偃武の刻
ひとつだけ――。
ひとつだけ願いが叶うならば何を願う。
そう問われたならば、俺ははっきりと答えることができるだろう。
いつ何時も、俺は強さを求む。誰にも負けることのない、絶対なる強者でありたい。
だから、誰よりもひた向きに剣を振るった。強さこそがすべてと信じた。
毎日手の皮が擦りむけて竹刀を握るだけでも痛みが走るほどに稽古を重ね、通っている下谷御徒町の剣術道場でも俺の先を見込んでくれていた。目上の人間であろうと俺を敬ってくれていたのは、与力を父に持つせいばかりではなかったはずだ。
この小和田清太郎の名を知らぬ者などないほどに強くなってみせると、常にそう目標を高く掲げて来た。
けれど――。
それは嘉永三年の、俺がまだ元服も終えない十三の頃、そいつが俺の通う道場、練武館へ門弟としてやって来たのだ。
そいつは俺と同年であった。前髪を後ろに引きつけた若衆髷、刺し子の胴着、藍染の袴、上背は高くもないが、年の割にはがっしりとした体格。それでいて目はつぶらで愛嬌があるというべきか、鋭さに欠ける。
「某は仁谷友衛と申す。こちらの道場に通うことになり申した。何卒よろしゅうお頼み申します」
ずらりと道場の両脇に座す門弟一同の前で、道場主の伊庭先生に丁重に手をついて頭を垂れる。伊庭先生は老中であった水野忠邦様の御推挙で、将軍様をお護りする御書院番士にまで上り詰められたお方だ。その腕前は伊達ではない。
四十路に手が届く頃合の伊庭先生が白いものが混ざり始めた頭をそっと揺らしてうなずかれた。
「紹介状は確かに。そうか、それほどに先を見込まれておるのか――」
その紹介状とやらを着流しの懐に収めると、先生はそいつに真っ向から視線を投げかけられた。その目にそいつの器を計る様子がありありと見て取れる。そらすべきではないと思っても、大抵の人間は先生のような剣豪の眼力など受け止めきれるものではない。
あいつの視線が空を彷徨うだろうと誰もが思った。けれど、あいつの横顔は少しも動かなかった。親しみを感じさせる笑みは崩れず、先生の前にある。むしろその姿勢には、これから始まる稽古への期待の色が大きかったのではないだろうか。
あれはただ、人一倍感覚が鈍いのだと後になって皆が口々に言った。その時、先生は不意にフ、と柔らかく微笑まれていた。
「よし、それでは励めよ」
「はっ」
感情豊かに顔を輝かせて、額を床板に擦るようにして頭を下げる。俺はそんなあいつの姿を見て、ぼんやりと思った。
自分ならば先生のあの眼を向けられた時、どうしたであろうかと。
挑まれたならば真っ向から受けた。そらさずに、じっと受け止めて――。
けれどそのとき、自分の中には何があるのだろう。若輩の俺に先生に勝つほどの力はない。だとしても、逃げるのかと思われたくはない、その虚勢が目に表れるのではないだろうか。それを恥じれば、やはりそらしてしまうのだ。
向けられた殺気に動じず、怯えず、何故あいつが微笑んでいたのか。そのわけを訊ねてみたいと、そう思った。
皆に紹介が済んだ後、仁谷を誰と組ませるのかを先生はしばし考え込まれている印象だった。
俺が――俺が手合わせをしてみたいと思った。心の奥底から沸き上がるような渇望が疼きにも似て体を苛む。我こそはという猛者と、当りたくはないと顔に書いてある腑抜け、その二種しかおらぬのだ。
誰よりも強く願ったはずの俺を、先生の視線は上滑りした。
「稲生、前へ」
「――はっ」
稲生は力はあれど技に欠ける。俺は一本も許したことはない。先生は小手調べのつもりで稲生を選んだのだろう。
互いに武具をつけ、仁谷と稲生の顔が面に隠れた。道場の中央に竹刀を持って進む。二人のひたひたという足音だけが閑静な道場の中にある。皆が固唾を飲んで勝敗を見守るのだ。
師範代の声が試合の開始を告げた。
交差された剣先が軽く鳴って、そうして離れた。互いに構え合うけれど、力の差は歴然だった。稲生が仁谷へ打ち込む隙は、俺が見た限りではほぼない。動けば逆に叩かれる。
稲生はそれでも果敢に打って出た。果敢というのは皮肉ではある。あれが真剣であれば脇腹を裂かれて息絶えていただろう。強かに胴を打たれ、鮮やかに勝敗は決したのだ。この道場の心形刀流の型をまだ何も知らぬ仁谷だが、それでもなんなく打ち勝つのはやはり当人の力量なのだろう。
その動きはしなやかで、これだけの人間の目があるというのに、臆した様子がない。新参者を嘲笑ってやりたい、そんな気持ちが少なからず皆にあった。しかし、その程度のことに揺るがぬ強い心が技に表れているのだ。
こいつは、実のところ俺と似ているのではないだろうか。
何時、いかなるときも強さを求むる。そのために、敵陣のごとき他流の道場へ入門することも厭わなかったのだから。
それから俺は仁谷と手合わせできる日を心待ちにした。けれど、なかなか許可が下りなかった。先生に掛け合っても、まだ時機ではないとかわされるばかりであった。一人、二人、と仁谷は覚えたての流派の技を持ってして倒して行く。習い始めて間もないとは思えぬ馴染み方で技を自分のものとした。一刀の技はもとより、二刀、抜合、枕刀――どれも引けを取らなかった。
そんな仁谷の相手が、年の近い者では誰にも務まらぬとして、しばらくすると俺に白羽の矢が立った。それを伝えた先生の眼の奥底にある真相に気づいて、俺は愕然とした。
先生は、仁谷に俺が勝てぬと思われるのだ。そうして、敗北した俺は潰れてしまうと。
だから俺に仁谷の相手はさせなかった。けれど、このままでは仁谷が育たぬと思ったのだろう。明らかに格下の相手ばかりさせられていてはそれも当然。
仁谷の才を伸ばすためには自分の小道場ではいけないと、道場主は仁谷を手放してここへ送ったのだ。燻らせたのでは先生の名に傷もつこう。
そう、先生は仁谷という男を育てるために俺を肥やしにすると決めたのかも知れない。
――勝てぬのか。
あれほどに打ち込んで来た剣術で負けるというのか。
まだ、結果は出ていない。死ぬ気で仁谷の剣を受け止めて見せよう。俺は覚悟を決めて面を被った。
一礼し、互いに構え合う。やつの顔も面に隠れて見えなかった。
水の構え(正眼)――向かい合ってみると、仁谷は自然にそこにあるという風に思える。殺気も気迫もなく、無と呼べるほどに何もない。まるで動きが読めぬのだ。俺がやつを測りかねていると、睨み合いに飽いたとでも言うように、ト、と軽い音がして、仁谷が右下から打ち込んだ。俺は考えるよりも先にその剣を弾いた。心の臓が激しく、激しく鳴る。
武具の下で肌から汗が噴き出すのを感じた。けれど間髪入れずに仁谷の剣が切り返される。その打ち込みは俺よりも膂力に優れている。まともに競り合えば押されると悟った。斜め後ろにずれてかわし、俺は一撃に気迫のすべてを乗せて、木の構え(八双)から高らかに声を張って籠手を狙った。
打てると思った。けれど、剣先は届かなかった。変幻自在の仁谷の剣は、金の構え(脇構)から怯むことを知らずに俺に向かって突きを繰り出したのだ。鼻先に突きつけられた一文字。それまで、という師範代の声。
すべてが遠く、俺を置き去りにして行く。
先に仁谷が位置に戻った。俺もハッとして互いに礼を交わすと面を外した。仁谷の、手ぬぐいを被った愛嬌のある顔から汗が滴っている。俺も同じように汗を流しながら肩で息をしていた。
負けたのだ。俺は、こいつに――。
それを認めたくはなかった。けれど、逃れることのできない事実としてそこにある。皆の目が、それを物語る。
一番大切なものが目の前で音を立てて崩れた。目が眩む思いだった。引き結んだ唇から血の味がした。
ただ、その時、仁谷がふわりと笑みを見せたのだった。先ほどまで剣を向け合っていたとは思えぬような朗らかさであった。
「さすがに強い。最後の一撃などは肝が潰れそうでした。いや、本当に危なかった――」
勝ったくせに、敗者に情けをかける。いや、仁谷はそうしたつもりで口にしたのではないのだろう。その顔には慰めや情けからではない驚きが見えた。思ったままのことを素直に語る。
だからか。負けたというのに、不思議と心がそれを受け入れてしまうのは。
こうした人間には自分はまだまだ及ばぬのだと、僻むことなく敗北を認めることができる。
仁谷との出会いは、俺にとって大きなものであった。
そう感じたのは俺だけではなかった。気づけば、仁谷はこの練武館を席巻していた。身分などあってないような下級武士の子ながらに、目上の者にも一目置かれ、目下の者には慕われ、仁谷がいる場所はいつも陽だまりのようであった。武を競う場でありながらも、厳しい稽古を終えれば皆が笑い合う、そんな和やかな日々の中に、あれだけ強さを求めた俺が浸っている。
強さに対する執着が薄れたわけではない。仁谷に勝ちたいという思いはもちろんある。
けれど、強さばかりでなく、こうも人から慕われる仁谷を俺自身が認めていた。力や技だけでない、仁谷の強靭な精神があの強さに結びつくのだと。
俺を友と呼ぶ仁谷に、俺もやつの友であることを誇りに思うようになった。仁谷から学ぶことは多いのだから。
道場に通って学び、語り合うこと数年。互いに元服を済ませ、身なりだけは武士となった。
俺もそのうちに仕官することが決まっている。仁谷はというと、その評判が道場の外まで漏れ聞こえるようになったらしく、いくつか口利きがあったのではないかと小耳に挟んだ。
その真相を聞けぬまま、俺たちはいつものごとく帰り道の土手で話し込んだ。ここに長居するのは前髪を落としてから初めてのことで、月代に慣れぬ肌寒さを感じる。毎日まめに手入れする俺とは違い、仁谷はいつ剃ったのかも推し量れない。月代の伸びた立髪を気にする性質でもないようだ。
赤い夕暮れに勝虫が飛ぶ様を眺める。夏もいよいよ終わったのだと改めて感じた。夏の間に少し伸びた草がしなやかに風を受けている。
俺が川のせせらぎに耳を澄ませていると、通りかかった娘たちがきゃあきゃあとうるさかった。こちらを見ては顔を隠す。そんな様子を仁谷は笑って見送った。
「おや、清太郎は男ぶりがよいから、よく女子たちが振り返るなぁ」
などと言うけれど、それは違う。あの娘たちのうちの一人は明らかに仁谷に気がある。この男のことだから、どこぞで親切にしたくせに、いちいち覚えていないのだろう。老若男女問わず好まれる、そういう自分をわかっていないのだ。そういうところが仁谷らしいとも言えるのだが。
俺が呆れた顔をしたことにも気づかず、仁谷はその場で立ち上がって大きく伸びをした。出会った頃よりも頭ひとつ分伸びた背丈がよくわかる。
そうして仁谷は土手へ下りて行く。袴の裾に草をくっつけながら、まるで小童のようだ。そんなことを俺が思っていると、仁谷はそこからくるりと振り返った。
「なあ、清太郎」
夕焼けが、徐々に暗さを増して行く。鴉の間延びした声が耳に届いた。
「なんだ」
俺は座ったまま仁谷に問う。川辺から俺を見上げる仁谷の顔はどこか翳って見えた。
そうして仁谷は口を開くのを、ほんの少しためらった風だった。――それもそのはずだ。
「この泰平の世に、剣は果たして必要だろうか」
何を、と声が出なかった。唐突に何を言うのかと。
今は泰平の世と言えるかも知れない。けれど世の中は常に動いている。何時それが崩れ、戦が起こるか知れないのだ。その時に武士が剣を振るえなくてなんとするのか。
俺が呆然としてしまったことに気づきながらも、仁谷は言葉を繋いだ。
「二本差しの侍でさえ、このご時勢、刀は抜かぬもの。結局のところ、泰平の世を長く存続させるために必要なのは、武術ではなく学問なのではないのか」
そうして、仁谷は低く、それでいてよく通る声で諳んじた。
「王、商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃せて文を修む――。武器はいずれ収めて学問に精を出すことをせねばならぬのではないだろうかと、いつからか考えるようになった」
王来自商、至于豊。乃偃武修文。 ※
武器を必要とせぬ安寧が、この国の目指すべき姿だと。だとするなら、俺たちが剣の道に励んだ意味はなんとする。
あまりのことに戦慄く俺に、それでも仁谷の声は止まない。
「俺はこれから学問に力を入れて行きたいと思う。それこそが国のためになると考える。だから、道場へ通う日は今までよりも減ってしまうことになるけれど――」
すまない、と何故か仁谷は俺に謝った。
そのひと言が俺には赦せなかった。
俺が焦がれてやまぬ強さを持つお前が、それを手放してもよいと言う。容易く、世の移り変わりを受け入れてしまう。一度もお前に勝つことのできない俺が、こんなにも剣の道に固執しているというのに。
俺にはその思想が裏切りのように感じられた。
武士は強くあれと、そう教えられて生きて来たのではないのか。下級武士の子であろうとも、武士としての誇りがあるはずだ。それを――。
そんな俺の心を、きっと仁谷は見透かした。寂しそうな目を俺に向け、そうしてもう一度言った。
すまない、と――。
どす黒いものが腹の底から湧いた。静かに、それでも確かに、音を立てて。
仁谷は俺に自らの考えを告げてから、宣告通り道場へ通うことが少なくなった。あいつは友好関係が広い。この道場で意見を交わすうちに誰かの思想にかぶれたのだ。どうして、あれだけの腕を持ちながら剣の道に打ち込めぬのか。俺はそれを口惜しく思った。
それでも俺は剣術に励む。竹刀を振るう先に仁谷の顔がちらつく。その幻を幾度斬ったことだろうか。
以前の、仁谷の現れる前のように、誰もかもが進んで俺に近寄ろうとはしなかった。それほどに俺の稽古は鬼気迫るものであったのかも知れない。
そんな俺を、帰り際に先生が引き止められた。
いつも門下生の試合を見守る奥の床、その定位置に先生は座す。剣と武、二柱の神名が書かれた掛け軸を背に、先生は懐手を崩さずに俺に問われた。
「仁谷は学問にも力を入れたいと言う。お前はどうなのだ」
先生の目も声も、その心中を窺わせはしない。俺は闇の中を手探りで進むようにして、それでもその暗澹の中に差し込む一筋の光を信じた。所詮俺は、己の心に忠実にしか生きられぬのだ。
「某は、剣一筋に生きとうございます」
学問が不要なわけではない。ただ、それが剣術の稽古に勝るほど打ち込むべきだとは思わぬのだ。時折書を読むことはあれど、俺にとってはそれだけのことだ。
すると、先生は小さく息を漏らされた。
「剣一筋とはいかなることか。剣の道とは闇雲に進めば極地に辿り着けるものではない。人を知り、世を知り、天を知る。多くのことを学び、自らの精神を鍛えねばならぬのだ。己一人が稽古に打ち込み、小手先の技で満足するのならば、それは大海を知らぬ井の中の蛙でしかない」
道場にろくに顔も見せなくなったあいつを、それでも先生は認めておられるのか。あいつの選ぶ道を旅立ちと見送られるのか。
そして、剣術に生涯を捧げることすら厭わない俺を物知らずと、まるで小童に向けるような呆れた目を向ける。先生は再び細く長い息を吐き出された。
「仁谷のあれは天賦の才。趨勢を見極める目を持つ男だ。すなわち、その目を優れた使い手として持たねばならぬ」
俺はその器ではないと、そう、目が語る。
仁谷を一廉の人物と認め、大成する先を先生は今後の楽しみとされているのか。あいつに遠く及ばぬ俺が、羽ばたくあいつの絆しとならぬよう、先生は釘を刺されるのか。
友として、ただ見守れと。
帰り道、急に降り出した雨が縮羽織の肩を濡らす。瞬く間に畦道に水溜りができ、雨水を蹴っては袴に跳ねた。
けれど、この雨よりも心の中には暗雲が立ち込め、稲妻が轟いていた。
この世はこれからどう変わって行くのだろう。剣を捨て、武士が短筒を嬉しそうに振り回す、そんな時代がまず訪れるのか。そんなものは見たくもない。
仁谷の言う学問が、こんな俺に答えをくれるだろうか。答えは否だと俺自身が知っていた。
そんな世に、俺のようなやつは生きていけない。
愚かと思うか。先生のように、俺を莫迦だと見下げ果てるか。
いいや、お前は、俺を憐れむ。
そんな俺をお前は憐れむのだろう。
お前は強いから。絶対的な力を誇るから、高潔な心を持つから、所詮、俺の心などわかりもしないのだ。
その晩、八丁堀組屋敷の自らの部屋で、俺は元服の折から腰に佩くようになった二刀を眺めていた。そのうちの大刀を手に取り、鞘からその刀身を一尺ほど抜き出して眺める。行灯の灯りが刀身を妖しく照らし出す。
この時代、鎬が低く反りの大きな刀が好まれる。けれど、それは実戦のことを何も考えずに見目の美しさだけを選んだ愚かなこと。
俺の手に収まっている刀は重い、直刃の直刀だ。俺が自らこれを選んだ。
刀は飾りではない。これを振るうときを考えてのことだ。
そのまっすぐに伸びた刃に魅入っていると、刀の魂が俺の中に染みるようであった。美しい刃には蠱惑性がある。
刀は人を斬るためのもの。刀同士を合わせ、斬り合うために生まれた。俺もまた、刀を振るうために生まれたのではないのだろうか。
この手には、剣を握り続けた証として、親指から人差し指にとぐろを巻く蛇のごとく見える胼胝がある。時折、この蛇が俺の中を這い回り、俺の心を掻き乱すのかとも思う。それほどの衝動が俺の中にあるのだから。
仁谷はどうなのだ。出来物のおのれは蛇が這い回ることなどないと言うのか。刀に魅入られることもないと。
けれど俺は、仁谷が刀を抜き、殺意を込めて剣を振るう様を見たいと腹の底から願った。
初めて手合わせをした日の胸の高鳴りにこそ、俺は強く生を感じたのだ。
あれ以上のものは二度とないだろう。ならば、腐って行く世の中に未練はない。俺は武士として生きたいだけだ。
あいつの手でこの命を散らすのも、俺に相応しい最期なのかも知れない。
あいつは俺を斬ってくれるだろうか。
俺はその日から、あいつと斬り結ぶことだけを考えて剣を振るった。あまりに呆気ない最期は惨めだから、少しくらいはあいつを追い詰めてやりたい。その思いだけが今の俺を支えていた。
俺は冬になる前に、仁谷が同じ思想のやつらと塾で語り合うその帰り道に待ち伏せた。八丁堀の屋敷から玄関までの小砂利を踏み締め、冠木門を潜った時、二度とこの門を潜ることはないと覚悟した。
選んだ先は以前二人で語り合った川原の道だ。夕刻の赤い色は秋口ほどに鮮やかでもなく濁って見えた。それとも、俺の曇った目がそう見せるのだろうか。川面に目を向け、道に佇む俺に、待ち焦がれた仁谷の声がかかった。
「清太郎じゃないか」
偶さか友を見つけた喜びに弾む声。けれど、俺が振り返った瞬間に、仁谷はしっかりと俺の意図を酌み取ってくれたようだ。つぶらな眼をハッと見開き、駆け寄りかけた草履の足をずず、と後ろに引いた。
「清太郎――」
親しげに名を呼ぶも、間合いを計り損ねないのは本能だろうか。俺は思わずク、と嗤った。
「お前と剣を合わせたいのだ」
直刀の柄に手を添える。俺の手によく馴染む、ザラリとした手触りが好ましい。
仁谷はひどく悲しい目をした。何がそうさせるのか。
「お前は怒っているのか」
悲しげに、仁谷は俺にそんなことを言う。木枯らしが吹き荒び、朽葉が俺たちの間を突き抜ける。
俺は仁谷の言葉を咀嚼し、そうして首を振った。
「そうしたこともあったが、今は違う。ただ俺は、常に俺の前を歩くお前に追いつきたかった。最後に今一度手合わせを願う。ただし、竹刀などではなく、真剣で立ち合いたい」
「それでお前は救われるのか」
「そうだ。お前だけが俺を救える」
はっきりとそう告げた。己の心に正直に生きた末のことなら、悔いなどない。
「――わかった」
仁谷は短く答えた。仁谷が真剣を振るう様はどれほどのものか。俺はそれを目に焼きつけ、そうして死ねればこの世に未練などないと思うのだ。
急がねば日が暮れ、前も見えぬ闇に落ちる。
腰の太刀を抜く日が来るとは思わなかったのか、仁谷が鯉口を切る様はどこかぎこちなくさえ感じた。
写物のその刀に、俺は自らの直刀を向けた。睨み合って、けれど仁谷の中にあるのはためらいだ。俺の願いを感じつつも、仁谷はまだ諦めぬのか。
踏み込む。
キィン、と鉄のぶつかる音が夕暮れに響く。鉄の匂いが鼻先をかすめた。どくり、どくり、と胸が騒ぐ。
重い、痺れるような手ごたえに、憂さに沈んでいた心が水を得た魚のように跳ねる。鍔競り合う中、悲愴に顔を歪める仁谷と、悦びに溺れる俺と、何もかもが逆様だった。
そう悲しい顔をしなくとも、お前に斬られるのならば俺は満足なのだ。誰よりも俺が認めたお前だから、この腐った世への決別をお前の手を借りて逝きたい。
そのために、お前が本気で熱くなれるように、俺はお前が稽古に来なくなっても鍛錬を欠かさなかった。
さあ、お前の力はこんなものではないはずだ。慈悲があるというのなら、加減など要らぬ。
俺の刀を仁谷は弾いた。やはり、力が強い。押し戻される力の差を感じながら、俺は素早く斬り返す。
俺の技を、仁谷は受け止めた。刀で、ではない。脇腹に一撃が深く沈む。思いのほか柔らかな肉がずぶりと。刀の樋から血が伝う。
「何故だ――」
仁谷に問うた。けれど、返事はない。力を失った手から取り落とした刀の軽い音がした。まるで玩具のようだ。
止め処なく血を流す仁谷の腹から、それを支える俺も同じ色に染まる。夕闇が、その境目を曖昧にした。
「学問がお前を救ってなどくれぬではないか。鍛錬を怠るから、遥かに才の劣る俺にさえ遅れを取るのだ」
越えられぬ壁と思って来た。けれど、それを越えた先に広がるのは素晴らしい絶景などではなく、虚しい枯野だ。
心が抉られたように虚ろになる。
「それともお前は、友を斬るよりは死んだ方がましだとでもいうのか」
どちらにせよ。
どちらにせよ――。
「お前は惨い。いつだって、俺の望みを叶えてはくれぬ」
この腐った世を、俺に生きろと。
滑り落ちて行く仁谷の体から俺は手を離した。もはやそこにやつはいない。抜け殻は俺に恨み言のひとつも吐けぬのだ。
それでも俺は、剣の道を行く。
俺が武を偃せる刻は、この命が尽きる刻だ。
死だけが俺を解き放つ。けれど、それは今ではない。
お前は、斬るべきだったのだ――。
【完】
※中国古典『書経』周書・武成篇より
一部に実在した人物を使用しましたが、この物語はフィクションです。