31、衝撃的
「皇后様! どうしたんですか、ここ、寒いですよ!」
騒がしいのは玉蓮だ。のろのろと振り返った瑛を見て、玉蓮が驚きの表情になる。
「え、皇后様! どうなさったんですか!?」
そう言われて瑛はキョトンとする。顔に触れると、なるほど。瑛は涙を流していた。
「……どうしたのかしら」
「皇后様らしいですね……じゃなくて、冷えるとまずいですよ! ほら、中に入りましょ」
玉蓮が瑛の手を引く。玉蓮も瑛が妊娠していることを知っているようだ。
そこに、また誰かがやってきた。
「文姫、玉蓮、何してるの?」
珀悠だ。瑛は、近づいてきて側に膝をついた彼に、瑛はしがみついた。何故か玉蓮が「きゃっ」とうれしげな声をあげた。
「……どうしたの?」
玉蓮がうれしげな声をあげたからだろうか。珀悠は瑛の意味不明な行動にも落ち着いていた。どうしたの、と言いながら瑛をそっと抱きしめてくれる。その温かさにほっとするのを感じた。
「文姫?」
ただしがみついてくる瑛を不思議に思ったのだろう。珀悠が声をかけてくるが、瑛はただ彼に抱き着いているだけ。珀悠が息を吐く。
「とりあえず、中に入ろう。玉蓮もおいで」
「あ、はい」
我に返ったように玉蓮はうなずいた。珀悠は自分が着ていた上衣を瑛に着せると、そのまま彼女を抱き上げた。玉蓮が元から持っていた巻物などを抱え直し、「どうぞ」と先導した。
瑛はただただ珀悠にすがりついているだけだ。何となく、そうしていたい気分だった。
「女官長様、寧佳様」
玉蓮が部屋の中に声をかけた。中から「玉蓮!」と寧佳の声が聞こえた。
「あれ、彩凜は?」
「あら、陛下。ええ。彩凜様はちょっと今出かけています」
寧佳は珀悠と瑛を見て少し驚いた様子を見せたが、平静を装ってそう答えた。瑛は少しほっとする。
瑛は知らなかった。彩凜が、そこまで憎しみを抱いていたことを。気付いてやれなかった。瑛は何も知らなかった。それが腹立たしく、悔しい。
「文姫、立てる?」
「……うん」
うなずくと、珀悠はそっと瑛を床におろした。寧佳が駆け寄ってきて「大丈夫ですか?」と瑛に声をかけた。
「大丈夫。ごめん、ちょっと取り乱した」
「本当に驚きましたよ。まあ、彩凜様の事情も驚きでしたけど」
「え、なになに?」
瑛の肩を支えながら、珀悠が目を見開いている。寧佳は「それよりも」と二人を長椅子に座らせた。
「玉蓮。白湯をもらってきて」
「わかりました」
用を命じられ、玉蓮は一礼して出て行く。
ほどなくして玉蓮が白湯を持って戻ってきた。白湯と言っても、熱い、と言うよりぬるいものだ。妊娠している女性は、食欲がなくなることが多く、熱いものを食べられなくなる、という人も多いらしい。そのための配慮なのだろう。
「それで、彩凜がどうしたの?」
珀悠がやはり白湯を飲みながら尋ねた。彼は茶を飲んでもいいはずなのだが、瑛に付き合っているのか最近は白湯を飲んでいる。まあ、ちょっとうれしいことは否定しないけど。
珀悠に尋ねられ、瑛はざっくりと彩凜のことを説明した。個人情報を渡すのはどうかと思ったが、珀悠は皇帝なので、調べればすぐにわかるかもしれない。珀悠よりもむしろ玉蓮の反応の方が気になる。蒼ざめて涙目だ。うん。あとで、他言しないように言いつけておかなければ。
「あ~、うん。調べれば記録は出てくると思うけど」
「私も、過去の妃嬪たちについては調べていないのよね。一応、先帝の時代から残っている女官の記録には目を通してるんだけど」
と言っても、珀悠が登極したときに、当時の後宮の妃嬪や女官に暇を出したので、ほとんどの女官たちは解雇されている。彩凜は後宮に残った数少ない女官の一人なのだ。
もちろん、妃嬪たちの中には後宮から出て行くのを嫌がった者もいるが、それは䔥宰相たちが無理やり出家させたらしい。まあ、珀悠が皇帝になった後も、先帝の妻たちが残る、と言うのは不可能だろう。燕旺国では、兄嫁との結婚も近親婚に相当するからだ。
「でもつまり、それは彩凜についても調べたってこと?」
「もちろんよ。彼女が女官長になったのはあなたが登極した後だけど、どんな人かは調べるわよ」
むしろ、珀悠は調べなかったのだろうか。まあ、彼は瑛が後宮に入るまでは干渉してきていなかったようだから、仕方がないのか?
女官長は皇后の側近くに仕えることになる。気になるのは当然だろう。だから、瑛は女官たちの経歴をそらんじられるくらいには調べている。彩凜の最低限の情報もつかんでいた。
だから、彼女の姉が先代帝の妃嬪として後宮にいたことも知っていた。
彩凜の姉が処刑されたことも知っていた。反逆罪なので彩凜が連座で罰を受ける可能性もあったようだが、彼女の姉が身ごもっていた時の話なので、彩凜は反逆罪には問われていなかったようだ。
だが、後宮には居づらかったことだろう。それでも彩凜が後宮に居続けたのは、いつか復讐を果たすためだろうか。
瑛はふう、息を吐いた。
「まあ、考えても仕方がないんだけど。過去のことは過去のことで、考えても仕方がないし」
「あー、うん。文姫はそんな感じだよね」
珀悠が苦笑してうなずいた。瑛は性格があっさりしていると言うか、いまいち情緒にかけている。でも、と瑛は続ける。
「私は、何も知らなかったなぁと思って」
「それで、思わず飛び出しちゃったわけ」
「うん」
こくりとうなずき、瑛は白湯をすすった。珀悠は何故か「かわいいねぇ」と微笑んだ。瑛はその言葉を無視した。代わりのようにあくびをする。
「あ、今日も眠い?」
「今日もと言うか、毎日眠くてたまらないわよ。何とかならないかしら」
「うーん。妊婦さんは大変だねぇ」
「私はまだましな方らしいけどね」
ひどい人は本当にひどいらしいから。
瑛には、自分の体調もだが、他にも考えることがある。まずは先帝派をどうやって納得させるか、だ。
瑛は卓子に頬杖をついた。
「戦略的にいってみようかなぁ」
「え、何の話?」
首をかしげた珀悠に、瑛は「こっちの話」とはぐらかすように言った。
△
後宮内にありながら、瑛が今後の対応について考えているところに、慧峻がやってきた。今日のお勉強の時間だ。瑛は微笑んで慧峻を手招きする。
「どうしたの? いらっしゃい」
だが、慧峻は部屋に入ってこようとはしない。瑛は寧佳、彩凜と顔を見合わせた。ちなみに、彩凜とは話し合ってお互いに納得ずくである。
それはともかく慧峻である。いつもなら元気に「母上!」と呼んでくれるのに、今日はなんだか暗い表情だ。
「慧峻?」
「母上……」
慧峻が部屋の中に入ってきた。微笑む瑛だが、彼は彼女から離れたところで立ち止まった。
「慧峻、どうしたの? 嫌なことでもあった?」
尋ねるが、慧峻は首を左右に振るばかり。瑛は首をかしげた。そこで、慧峻は口を開く。
「母上……僕は、母上の子供ではないのですか?」
幸いと言うか、ここにいる瑛を含めた三人の女性は、感情が表に出ない三人だった。瑛は元から、彩凜と寧佳はそれぞれ訓練されている。だから、慧峻に動揺がばれることはなかったが、瑛は確かにうろたえた。だが、顔は微笑んだままだ。
「どうしてそんなことを言うの? あなたは私の息子だわ」
「……でも、女官たちが……」
何でも、瑛が初めて子を産むので心配だと。瑛の心配をしてくれているのだが、聡い慧峻はその言葉で自分が瑛の子ではないと気付いたらしい。
なんかめんどくさいことになった!
「母上が母上でないとしたら、父上も父上ではないのですか……?」
これはなんと返答すればよいのか。ここは珀悠と要相談したいところだが、現在、珀悠は会議中である。
瑛は笑みをひっこめ、真剣な表情で言った。慧峻は真剣なのだ。だから、こちらも真剣に対応するべきだろう。
「慧峻。女官たちがなんと言っていても、あなたは父上と母上の子よ。父上も同じことを言うに決まってるから、聞いてみなさい」
「母上……」
慧峻は泣きそうに目を潤ませている。瑛は自分から近寄ると、膝をつき、慧峻をそっと抱きしめた。
「母上……僕は、母上と父上のことが大好きです」
「私も慧峻が大好きよ」
軽く背中をたたいてやると、慧峻が嗚咽を漏らした。涙声でしゃっくりをしながらも、慧峻は訴えてくる。
「でも、僕が、本当に父上と母上の子じゃないんなら……」
「そんな事、あるわけないわ」
「僕は、ここにいていいんだろうかって、思うんです」
ぎゅっと、瑛は慧峻を抱きしめる腕に力を込めた。血のつながりなど、関係ない。瑛も珀悠も慧峻を実子と思って可愛がっているし、慧峻も二人を親と慕ってくれた。だから、それでいいのだと思っていた。
血のつながりなど、何の意味もなさないことを瑛も珀悠もわかっていた。実際、珀悠は慧峻の実父である異母兄を死に追いやっている。そこに血のつながりによる愛情などありはなしなかった。
血がつながっていても敵になる。血がつながっていなくても家族になれる。それを、瑛も珀悠もわかっていた。
だが、幼い慧峻には違った。彼にとって、血のつながりは重要なものだったのだろう。そして、瑛たちを慕ってくれているからこそ、血のつながりがないことを悩むのだ。
「慧峻。慧峻がいてくれないと、母上はさみしいわ」
「……僕も、母上とは離れたくありません……」
慧峻も瑛に抱き着いてきた。だが、瑛は、まだ慧峻が納得していないことを感じていた。
放っておくこともできる。だが、そんな薄情なことはできない。こういうところが、瑛の甘いところなのかもしれない。
慧峻はまだ六歳になったばかりで、大人の保護が必要だ。できれば、親の。
私は、慧峻の本当の親になれるだろうか。
瑛は今更、そう思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
なんだかんだであと3話……。




