30、蘇彩凜
今回、結構あけすけな会話をしております。苦手な方は回避してください。
珀悠に怒っていないのは事実だ。今回のことは、確かに自分の危機管理能力の甘さが招いたことであると彼女は認識していた。
だが、それでも動揺しなかったかと言われると、動揺した、としか言いようがない。
瑛が動揺するようなことが起こると、必ずやってくるものがいる。長姉の漣である。今回は次姉の晶と、母の紅蘭も一緒で、夏侯家女性陣が勢ぞろいしていた。
まず、三人が瑛を見て言った言葉は「おめでとう」だった。彼女はどう反応していいかわからず、軽くうなずいただけだった。
「あら、うれしくないの?」
そう尋ねたのは晶だ。絶世の美女である彼女は、現在、夫と共に京師に戻ってきている。通常、州刺史は年明けの祝賀に参加して、皇帝にその州の様子を報告するものなのだ。
「うれしくないわけではないけど、情勢を考えると微妙」
瑛がそう答えると、「なんともあなたらしい答えね」と晶は苦笑した。
「まあ、そんなに悩むことはないだろ? 君や陛下なら、簡単にこの状況を打破できるはずだ」
「何その無駄な信頼は」
瑛が眉をひそめて漣に言葉を返す。信頼してくれるのはうれしいが、信頼過多は重荷になる。まあ、できないか、と言われればできると思うが。
「津も権力が欲しい! っていう感じじゃないから、ちょうどいいかもしれないわ」
紅蘭もうなずく。確かに、瑛の才覚は父親似なので、父の津が権力を欲すれば、とっくの昔に一大派閥を作っているだろう。ただ、父は研究者気質で権力に興味がないからこういう事態になっているのだけど。
親族である津の権力への興味のなさが、瑛が立后することになった理由の一つにあげられるのだから。
「とにかく、あなたは自分の身を大事にすることね。暗殺や毒だけじゃないわよ。少し体調を崩したり、衝撃を受けるだけで子供が流れちゃったりするんだから」
「……わかっています」
母の指摘に瑛はうなずく。初めての妊娠になるが、瑛にもそう言った知識がないわけではない。
いくら腹の子であると言っても、皇帝の子を殺せばそれは反逆罪になる。珀悠の子を身ごもった以上、瑛は子を産むしかない。瑛とて命は惜しい。
「まあ、大丈夫よ。あなたは運が強いから」
晶がため息をついた瑛に言った。彼女が言うのなら、確かに瑛は運が強いのだろう。……たぶん。
瑛は一度目を閉じた。すると、唐突に襲ってくる眠気。眼を開きつつ瑛はあくびをかみ殺した。
「おや。眠いかい?」
「ほかに悪阻は? 気持ち悪いとか、体調が悪いとか」
漣と紅蘭に続けざまに尋ねられる。
「悪阻は、ほとんどないと思います。ただ、ひたすら眠くて……」
駄目だ。手の甲に爪を立ててみるが、眠い。眼が開かなくなってきた。この唐突に襲う眠気はどうにかならないのだろうか。
「あら。うらやましいわね」
晶が本当にうらやましそうに言った。彼女は悪阻がひどかったのだろうか。一瞬そう思ったが、やはりそんなことを考えている場合ではなく、一瞬意識のとんだ瑛はかくっと首が前に倒れた。控えていた寧佳と彩凜があわてて瑛の体を支えた。
「瑛様。大丈夫ですか?」
「申し訳ありません。紅蘭様、漣様、晶様。本日はお引き取り願えますでしょうか」
彩凜に直接的に促されたが、三人は怒らなかった。紅蘭がまず立ち上がる。
「そうね。瑛をよろしくお願いします」
「もちろんでございます」
彩凜は力強くうなずき、紅蘭たちを見送りに行った。瑛は寧佳に支えられて立ち上がる。
「瑛様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃ……ない……」
若干足元をふらつかせながら瑛は何とか寝台にたどり着いた。そのまま靴を脱ぎ棄てて寝台に横になる。眼を閉じると、すぐに彼女は眠りについた。
△
瑛は一日のほとんどを眠って過ごすようになった。午前中は基本的に慧峻の勉強を見る、と言う点は変わらないが、その勉強時間すら耐え切れないときがある。慧峻に「大丈夫ですか?」と心配そうにされる日々だ。
その日の瑛は起きていたが、本を読む気にもなれず、長椅子に腰かけてぼんやりと窓の外を見ていた。玻璃がはめ込まれた窓から、雪が降っている様子が見える。今年は暖冬のため、降雪はあっても積雪はほとんどない。
「……一つ、気になることがある」
ひらひらと降る雪を見ながら、瑛は言った。部屋の整理をしていた彩凜と寧佳が手を止めた。
「どうかなさいました?」
彩凜が尋ねる。瑛はゆっくりと彩凜の方に目を向けた。
「一応、私はちゃんと避妊薬を飲んでいたね」
「……」
いきなりの言葉に、寧佳が何とも言えない表情になった。一方の彩凜は、さすがに後宮勤めが長いためか「そうですね」とあっさりした調子で言った。
「……なら、どうして私は身ごもったのだろうか?」
じっと彩凜を見つめながら、瑛は低い声で言う。彼女は一つあくびをかみ殺した。
彩凜が目を細めた。
「何をおっしゃりたいんですか?」
瑛は一拍間を置くと、小首を傾げて言った。
「彩凜。あなた、私に中和薬を飲ませたでしょう」
驚きに手を止めたのは寧佳だ。彩凜は目を細めたまま瑛を見つめて言った。
「……だとしたら、どうなさるのですか」
「彩凜様!」
咎めるように、寧佳が声を上げる。瑛はそれを手をあげて制し、軽く首を左右に振った。
「もう過ぎたことだから、どうもしないわ。ただ、あなたのやったことは、下手をすれば不敬罪だってことはわかってる?」
「覚悟の上です」
彩凜はきっぱりと言った。だが、一年瑛に仕えてきて、彩凜は知っていたはずだ。瑛が、こういうことで女官を咎めたりしないと。だから、確信犯なのだ。彼女は。
瑛はため息をついた。
「あなたのような優れた女官が、どうしてそんなことをしたの」
瑛の何気ない問いに、彩凜は意外にも答えてくれた。
「……瑛様は、わたくしの姉が先代帝の妃嬪であったことはご存知ですか?」
「ええ、まあ。大体の記録には目を通したからね」
彩凜は確か、姉が後宮に入るのと時を同じくして、女官になったはずだった。侍女として後宮に入る手もあっただろうが、後宮で自由に動きやすい女官を選んだようだ。
「姉は美人でした。まあ、晶様ほどではありませんが」
「……」
絶世の美女と言われる晶と張り合えるほどなら、相当の美女である。
「後宮に入ってすぐ先代帝の目に留まった姉は、そのまま身ごもりました」
「……」
何となく、話が見えてきたような気がするのは気のせいだろうか。瑛は思わず身を引いた。
「それが、他の妃嬪たちの嫉妬を買ったのでしょうね。姉はひどいいじめを受けました。極度の緊張と恐怖で、姉は流産し、皇帝の子を流したと言うことで反逆罪に問われました」
何度も言うが、たとえ腹の子であろうと、皇帝の子供を殺せば反逆罪だ。母は、腹の中の子を生かさなければならない。
「ほかの妃嬪が裏から手をまわしたのでしょうね。姉は裁かれることなく死罪となりました。わたくしは納得がいかず、先代帝に陳情いたしました」
瑛は思わず自分の二の腕を強くつかんだ。自分の体が、恐怖で小刻みに震えているのがわかる。この後、先代帝が何をしたのかわかるようだ。
「先代帝は、姉のことを覚えていませんでした。腹の子が流れたと知っても、何も思わないようでした。そして、不遜にも女官の分際で皇帝に直接陳情したと言うことで、わたくしはひどい罰を受けました」
彩凜が衣装の袖をまくりあげる。そこには、ひきつれたようなみみずばれがあった。おそらく、鞭でたたかれたのだろう。それに、おそらく傷跡は、ここだけではない。
「姉は、わたくしの目の前で処刑されました。首を落とされた姉と、泣き叫ぶわたくしを見て、妃嬪たちは笑うのです。愚かにも陛下の気を引こうとしたからだと」
「……」
瑛は知らずに腰を浮かせていた。そんなにも、かつての後宮はひどいありさまだったのか。
「珀悠様が登極なさるまで、後宮は地獄でした。あの方を恨むつもりはありませんが、もう少し早く決断してくだされば、とは思います」
いつも気が利き、多少辛辣ながらも的確な指摘をくれる彩凜が、今は別人のように見えた。そう。まるで、憎んでいるようだ。……だれを?
「ですが、あの方は皇帝として優秀な方です。あの男とは違う」
あの男、とは、珀悠の異母兄、先代帝のことを指すのだろう。
「慧峻様は素直に育っていると思います。珀悠様と瑛様に育てられているおかげでしょう。しかし……」
彩凜が瑛をまっすぐに見た。見つめられた瑛は、腰が引けている。
「あの男の血を引く慧峻様が皇帝になるくらいなら、多少この国が混乱しようとも、瑛様、あなたに世継ぎを産んでいただきたかった……」
瑛は。瑛には、わからない感覚だった。彼女は、国が危うくなれば、愛するウ家族だろうと、慧峻だろうと、それどころか唯一の存在だと思っている珀悠ですら切り捨てるだろう。大義のためだと言って、いくらでも残酷になれる自覚があった。
だからわからない。姉を殺され、自分が辱められたという憎しみだけでここまでのことができる彩凜が理解できない。国を混乱に陥れるかもしれないとわかっていながら、こんなことができる彼女がわからない。
瑛はふらりと立ち上がった。そのまま居室を出て行くが、彩凜も寧佳も止めなかった。
廊下は寒かった。そのままふらふらと歩いて行く。
やがて、後宮と離宮をつないでいる外回廊に出た。瑛は外回廊の手すりをつかむ。
まだ、瑛はこの後宮と言う場所を理解していないのだろう。寒さのせいで震える肩をつかんだ。瑛は、寒さで震えていると思った。
そのままその場に座り込んだ時、背後から声がかかった。
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