山岡が額に横シワを浮かべながら匂いを嗅ごうと鼻を鳴らすのが見えた。
オフィスを飛び出して、ハイジはさっそく携帯電話を取り出す。
突き抜けるような青空に浮かぶ太陽は我が物顔で光を振り撒いていた。
「もしもし、アリス。おはよう。いつも通り手伝ってくれるかい?」
空を見上げた。べっとりと張り付くような曇り空が今にもこぼれ落ちそうであった。
「ええ。いいわ」
少しだけ跳ねた茶髪を手櫛でときながら、柔らかいピンク色の下着姿のアリスは、電話越しにハイジの言葉を聞いていた。
「……それってどういう? 特治本来の仕事が遂に始まるって」
アリスはドレッサーの前に座る。鏡越しに移るのは大きなベッドに広い部屋。五台並べられたパソコンのディスプレイであった。
「いや、それは、行くけど。そんな含んだ言い方されたら気になるわよ」
パソコンの画面は味気ない折れ線グラフが常に変動し、また別の画面にはニュース記事が表示されている。
「ふざけないで、朝から人の下着の色を当てようとしないで」
通話を乱暴にぶった切った。
そして、鏡を見た。つるりとした頬を撫でる。
母の最後の温もりを最も強烈に感じた場所だ。
アリスは思い出せない。母親の仇の顔を。まるで魔法にでもかけられたかのように、そいつの姿だけがぽっかりと抜け落ちている。
鏡に映る自分の瞳に問いかけても、何も答えない。
我に帰り、引き出しから化粧品を取り出す。
ファンデーションを塗り、アイシャドウを引き、口紅を引く。
魔法がこの世に存在するのか。そんなあり得もしない疑問に向き合う事になるとは、昨日までの自分は想像だにしなかったであろう。
「分からない……」
アリスはそう呟いた。鏡の中の自分に言い聞かせるように。
鏡の中の自分は静かにこちらを見ていた。