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26、発熱













「瑛様」

「瑛お姐様!」


 よからぬ声に名を呼ばれ、瑛はそちらを向いた。声から連想した通りの二人がいた。


「散歩ですか? 久しぶりですねぇ」

「お召し物、とてもよくお似合いです」


 二人は勝手にそれぞれ好きなことを言っている。話を合わせると言うことができないのだろうか。

 二人とは、もちろん高宝林・琅明と徐美人・月香である。この二人、とても仲が良いようで、よく一緒にいるところを目撃する。


「瑛様、陛下と仲直りできました?」

「……別に喧嘩したわけじゃないわよ」

「でも、明らかに避けていらっしゃいますよね」

「……」


 琅明に指摘されるだけでなく、月香にも冷やかされ、瑛は沈黙する。少し外に出るだけで、最近はこんな感じだ。瑛に好意的な分、この二人はまだましだ。

 ほかの妃嬪の中にはあからさまに瑛に恨みのこもった視線を投げかけてくる。嫌味を言われるのは今更であるが、あからさまに食事に毒を仕込まれた時はさすがにどうしようかと思った。

 まあ、それでも堪えないのが瑛の持ち味ではあるが、不快には思うのである。


 それはともかくだ。


「……やっぱり、かわいそうだと思う?」

「何がですか?」

「珀悠が」

「……」


 瑛のどこか間の抜けた問いに、琅明と月香は顔を見合わせた。そして、月香はくすくすと笑う。


「わたくしたちに聞いてどうするのですか?」

「……それもそうね」


 瑛はため息をついた。漣にも言われたが、もう答えは出ているのだ。


「母上」

「慧峻。どうしたの?」


 最近、慧峻の世話係と化している玉蓮を連れて、慧峻が瑛の元へやってきた。彼は琅明と月香に気付くと、頭を下げた。


「こんにちは、徐美人、高宝林」

「こんにちは、慧峻様」

「ごきげんよう」


 琅明と月香が微笑む。慧峻は立派にあいさつをしたが、すぐに瑛の手を引く。


「母上。『緑帝りょくてい』を弾けるようになったんです。聞いてください!」

「あら。すごいじゃない。次は何がいいかしらね」


 『緑帝』は数ある琵琶の曲の一つだ。難易度は低いが、五歳の子供が引くには少々難しいだろう。だが、慧峻はもともと才能があったのか、瑛の言うことをよく聞いて弾けるようになった。


「すごいですね、慧峻様」

「慧峻様、お母様のことが大好きなのですね」


 だから、そこ、話を合わせる気はないのか。琅明と月香で違うところに目を付けた発言に、瑛は心の中でツッコミを入れた。


「徐美人、高宝林。私はこれで失礼するわね」

「はい」

「慧峻様、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」


 慧峻はにこっとして月香と琅明に手を振った。二人がでれっとなる。うちの子、ホントに可愛い。瑛もだんだん親ばかになりつつある。


「皇后様。本当に慧峻様はお上手なんですよ」

「それは楽しみね」


 玉蓮もうきうきしながら言った。彼女はもともと、彩凜の元で見習いをしていたのだが、たびたび瑛と珀悠の逢瀬を目撃して赤面してしまうので、正式に慧峻の女官に異動となった、らしい。この辺りは彩凜が管理しているので、実はよくわかっていない。

 瑛が慧峻に琵琶を教えたのは、彼が教えてほしいと言ってきたからだ。興味を持つことは何でもやらせるべきだと言う教育方針の元、瑛は慧峻に琵琶を教えた。

 慧峻の『緑帝』は、多少おぼつかないものの、確かに上手だった。この子、天才かもしれない、とひそかに思う。


「じゃあ、次は何がいいかしら」

「私は悲恋花ひれんかがいいです」

「あなたには聴いてないわ」


 当初からそう言う面はあったが、玉蓮はだんだん失礼になりつつある。と言うか、瑛の周囲にいる女官や侍女は、だんだんと無礼になる傾向があるのだ。

 次の練習曲を決め、実際に演奏して見せた直後、瑛は彩凜に呼ばれた。


「瑛様」

「彩凜、どうしたの? よほど重要でなければ動かないわよ」

「重要と言えば重要ですが、そうでないと言えば重要ではありませんね」

「どっちよ」


 瑛はつっこみを入れたが、いつもの通り、彩凜は言葉をつづけた。


「陛下が熱を出されました」

「おお。国家存亡の危機」

「勝手に陛下を殺さないでください」


 彩凜が痛烈な、というか当然の指摘をしたが、慧峻が発した問いで微妙な空気になる。


「父上、亡くなるのですか?」

「ほら、瑛様! 慧峻様が真に受けてしまわれたではありませんか!」

「でも、母上なら治せますよね」


 彩凜の怒声などなかったかのように、慧峻が瑛の袖を引いた。この子、大物かもしれない。可愛いけど。


「……うん。まあ、ちょっと様子を見てこようかしらね。慧峻は来ちゃだめよ。病気がうつったら大変だから」

「母上は大丈夫なのですか?」

「大丈夫よ。ここで玉蓮たちと遊んでてね」

「わかりました」


 慧峻の頭を撫でると、瑛は立ち上がって彩凜を伴い、皇帝の私室に向かった。基本的に珀悠の方から瑛の元を訪ねてくるので、瑛が彼の私室に行くことは少ない。

 ついでに言うなら、今、彼と微妙な関係なので彼自身に会うのも五日ぶりだ。いつもなら毎日のように顔を合わせているので、久しぶりのような気がした。


「失礼いたします」


 一応、声をかけてから入る。皇帝の私室には、女官長である彩凜であろうと入れない。そのため、瑛だけ入室した。世話役の侍従が瑛を見て微笑み、軽く頭を下げて退室した。別に気を遣わなくてもよかったのだが。

 瑛はそっと寝台に近づき、覗き込む。少し顔を赤くして苦しげに息をしながら珀悠は眠っていた。額に手を当ててみると、かなり熱い。最近、夜が寒かったので体調を崩したのかもしれない。


 それと……もう一つ、思い当たることがある。


 珀悠は、瑛に甘えることでたまった緊張感を解消していたところがある。五日ほどとはいえ、二人は顔を合せなかった。瑛が江州に行っていたときは二ヶ月近く離れていたことはあるが、あの時と少々状況が違う。

 あの時と違い、彼を拒んだのは瑛だ。それが、珀悠の精神に負荷を与えたのかもしれない。

 人と言うのは不思議で、精神面が行動や体調に現れることは多い。珀悠は責任重く、負担の多い皇帝なので、精神的に疲れていたのもあるかもしれない。そして、さらに瑛に甘えられないので、体調を崩した。……のかもしれない。


 まあ、自意識過剰だと思うから言わないが。


 瑛はそばにあった椅子に腰かけた。基本的に珀悠は丈夫なので、薬湯を飲んで寝ていれば治るとは思うが、実際に苦しそうなところを見ると心配になってくる。

 手巾を濡らし、額に当ててやる。汗をかいているから、水分も補給した方がいいと思うのだが、どうだろう。才媛と名高い瑛であるが、さすがに医学の詳しい知識はなかった。人間のどこを斬れば致命傷を負わせられるか、とかはわかるのだが。

 瑛は何となくそばにあった琵琶を手に取った。つま弾くのは『李皇后』。何となく、これが頭に浮かんだのだ。

 最上の治世を敷いたという皇帝。瑛は、珀悠ならばいわゆる『最上の治世』を敷けるのではないかと思っていた。だが、彼は慧峻が成長すれば、あっさりと帝位を譲るだろう。自分が彼の父から帝位を簒奪したから、負い目があるのだ。

 そうでなくても、珀悠は皇帝にこだわりがないと思う。自分がしなければならないから、やっているだけだ。瑛はそれがわかっていたはずなのに。

 なのに、彼を拒絶した。自分がひどく冷たい人間のような気がして、瑛は自己嫌悪に陥った。


「ぶんき……?」


 熱があるからか少しろれつが回らない様子で珀悠が瑛を呼んだ。この際、それが幼名であることは指摘しないことにする。


「大丈夫?」

「だいじょうぶじゃ……ない……」


 弱弱しいその様子に、瑛は苦笑した。琵琶を置き、ぬるくなった手巾をもう一度濡らす。


「しばらくついててあげるから、もう少し寝てなさい。治ったら、愚痴でも何でも聞いてあげるわよ」

「本当に……?」

「ええ。本当よ」


 珀悠が弱っていることはわかっているので、瑛はできるだけ優しい口調で語りかけた。珀悠の火照った顔が少し緩み、目を閉じる。瑛は濡らした手巾をその額に乗せた。

 布団から珀悠が手を差し出す。何となく察して、瑛はその手を握った。熱があるため、少し熱い。

 改めて握ると、大きな手だった。掌の皮膚は硬いのは、彼が剣をたしなむからだ。瑛にもあるが、彼にも剣だこがある。


 会ったばかりのころは、瑛よりも華奢だったくらいなのだが。時がたつのは早いものだ。


 いい加減、瑛も珀悠を出会ったばかりのころの年下の少年ではなく、彼が皇帝で大人の男性であることを認識しなければならない。彼が皇帝であると言いながらも、瑛は自分より年下の少年だと思っていた節がある。たぶん、彼はもうそれでは納得しない。瑛も、納得できないだろう。

 彼が年下の少年だと思っているから、瑛はうろたえるのだ。うん。たぶんそう。瑛は静かに寝息をたてはじめた珀悠を見て自嘲気味に微笑んだ。


「私より、あなたの方がずっと大人だったのかもしれないわね」


 両手で彼の手を握り、瑛はつぶやいた。


「失礼いたします」


 扉が開いて、医官が入ってきた。彼は瑛を見て拱手する。


「皇后様。おいでになられておりましたか」

「少し様子が気になってね」


 瑛は珀悠の手をそっと寝台の上におろすと、立ち上がった。医官はちらっと珀悠の方を見た後、瑛を見た。


「無礼を申すようですが、できるだけ陛下のご様子を見にいらしていただけませんか。そばに信頼する者がいると、それだけで心丈夫になるものです」

「わかったわ」


 瑛は即答した。医官が「ありがとうございます」と頭を下げた。どうやら、医官も珀悠の不調は精神的なものから来ていると考えているようだ。


「ちゃんと休息をとれば、すぐに回復されると思います。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」


 医官は瑛を安心させるように言った。実際に、その言葉で瑛は少しほっとする自分を感じた。

 瑛は珀悠の髪に触れた。


「また来るわね」


 そう言って、瑛は皇帝の私室を後にした。














ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


この作品、すでに最後まで書きあがっているので、どうしようか悩みどころ。


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