6、月見酒
瑛はゆっくりと目を開いた。何度か瞬きをして、自分が寝台に寝ていることに気が付いた。
「!?」
がばりと起き上がる。あまりに勢いよく起き上がったので、そばに控えていた寧佳がびくっと震えた。
「お目覚めですか、瑛様」
びっくりした寧佳に代わり、彩凜が尋ねてきた。瑛は「ええ……」とうなずく。
「私、庭園にいたと思ったんだけど」
「ええ。桜の木の下で眠られてしまいましたので、陛下に運んでいただきました」
「おお……」
弟分とはいえ、皇帝に何をさせているのだ。しかも、皇帝に抱きかかえられた状態で庭園を突っ切ったのか。何その公開処刑。
ひとしきりもだえた後、瑛は彩凜に尋ねた。
「慧峻は?」
「慧峻様もお部屋にお運びさせていただきました。先ほど目覚められて、今お食事をとっております」
「……そうなの」
どうやら、寝坊したのは瑛だけらしい。時間があえば、慧峻や珀悠と一緒に食事をとるようにしている瑛だが、今日はダメそうだ。
「本日は、陛下が慧峻様とご一緒に食事をとられております」
「あららら……」
彩凜の報告に、瑛は自分のうかつさが情けなくなった。まさか、皇帝である珀悠に気を遣わせてしまうとは、妻失格である。
気を取り直して。さすがに今から乱入するのは無理なので(何しろ、身支度に時間がかかる)、瑛は一人で夕食を取ることにした。簡単に部屋着に着替え、髪も簡単に束ね、いつもより少なめの食事をとる。寝ていただけなのでそんなにおなかがすいていなかったのだ。
しかも、夕食後も眠くない。風呂に入り体と髪まで時間をかけて洗い、髪も乾かしてみたがやはり眠くない。もう本でも読んでいようか、と思ったところで、彩凜が来客を告げた。こんな非常識な時間にやってくるのは誰だ。
「こんばんは、文姫」
「瑛だって言ってるでしょう。ええ、こんばんは」
尋ねてきたのは珀悠だった。よく考えれば、妃嬪たちがこんな夜更けに皇后を訪れるなど非常識なことをするはずがないし、それができるのは子である慧峻か、それか、皇后の夫である皇帝だけだ。
「今日は部屋まで運んでもらったようで。どうもありがとう」
一応礼を言っておく。珀悠はいつものように少しのんびりした口調で「気にしなくていいよ」と言った。
「慧峻はどうだった?」
「うん。今日、君と乗馬の練習をした話を聞かせてくれたよ。それから散歩をして、花の名前を教えてもらったって聞いた。楽しかったみたいだよ」
「……そうなのね」
なんだかずれた返答をもらった。慧峻の様子を聞いたのに、慧峻から聞いた話をしてどうする。
まあ、珀悠の話を聞く限り、慧峻は元気そうなのでよしとしよう。
「それで、どうしたの? 夜伽しろとか言ったら怒るわよ」
一応添い寝まではしたことがあるが、それ以上はしたことがない。やろうとすれば瑛が怒るし、そもそも、珀悠に子供を作る気はないからだ。
なので、瑛の言葉は半分冗談だ。珀悠も笑って「違うよ」と首を左右に振った。
「ただ、ちょっと晩酌に付き合ってもらおうかと思って」
「……それ、私に対する挑戦状?」
「いや、そんなつもりはないけど」
駄目かな? と悲しげに言われれば、瑛は断れない。この確信犯め! 瑛は本当に珀悠に甘い。
今までの経験上、珀悠は酒豪のようだが瑛は普通だ。瑛の家系は父も母も姉二人も大酒のみであるのだが、瑛だけは何故か並みだ。何度か珀悠とも一緒に晩酌をしたことがあるが、瑛は珀悠につられて飲んでしまうので、必ず途中でつぶれてしまう。
なので、あまり晩酌はしたくなかったのだが、頼まれては仕方がない。月の見える窓辺に移動し、月見酒と行こうではないか。
「彩凜、寧佳、さがっていいぞ」
珀悠が最後までついていた二人に命じた。本来なら、寧佳は瑛の侍女であるので、珀悠に命令権はない。だが、相手は皇帝であるので瑛も特に反論はせずに軽くうなずいて見せた。彩凜と寧佳が深々と頭を下げる。
「では、何かございましたらお呼びください」
そう言い残し、二人は下がった。部屋には珀悠と瑛の二人きりになる。瑛は杯に酒を注ぎながら言った。
「気を遣わなくてもよかったのよ」
「何が?」
小首をかしげる珀悠に、瑛はため息をついた。
「私に。私が昼寝をしたから、夜寝られないんじゃないかって思って、来てくれたんでしょう」
珀悠は気配りのできる子だ。この辺り、同じ弟分でも琅明とは違うところだ。琅明は気が利かないのである。
実際に、昼寝をした瑛は寝られなくて困っていた。そこにやってきた珀悠。瑛を運んでくれたのは珀悠だと言う。彼は、彼女が夜眠れないかもしれないとわかったはずだ。
だから、酒でも飲もうとこの部屋を訪れたのだろう。
「それもあるけど、今なら瑛が晩酌に付き合ってくれると思ったから」
「あなた、そんなに私と酒を飲みたいわけ?」
「だって、俺が気軽に晩酌できる相手なんてそうそういないし……」
だから、そういうことを上目づかいで言うな。体の大きな珀悠であるが、こういう仕草が似合うので不思議だ。
「まあ、いいわ。でも一応、気遣ってくれて、ありがとう」
「じゃあ一応、どういたしまして」
珀悠が瑛と同じように軽い口調で返した。思わず、二人して笑ってしまう。彼が手を伸ばして杯を手に取った。
「待って」
一応、杯は銀で作られているが、毒見はすべきだろう。同じ酒器から注いだので大丈夫だとは思うが、瑛は珀悠の杯を取って少し中身を飲んだ。かっと体が熱くなる。震える手で何とか杯を返した。
「大丈夫だけど、強いわね、これ……」
「ああ、文姫には強いかもしれないね。っていうか、わざわざ毒見なんてしなくてもよかったのに」
「いいの。私が気になっただけだから」
おそらく、瑛はそれほど量を飲めないだろう。あまり大きな杯ではないが、一気に空けた珀悠が信じられない。水で薄めると言う手もあるが、そうすると味が落ちる。
再び珀悠の杯に酒を注ぐ。「飲み過ぎないでね」といいぞえるのも忘れない。
瑛は自分の杯を傾け、少しだけ中身を飲む。やはり、瑛には少し強すぎる気がした。
「そう言えば、今日、妃嬪たちの間でいさかいがあったって聞いたんだけど」
「ええ。っていうか、私、教育係のはずなのに、なんで妃嬪のいさかいの仲裁までしてるのかしら」
「それは、文姫が曲がりなりにも皇后だからでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
何となく釈然としない。皇太子の教育係として招集され、䔥宰相の要望で皇后になったはずなのに。
「どちらにしろ、文姫はよくやってるよ。慧峻の母親も、皇后業も」
「……珀悠もよくやってると思うわよ、皇帝業。父親業もね」
「そうだといいんだけどね」
そう言って、珀悠は控えめに笑った。彼は、相変わらず水のように酒をのどに流し込んでいた。
瑛は玻璃のはまった窓から月を見上げた。満月でも、きれいな三日月でも、半月ですらない微妙な形の月。それでも、とても美しい。
だいぶ、酒がまわってきたのだろう。しばらくして、瑛はこんなことを言った。
「珀悠……私を恨んでるんじゃない? 私があなたにいろんなことを教えたから、䔥宰相はあなたを皇帝にしようとした……」
実際には䔥宰相は初めから珀悠に皇帝教育を施すつもりで引き取っていた。だから、決して、珀悠が皇帝になったのは瑛のせいではない。だが、あまり酒に強くない彼女はすでに酔いかけていて、思考が鈍くなっていた。
手酌で酒を飲んでいた珀悠は、そんなことを言いだした瑛を見て苦笑した。
「俺が文姫を恨むわけないでしょ。君に教えられなくても、䔥宰相は俺に教育を施しただろう……そして、兄がダメだと思えば、きっと、切り捨てた」
瑛が珀悠を構っても構わなくても、結果は一緒だった。珀悠はそう言っているのだ。瑛は小さく笑みを浮かべた。
「優しいわね、あなた」
「文姫もね。俺の皇后になってくれた」
そう言った珀悠に、瑛は声を立てて笑った。その勢いのままグイッと杯を開ける。すかさず、珀悠が酒を注ぎたした。始めは瑛が酌をしていたのだが、手元が怪しくなってきたのでいつの間にか珀悠が酌をしていた。皇帝に何をさせているのだ、自分。
今度は少しだけ酒を飲み、瑛は気になっていたことを尋ねた。
「前から聞いてみたかったんだけど、どうして、あなたは皇帝になったの」
䔥宰相は珀悠を皇帝に祭り上げようとしたが、強制はしなかったはずだ。珀悠は権力に興味がある方ではないし、䔥宰相も、前皇帝の精神をたたき直す覚悟くらいはあったはずだ。つまり、珀悠が皇帝になってくれれば御の字、ならなくても何とかできたはずなのだ。
だが、先代よりも珀悠の方がいい皇帝であると、瑛も思うけど。これは身内の欲目なのだろうか。
「うーん。なんでだろう。よくわからない……でも、文姫が京師に居たら、文姫に相談してただろうなぁ」
「相談されても、きっと私は『自分で考えろ、馬鹿野郎』くらいは言ったわね」
「だろうねぇ。結構口悪いよね、文姫……」
「余計なお世話よ。それに、瑛だってば」
いつまでたっても、どれだけ訂正しても珀悠は瑛を幼名で呼ぶ。彼と初めて会ったとき、彼女はもう幼名で呼ばれる年齢ではなかった。それでも、『文姫でいいわよ』と言ったのは瑛だ。だから、自業自得なのかもしれない。
瑛はまた、少しだけ杯を傾ける。まぶたが重くなってきた。思考がまとまらない。
うつらうつらと船をこぎ始めた瑛の体が支えられる。もちろん珀悠だ。先ほどまでしっかりした口調で会話をしていたはずなのに、突然眠りそうな瑛に珀悠も驚いたようだ。
「文姫、眠い? 寝る?」
「寝る……」
しっかりとした腕にしがみつき、瑛はうなずいた。その腕は瑛の体を軽々と抱き上げた。いつの間に、こんなに大きくなっていたのだろう……。
自分がしっかりしなければ、と思っていた。母親を亡くした珀悠を、母親の代わりとはいかなくても、弟のようにかわいがろうと思っていた。でも、もうそんな必要はないのかもしれない。
「……あなたには……もう、私は必要ないのかもしれないわね……」
そう思うと少し悲しい気がした。その悲しい気分のまま、瑛は眠りに落ちた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この2人、絶対にベクトルが向かい合ってると思う。