お父さんはお見送りをするぞ:前編
『ねぇ…本当にこの世にあると思う?』
あの日、女はそう聞いてきたと思う。
睦言になんて興味はない。申し訳程度に上着を羽織りながらベッドに腰掛ける女を、男は身支度を整えながら一瞥する。
『…何が。』
面倒だとは思ったが相手は情報屋の女。もし美味しい情報なら聞いておいても損はない。
煙草を咥え、コートに腕を通しながら渋々そう問い返せば、女は実に妖艶な笑みを男に向けた。
『ちょっとね…予感がしたの。』
女は要領を得ない物言いを男に投げ掛ける。男は訝しげに眉を潜め、お腹に手を宛てる女の側に歩み寄り、思わずその額に手を置いてみた。
『熱でもあるのか…?』
この日の女は、いつもと雰囲気が違っていたと思う。
『そうだといいなと思って。』
『…だから何が。』
更に問いかける男に、女はまるで躱すように言葉を続けた。
『“無償の愛”って本当にあると思う?』
ハッと目を見開くと視界には見知った天井。礼二は現実を確認するかのように数回瞬きを繰り返した。
カーテンの隙間からは眩しい光が射し込んでいる。気怠い身体を起こし髪を掻き上げると、ようやく現実を実感して長い溜息を吐いた。
随分と懐かしい夢を見たと思う。
何でも知りたがる情報屋の女。あの日自分は“鉄面皮な貴方の下の顔が見てみたい”…なんて映画のような口説き文句にまんまと引っ掛かった。
その女はある日突然消息を絶ち、忘れた頃にふらりと戻って来た。その腕の中には赤ん坊…気付けばその赤ん坊を押し付けられ、更に気づけば子煩悩パパだ。
ふと時計の存在を思い出し、礼二は枕元に置いてある時計を掴んだ。
「…なんだ。まだ7時は…、んんん…!?」
思わず素っ頓狂な声を挙げながら目を見開き、前のめりになる。
時計の表示は7時30分。いつもなら6時前には起きて、6時30分には愛情たっぷりな朝ごはんを光に振舞っているはずなのに。
(早く何か作らないと…て、いやいや!それよりも早く光君を起こさないと…)
焦りながら礼二は布団を蹴り飛ばし、慌てて隣りの寝室を開け放つ。
「光君急いで起き…」
だがすでに寝室は藻抜けの空。拍子抜けし、思わず『あれ?』と口にする。
「何変な声出してんだよ。」
不意に階下から光の声がし、礼二は二階から一階を見下ろした。ランドセルを背負い、すでに身支度を済ませた光は不思議そうにこちらを見上げている。
「ご…ごめんね光君。朝ごはんは…」
「パン食べた。」
「よく一人で起きれたね…」
「毎朝しつこく起こす誰かさんが起こしに来ないから逆に目が覚めたんだよ。」
「起こしてくれれば…」
「いいって別に。夜中まで何か書いてたみたいだし、疲れてたんだろ。俺行って来るから寝直せよ。」
「はは…」
そのまま玄関まで移動し靴を履く光を追い、礼二も階段を降りると玄関まで見送りに行く。
「行ってらっしゃい。」
靴箱に寄りかかるようにして腕を組み、少し申し訳無さげに眉を下げて小さく手を振り見送ると、光も手を振って玄関の外へと駆け出した。
起こしても起こしてもなかなか起きなかったあの光が、まさか一人で起きる日が来るとは…。
光の寝起きの悪さにはいつも苦労しており、寝起きが良くなれば…なんて思っていた事もあったが、実際そうなると少し寂しかったりもする。
「…本当に子供の成長は早いな。」
なんて感慨深く呟いてみたり。
『“無償の愛”って本当にあると思う?』
不意にあの女の台詞を思い出した。知りたがりの女が赤ん坊を自分に押し付けたのは、面倒だったからなのか、それとも知りたい事があったからなのか。
だが少なくとも、あの女の問いには答えが出ていた。
「…あるに決まってるだろ?」
今日も自分はこんなにも光が愛しくて仕方ない。光のために尽くせと言われれば喜んで尽くすし、光のために死ねと言われれば、喜んでこの身を差し出す。
これが無償の愛でなくて何だというのか。
礼二は簡単に身支度を済ませるとサングラスを装着し、先程光が駆けていった先へと歩を進める。
「さて…今日も見送らないとな。」
世間一般的に“尾行”と呼ばれる行為だが、そんなの知った事ではない。礼二にとっての見送りは“学校の中に入るまで”だ。入学したばかりの頃は一緒に登校し、学校が終わるまで校門待機。下校は常に一緒に帰った。
『格好悪いからもう一緒に行かない』と言って友達と行くようになった時は、ショックのあまり一晩枕を濡らしたものである。
この頃から、余程の事がない限りは見送りと共に家に帰るようになった。
礼二もそれなりに進歩しているのだ。多分。




