3、汪慧峻
本日最後の投稿です。
基本的に、瑛は慧峻への皇太子教育を午前中に行っている。まだ五歳である彼はまだ集中力に乏しく、長時間勉強することができないのだ。三歳で基本的な読み書き計算ができた瑛は当初驚いたが、今はそういうものなのだと理解している。
皇太子教育と言っても、遊ぶような感じで慧峻に教えている。瑛はおそらく、教え上手なのだ。
「今日はここまでにしておきましょうか。もうすぐ昼餉だしね」
まずは文字を読めるようにならなければ話にならないので、瑛は慧峻に文字や文法を教えている。こんなことは誰にでもできると思うのだが、母親から習うのがいい、というのもあるのかもしれない。
「お昼を食べたら、一緒に遊びましょうか」
「はい!」
慧峻が元気にうなずく。瑛も暇なのだ。後宮という場所は閉塞的で、皇后という立場にある瑛は自由に行動できない。慧峻と遊んでいるのが一番体を動かせる。
「久しぶりに乗馬がしたいわね」
何気なくこぼすと、くすくすと笑う女性の声が聞こえた。
「皇后様になっても、瑛様は変わりませんね」
そう言ったのは、瑛が唯一実家から連れてきた侍女、寧佳だ。瑛よりも五つほど年下だが、しっかりした娘で、瑛は気にいっている。何度か「結婚しないのか」と聞いたことがあるが、そのたびにはぐらかされている。十九歳である寧佳は、瑛ほどではないがかなりの嫁き遅れである。
昼餉の用意ができるまでの間、慧峻と遊んでいた瑛は寧佳の方を振り返って言った。
「人間、そう簡単に変わらないわ。皇帝になった珀悠だって変わらないでしょ」
瑛も変人のままだし、珀悠も甘えたのままだ。いや、これは甘やかした瑛が悪いのだが。
しかし、寧佳は何とも言えない表情で「ええ……まあ……」と相槌を打っている。瑛は慧峻と遊ぶのをやめ、寧佳をじっと見た。
「寧佳。どうかした? 体調でも悪いの?」
「いえ……意外と、瑛姫様は鈍いなーと思って」
久しぶりに瑛姫と呼ばれた瑛は顔をしかめた。実家では瑛姫と呼ばれていた。姉たちも、名のあとに姫、とつけて呼ばれていた。
「言うこと欠いて鈍いというかね、この私に」
「いえ。鈍いですよ。変わりましたよ、珀悠様。変わってないのは瑛様だけです」
「ええ~?」
不満げに瑛は声をあげたが、寧佳はいわば、第三者視点で物事を見ているので、彼女が言うことの方が正しいのかもしれない。当事者だと、見えないものが見えるのが第三者なのだ。
「瑛様、慧峻様。昼餉の用意ができました」
「はーい」
昼餉の用意をしていた女官長に呼ばれ、瑛は返事をして慧峻の手を引き、卓子についた。慧峻を椅子に座らせ、匙をもたせる。五歳である慧峻は、まだうまく箸を使えない。使う練習をしてはいるのだが、うまくはない。細かいものをつかむには不向きなので、こうして匙をもたせるのだ。箸でも取りやすい小龍包などは箸でとらせてるけど。
「うん。今日もおいしいわね」
「おいしい」
瑛の言葉に同意するように慧峻も言った。かわいい。養母である瑛を実母の如く慕ってくれる慧峻に、瑛は甘い。これが彼女の欠点だろう。自分をしたってくれる者には、ひたすら甘いのだ。
食事を終え(ちなみに、瑛は大食漢である)、瑛は女官長の彩凜に尋ねた。
「ねえ。馬に乗ってもいいかな」
「は?」
この場合、彩凜の反応が正しいのだろう。どこの世界に、馬に乗りたがる皇后がいるのか。いや、ここにいるが。
彩凜は二十代後半と見える美しい女性だ。ちょうど、瑛の二番目の姉が彼女と同じくらいの年齢だ。
つややかな黒髪に意志の強そうな目。白く滑らかな肌に、女性らしい体つき。一見、後宮の妃でも不思議がないほど整った容姿の彩凜であるが、彼女は未婚で女官長である。ついでに、瑛にとってはとても頼りになる女性でもあった。
「失礼ですが瑛様。正気ですか?」
「うん。正気。大丈夫よ。落馬なんかしないから」
何しろ瑛は鞍なしで馬に乗れる馬術の名手だ。ついでに、珀悠に乗馬を教えたのは瑛だったりする。その感覚で、慧峻に乗馬を教えるのもいいかもしれない。
「大丈夫だって。従軍したこともあるし、八か月前には国境から京師まで七日で駆け抜けたこともあるし」
「……ええ。お聞きしました。あえて言います、瑛様。正気ですか?」
「だから正気だって……」
彩凜に何度も正気か確認される瑛だ。それだけ、瑛が変人であるということだ。どこに従軍し、国境から七日で京師まで駆け戻ってくる皇后がいるのだ。……だから、ここにいるのである。
「……まあ、いいでしょう。確かに、後宮は息がしづらいですから」
女官長にそこまで言わせるって、後宮は恐ろしいところだ。とりあえず、走らせるな、とは言われたが、乗馬の許可をもらった瑛である。
後宮の庭に連れてこられたのはおとなしい小さな馬だった。ずっと体が大きく気性の荒い軍馬に乗っていた瑛には少々物足りなかったが、慧峻を乗せるつもりならこれくらいおとなしい方がいいかもしれない。
燕旺国では、女性が乗馬するとき馬にまたがる。長い裳裾が足を隠してくれるが、乗りにくい。そのため、瑛はずっと馬に乗るとき男性の服を着ることが多かった。女性服だと乗馬していても少し勝手が違う。
しかも、皇后として恥ずかしくない高価な衣装を身につけているため、裳裾がやたらとひらひらしている。まあいいけど。
「楽しいですね、母上!」
「そうねー」
自分の前に乗せた慧峻の言葉に、瑛はうなずいた。少し物足りない気はするが、半年間それなりにおとなしくしていたのでやはり楽しい。そのうち遠駆けにいきたいな。
「僕も練習すれば乗れるようになりますか?」
馬に興味をもったらしい慧峻が言う。瑛としては、馬好きが増えるのはうれしかった。そのうち、息子と乗馬できたら楽しいかもしれない。まあ、その頃まで瑛が皇后でいられれば、だけど。
「もちろんよ。どうせなら、私が教えるわ」
瑛は慧峻の教育係だ。馬術も皇太子教育の中に入っているから、瑛が教えても問題ないだろう。職務内だ。
「本当ですか? 母上、大好きです」
「私も好きよ、慧峻」
後ろから慧峻の頭をなでてやる。そこに女官が一人かけてきた。
「皇后様ー!」
「これ、玉蓮!」
少女女官の後ろを女官長の彩凜がゆったりした動きでついてくる。はっとした少女女官は打って変わってゆっくりと近づいてきた。
「皇后様、大変です!」
「何が大変なの。理由をいいなさい」
馬上から瑛が問いかけると、若い女官の玉蓮は早口で言った。
「大変なんです! お妃さまたちが!」
「だからわけを言いなさいってば」
要領を得ない玉蓮の説明に、瑛がツッコミを入れる。瑛がツッコミを入れるのはめずらしい。基本的に、瑛は無茶をしてつっこまれることが多い人間だ。
とりあえず、瑛は馬から降りた。手を伸ばして慧峻を馬から降ろす。以前、彼女は慧峻を抱き上げられなかったか、馬から降ろすくらいはできる。支えれば、自分で降りてくれるからだ。
「瑛様。少々問題が起こりました。いわゆる勢力争いですね」
「あー……」
彩凜の言葉に納得した瑛は腕を組んだ。この後宮にも、勢力というものが存在する。
珀悠の後宮に、妃は少ない。一応、慣例通りに皇后を頂点に、四夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の制度が取られている。しかし、現在はそれだけの人数が集まっておらず、後宮は閑散としている。それでも、十名の妃が存在する(瑛含む)。性格には、後宮にいる女官を含むすべての女が皇帝のものになるらしいが、それは太古の話で、現在ではあまり当てはまらない。
妃嬪として位を与えられるほどの身分ならば、上流階級の出身だ。つまり、妃嬪たちは自尊心が高い。出身の家の関係もあり、勢力争いのようなものが起こるのは必然だった。
そもそも、この後宮の女は、䔥宰相が適当に集めた女性だ。それなりの身分の若い女性を集めたらしい。珀悠の意志で集めたわけではない。そのため、皇后以下、いくつかの階級に分かれている妃嬪にも空席が目立つのだ。
珀悠は自分が中継ぎの皇帝であると認識している。そのため、本人は後十年もすれば隠居するつもりだ。しかし、本人がそう思っているだけで、そうならないかもしれない。
それに、隠居したとしても元皇帝ならば、それなりの地位を約束される。女たちは少しでも条件のいい男の妻に収まろうとする。
隠居したとなればそう多くの妃を連れて行けない。悠々自適な生活をしたければ、連れて行ってもらえるような妃になるしかない。
つまり、珀悠の寵愛を受ければいい。
珀悠が皇帝であり続けるなら、国母になれるかもしれない。隠居したとしても、悠々自適な生活が待っている。
そのために、女性たちは必死なのだ。珀悠が今のところ、誰にも興味を抱いていないので、後宮の女たちは互いの足の引っ張り合いをしているというわけだ。女が集まれば醜い争いが起こるのは必至らしい。
ちなみに、瑛はその中でも別格と考えられている。特に意味があるわけではなく、瑛が妃にしては平凡な顔立ちで、平凡な体つきで、皇太子の教育係であると認識されているからだ。しかも、珀悠より年上であるため、女たちには自分の敵である、と認識されていない節がある。別にいいけど。楽だし。
問題を理解した瑛だが、面倒くさそうに言ってのけた。
「それは、私の職分ではないわ」
「何をおっしゃっているのですか、瑛様」
呆れたように彩凜がため息をつく。いやだって、面倒くさいじゃないか。
「瑛様。あなたは皇后陛下です。誰がなんと言おうと、立后したのですから、役目を果たしてください」
「……面倒くさいなぁ、もう」
これは彩凜の方が正しい。いくら彼女が教育係として招集されたのだとしても、皇后である以上、瑛には責任がある。わかっている。だから、瑛は馬を寧佳に預け、慧峻は玉蓮に預けた。そして、自分は彩凜と共に妃嬪たちが争っているという場所に向かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
なんかきりが悪いですが、今日はここまでです。