20、京師
今回は珀悠視点。瑛の出番が皆無。
時は少しさかのぼる。珀悠は、京師で書類と格闘していた。傍らにはいつも通り史紀がいた。
「そろそろ、皇后様が江州についたころですね」
静かな執務室に、史紀の声が響いた。珀悠はピタッと筆を止める。墨がぽたっと紙に落ち、染みをつくる。史紀が顔をしかめた。
「陛下。書類を作り直さなきゃならないじゃないですか。何してるんですか」
史紀の指摘に、珀悠は涙目になった。
「仕方ないじゃん! 考えないようにしてたのに!」
涙目で訴えた珀悠であるが、史紀には当然ながら効かない。史紀は冷淡に言ってのけた。
「いい年してそんな顔しないでくださいよ。それが効くのは皇后様に対してだけです」
「だって、その文姫がいないんだよ!」
「……」
顔にも口にも出さなかったが、史紀は『重症だな』と思った。前々から思っていたが、珀悠は瑛に他する依存度が高い。明らかに瑛が甘やかしすぎているのが原因であるが、珀悠がそれで皇帝業を成り立たせることができるのであれば、史紀は口を挟まないつもりである。
だが、瑛がいなくなるたびに仕事の効率が下がるようであれば困る。
ため息をつきながらも、珀悠は汚してしまった書類を書きなおしている。
「文姫がいないと、こんなにさみしいなんて」
瑛が立后してから、後宮に行けばいつでも瑛がいた。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
珀悠が登極してから一年、瑛が立后してから九か月。『当たり前』になるには、十分な時間だ。
瑛は珀悠のために江州に赴いた。だから、珀悠が文句を言う資格はないのだ。甘えたの彼であるが、それくらいの常識はある。
「皇后様ならすぐに戻ってまいりますよ」
史紀が資料から目を上げずに言ってのけた。彼女なら、早ければひと月半ほどで戻ってくるだろう。史紀も珀悠も、それだけ彼女を信頼している。
だが、珀悠にとってはそのひと月半が永遠に思えるほど長い。
仕事効率のほかに、まだ問題はあった。後宮だ。
瑛と言う皇后がいることは、思ったより妃嬪たちへの抑止力になっていたらしい。瑛がいない今、後宮は無法地帯と化している。
妃嬪たちが足を引っ張り合うわ、喧嘩は絶えないわ、嫌がらせは増えるわで、珀悠は恐ろしくて後宮に行くのが怖い。だが、義息子の慧峻が後宮に暮らしているので、様子を見に行かないわけにはいかない。
五つの慧峻は、養母がいないことは理解しているようだが、その結果、後宮が無秩序状態になっていることにはさすがに気づいていない。当たり前だけど。だが、様子を見に行くと、彼は「最近、よく話しかけられます」と言っていた。どうやら、妃嬪たちは慧峻を籠絡することから始めたらしい。
「お菓子や遊び道具をもらいました」
ニコニコと嬉しそうに報告してくれる慧峻だ。顔をひきつらせながら笑みを浮かべ、珀悠は何とか「良かったねぇ」と声を絞り出すことができた。
だって、菓子は毒入り、遊び道具は呪い人形だ。これを見てどう反応しろと言うのか。
中には普通の菓子や遊び道具もあるが、これらは現在の後宮をよく表していると思った。先帝の子である慧峻を皇帝にしようと言う一派と、珀悠の子に皇帝を継がせようと言う一派。万が一慧峻が亡くなれば、珀悠は後継ぎを設ける必要がある。その場合、帝位継承戦争を避けるために珀悠の実施であることが望ましいだろう。
まあ、単純に慧峻の機嫌を取りたいものと、慧峻を無き者にしてあわよくば自分が国母に、という者がいると言うことである。前者に関しては放っておいてもいい気がするが、後者はまずいだろう。
とりあえず、珀悠は彩凜に慧峻を見ているように頼む。女官長である彩凜は基本的に皇后についているが、現在は瑛がいないため、後宮の管理が主な仕事になっている。慧峻を頼むと快くうなずいてくれた。
「……文姫がいないだけで、こんなに混とんとするとは……」
「まあ、瑛様は何もしていないように見えて、細かいところに手を加えておりましたから」
彩凜が苦笑して慰めるように言った。瑛がやっていたことを、珀悠が同じようにやるのは無理だ。
また、慧峻だけではなく珀悠へも妃嬪たちが寄ってくる。考えてみれば当たり前なのだが、彼女らの行動が積極的過ぎて思わずひいてしまう珀悠であった。こちらは、慧峻の場合とは違い、暗殺しようとする者はいないので、珀悠自身が対応に気を付ければ問題なさそうだが……。
「陛下にその気がないのでしたら、思わせぶりな態度はいかがなものかと」
「……はい」
やんわりと断っていたら、彩凜にズバリと言われた。珀悠がズバリと言わないと、妃嬪たちは自分に都合がいい方へ考えを向かわせるようである。そして、さらに嫌がらせなどに発展すると。
基本的に、珀悠の周囲の女性(主に夏侯家姉妹)がさばさばした性格であるので忘れていたが、女性とは陰湿なものだった……。
「君、よくあの中で生活できるね……」
「まあ、俺が後宮に入ったのは瑛様が立后したあとですし。あの方がいる間は、後宮も落ち着いていましたから」
パタパタと手を振る彼は、どこからどう見ても少女に見えた。女官に扮しているが、かわいらしい顔立ちが隠せていない。しかし、女官には見目麗しいものが多いので、さほど違和感はない。
彼こそ、瑛を追いかけて何故か妃嬪になった変人、高琅明である。
珀悠は彼と定期的に連絡を取り合っている。後宮の使用されていない宮で、情報交換をしているのだ。瑛からも入ってこない情報を、彼が持っていたりする。
「やっぱり、文姫の力は偉大だね……」
「当然です。瑛様ですから」
自分のことのように誇らしげに琅明が言った。声変わりが始まったと言う彼であるが、多少声がかすれているが、一気に声音が低くなったわけではなさそうだ。なぜなら、まだ声が高めだから。
どちらにしろ、琅明はそのうち後宮から出さなければならない。声変わりもあるが、どうやら琅明はまだ大きくなりそうなので、成長期も終わっていないのだろう。あまり背が高くなりすぎると、やはり男だとばれる可能性が高くなる。
「慧峻様も、瑛様がいないとさみしいみたいですね。陛下の前では気を使っているようですけど、時々さみしそうな姿をお見かけします」
「そうなのか……」
どうやら、珀悠は息子に気を使われていたようだ。自分よりも珀悠の方が瑛がいなくて寂しいんだ、と思った彼は幼いながら思った。だから、珀悠の前では楽しげに振る舞っていたのだろう。珀悠はどうせ琅明しかいないから、と、彼の目の前で膝をついた。琅明が苦笑して彼の肩をたたく。
「大丈夫ですって。瑛様には怒られるかもしれませんが……」
「それが一番怖い」
「何があったとしても、瑛様が陛下を裏切ることはないので、大丈夫ですって」
瑛に怒られることを想像して身震いする珀悠であるが、同時に戻ってきてくれるなら、怒られてもいいや、という感情も芽生えた。
「……とりあえず、俺は文姫が無事で帰ってくればそれでいい」
「そうですね」
琅明が珀悠の思いをくみとって目を細めた。しんみりしていた珀悠は声を上げる。
「でも、もう文姫がいない人生は考えられない……」
早く帰ってこないかな、とつぶやく皇帝を見て、琅明は史紀と同じ感想を抱く。珀悠は、瑛に対する独占欲が強すぎる。
「……そう言えば、私の知り合いに一人面白い子がいます」
「知り合い?」
「ええ。後宮の中の子なんですけど」
琅明の言葉に、珀悠は眉をひそめる。珀悠が妃嬪と関わればろくなことにならないだろう。まあ、琅明が今現在進行形で関わっているが、彼が男で、問い詰められても逃げ道がある存在であるからだ。
だが、琅明は大丈夫ですよ、と笑う。
「彼女、相当変わっているので、他の妃嬪たちの怒りは買わないかと」
「……」
瑛で変人を見慣れているはずの琅明が『変わっている』と言い切る妃嬪とはいったいどんな人物なのだろうか。
少しだけ、その人物に対する興味を持った。
△
瑛が江州に行ってからひと月くらいたったこと、彼女から親書が届いた。どうやら、白氏の謀反疑いを何とかしてくれたらしい。珀悠はほっとすると同時にさすがだなぁと思う。とにかく、これで瑛が帰ってくる。
報告書には簡単に謀反計画の顛末が書かれていたが、読んでも詳しいことはさっぱり不明である。彼女が帰ってきたら詳しい話しを聞かなければならないだろう。
「とりあえず、白青昌の処分を任せる、か」
珀悠は瑛の整った文字を指でなぞり、彼女らしいな、と思う。彼女は作戦を考え、最善の判断をする。でも、彼女は優しい人物だ。命までは取らない。逆に言えば、取らなくてもいい、と判断したのだろう。
珀悠は瑛の署名部分をいとおしげに撫でた。
「早く、帰ってきてくれ」
聞きたいこともたくさんあるし、話したいこともたくさんできた。
だから、早く帰ってきてほしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
先日から声がでないと騒いでいる私ですが、どうやら声帯が狭いらしいです。
声帯が狭いってどういう状況なんだろう。




