序章
「アリス、愛してる……」
アリスが聞いた母の最後の声であった。
すぐ側にあり、遠くに感じる過去。今際の際母がアリスに向ける笑顔は、何も無かった頃の笑顔で、あまりにも現実離れした美しい笑顔にアリスは涙一つ浮かべることが出来なかった。
幼心に刻みつけられた感情は悲しみではなく、ただひたすらの虚無である。空洞。そこに何も無い。自分の存在、介在すら許さないあるべからざる穴であった。
そう。美しかった母の顔と同じく、輪郭だけが存在し、中身は乾いた音と共に向こう側の景色を写し込む。ただの枠組みとなった。
血や脳漿や、肉片が顔を赤く染めた。
それらをただ嫌悪した。生理的に理性的に。冷静に単純に、もはや母ではない気持ちの悪い肉の塊として認識し、ただただ指先で顔を拭った。
それが、アリスと母の最後の思い出。十四歳の夏である。
時は流れ、アリス二十四歳。
見た目は麗しく成長し、ウェーブをあてた茶色の髪をサイドアップに纏め、規律正しいスーツで身を包んでいた。
彼女は、小汚いアパートの一室で一人の男を後ろ手で押さえ込み、銃口を後頭部に押し付けた。
無精ヒゲに、伸びきった髪。年の頃は三十代半ばであった。
「まて、アリス。早まるな。ご立腹なのはよく分かるが、これは……」
「別に怒ってないわ。ハイジ。私はいきなり仕事を辞めたあなたに呆れてるの」
ハイジと呼ばれた男は苦しそうに、
「いいや、怒ってる。日にち的に、それに肌から伝わる君の体温の変化。なによりもそう、独特の――フェロモンと呼ぶべきか。そことなく僕を惑わすような匂い。間違いない。君はせい……」
と言おうとしたが、セリフが終わるより先に、アリスは後頭部にゲンコツを落とした。
「それ関係ないでしょ変態。いちいち私の事まで観察しないで」
アリスは拘束を解いて立ち上がり、スーツの裾を直した。
ハイジも起き上がった。
「観察だなんてとんでもない。相棒の体調管理一つも出来ないようでは、特殊治安維持部隊は務まらんよ」
「その特殊治安維持部隊さんはなんでこうもプライベートの治安を悪化させるの?」
アリスの言葉にハイジは、
「はっはー、中々上手い。アリス、君もついでに違う職業でも探してみたらどうだ?」
と言った。
「いい加減にして!」
アリスは、カバンを乱暴に掴み怒り任せに部屋を出ていく。
薄汚いアパートを飛び出して、人混みの中に飛び込む。
行くあては無い。
ただ周りにはビルとアスファルトと車と、いつも通りの風景であった。
が、アリスは感じ取っていた。ピッタリと歩幅を合わせて尾行する何者かの視線を。