12、䔥宰相
翌朝。眼を覚ますと、また珀悠の抱き枕になっていた。抱き枕になってしまうことはよくあって、瑛は特に咎めてこなかったが、最近はやめてほしいと思っている。何故なら。
「暑い……」
人肌が暑いのだ。夏だから、当たり前だけど。
逃れようと身じろぐと、眠ったままの珀悠は逃がすまいとより強く抱きしめてきた。瑛は「うっ」とうめき声を漏らす。割と本気で苦しい。
何とか拘束から逃れた瑛は、身を起こし、珀悠の体を揺さぶった。
「珀悠。起きなさい。今日も朝議があるんでしょう? 珀悠?」
「うん……」
寝ぼけた返答があった。瑛はむにっと珀悠の頬を引っ張ってみる。
「はーくーゆー?」
「わかった……起きる……」
珀悠が身じろいで身を起こしたので、瑛は彼の頬から手を放した。寝台の上に起き上がった珀悠は、ぐっと伸びをしてあくびをした。
「……眠い」
「夜更かしと、酒の飲み過ぎのせいじゃないの?」
皇帝である珀悠は、夏至祭に最後まで出席していただろう。そのため、夜遅くまで起きており、かつ、消費した酒の量は半端ないと思われた。
「というか、なんでこの部屋で寝てるのよ」
皇帝にはちゃんと私室がある。何故そちらに行かないのだ。いや、皇帝の私室のある内朝に行くよりも、後宮の皇后の居室の方が近いのは事実であるが。
「や……文姫のことが、心配で……怪我はないって言ってたけど」
昨日、演目に挑戦者として参加した瑛。彼女を心配して、様子を見に来たようだ。
大きな怪我はないが、さすがに打ち身と小さな切り傷はいくつかできていた。まあ、目くじらを立てるほどではないだろうと放置しているが。いや、一応薬は塗ってあるけど。
「大丈夫よ。と言うか、戦場にすら行ったことのある女に、その心配は間違ってるわよ」
瑛は従軍したことがある。主に軍師としての役割を期待されたいたのだが、戦場で剣や弓を手にしたこともないわけではない。
「……何度も言うけど、私が皇后でいいのかしら」
自分の経歴を考えれば考えるほど、自分が皇后でいいのか? と思う瑛であった。まあ、考えても仕方がない。今は早く珀悠を追い出すことだ。
「ほら、ちゃんと起きて。髪も結ってあげるから」
「はーい」
十年前、まだ十代前半だったころのように、瑛は珀悠の背を叩いて彼をせかした。
△
「母上!」
朝食を済ませ、珀悠を追い出し、瑛の身支度も終わったころ、いつものように慧峻が元気にやってきた。瑛はそのかわいらしい姿に笑みを浮かべる。
「おはよう、慧峻。今日も元気そうね」
「はい!」
慧峻も笑って全力でうなずく。うん。先帝の血を引いているとは思えないほど純真でかわいい子だ。
今日は算術の勉強である。慧峻は皇太子なので、瑛のようにすべてを知っている必要はない。だが、どうすればいいのか、方法を知っておくことは重要である。と言うことで、瑛は彼に幅広い知識を叩き込んでいる。
中でも算術は、いざと言う時に自分でできたほうが良いことだ。とはいえ、まだ慧峻は五歳なのである。そんなに難しいことは教えられない。
この辺り、瑛は計りかねていた。通常、後妻の子供と言うのは、どこまで学べるものなのだろうか?
何しろ、瑛は三つで簡単な読み書き計算ができた天才である。五歳のころには、すでに難しい学術書を読んでいた。もちろん、計算もできていた。
珀悠に聞いても、幼少期を後宮で過ごした彼は、十歳になるまでろくな教育を受けていなかった。さすがに読み書き計算はできたが、それだけだ。と言うわけで、瑛は慧峻の教育計画に今最も頭を悩ませているのだ。
幸いと言うか、慧峻も頭のいい少年だった。瑛の言うことは大概理解できるし、わからなければ聞いてくれる。彼が理解を示していなさそうであれば、その話はやめる。今の教育状況はそんな感じ。
この頃は、だいぶ慧峻の理解力がわかってきたのでだいぶましであるが、皇后になったばかりのころはひどかったなぁ、と慧峻が解いた問題の答え合わせをしながら、瑛は思った。
「母上。昨日は、夏至祭だったのですよね」
勉強にひと段落つき、お茶を飲んでいると、慧峻がそう尋ねてきた。瑛は微笑み、「そうよ」とうなずいた。
「母上が活躍されたと聞きました! 僕も母上のかっこいいところ、見たかったです」
「!」
瑛は思わず口に含んでいたお茶を吐き出しそうになった。無理やり嚥下したので、むせる。ごほごほと咳き込む瑛に、慧峻や彩凜たちが心配の声を上げる。
「母上、大丈夫ですか?」
「瑛様、しっかり」
そう言って、彩凜は瑛の背中をたたく。ひとしきりむせている間に、こぼれたお茶は片づけられ、新しい茶器が用意される。
「それ、誰に聞いたの?」
「玉蓮です」
慧峻が出した名に、瑛は『玉蓮か……』と思う。あの少女なら、仕方がない。
しかし、彼女は昨日、慧峻についていたはずだから、夏至祭の会場にはいなかったはず。誰かに聞いたということなのだろうが、誰に聞いたのだろう。
詮索するだけ無駄だ。ここは後宮。昨日、夏至祭に出席していた妃嬪や女官たちから、情報が漏れたと考えられる。そもそも秘匿していたわけではないのだから、こうして慧峻の耳に入るのも当たり前だ。
しかし、子から聞かされるとかなりの衝撃だ。何をしていたのだろうか、自分。
そう言えば、演目に変更を加えた犯人を捜そうと思っていたのだった。今朝、気づけば珀悠が一緒に寝ていたという衝撃ですっかり忘れていた。
「母上は何でもできるのですね。すごいです。かっこいいです!」
「かっこいいは、父上に言ってあげた方がいいわよ」
興奮して義母に向かって「かっこいい」と連発する慧峻に、瑛は苦笑気味に答えた。
△
「瑛様。来客です」
「客?」
来客を告げてきた寧佳に、瑛は首をかしげる。いくら瑛がこの国の女性の頂点にいるからと言って、来客はめずらしい。妃嬪や女官が来た場合は、寧佳たちはその名を告げる。そうではなかったということは、『外』からの客人だろうか。
「誰?」
「䔥宰相です」
「……」
まじか。なんでだ。何しに来た。
心の中でひとしきりつっこんだ瑛であるが、とりあえず「お通しして」と答えた。それから、彩凜に茶の用意を頼む。嫌がらせであつあつのお茶を出そうかと思ったが、やめておいた。
「お久しぶりですな、皇后様」
「……お久しぶりですね、䔥宰相」
頭を下げた䔥宰相に対し、瑛は立ったままだ。かつては䔥宰相に礼儀を尽くした彼女であるが、今現在、瑛の身分の方が上なのだから当然だ。瑛は、彼に座るように勧める。
䔥頼敢。それが、䔥宰相の名だ。年は瑛の父と同い年のはずなので、五十代半ば。威風堂々とした切れ者の印象が強い男性だ。背丈は高くなく、瑛より拳一つ長身である程度。
しかし…天才・瑛が恐れを抱くほどの才能を持つ男であった。彼に解決できない問題はないとすら言われ、宰相としてはかなり有能である。彼がいなくては、朝廷は回らない。そう言われているからこそ、劉太師たちは彼を排斥できない。
そして、彼が珀悠を祭り上げた張本人。確かに、先帝があのまま玉座についていれば遠くなく、燕旺国は沈んでいただろう。だが、珀悠を祭り上げる必要はなかった。先帝には慧峻と言う子がいて、彼を傀儡皇帝に祭り上げる方法もあった。
だが、彼はそうしなかった。なぜなら、彼は本気で国を憂えていたが、権力が欲しいわけではなかったからだ。
皇帝には、真に皇帝にふさわしいものがなるべき。そう考えているのだ。
その条件をたまたま満たしていたのが、珀悠だった。それだけだ。
瑛と䔥宰相の前にお茶と茶菓子が出される。寧佳と彩凜は壁際に控え、瑛は䔥宰相と向き合う。
お久しぶり、と言っても、昨日の夏至祭で顔を合わせたばかり。まあ、会話はしなかったが。
そこまで考えて、瑛ははっとした。口元にひきつった笑みが浮かぶ。
「なるほど……あの、天華の演出、あなたの台本でしたか」
瑛は、夏至祭で行われた天華で、皇帝を挑戦者にしようとしたのは、だれか珀悠の実力を疑っている者だと考えた。しかし、それは違った。
珀悠の能力を知らしめたい者。つまり、䔥宰相だ。彼が、画策したのだ。
彼なら簡単だっただろう。珀悠が考え、瑛が確認したその夏至祭の流れに、自分の台本をねじ込むのは。
瑛はお茶を一口飲んだ。䔥宰相は返事をしない。それが答えであり、たとえ否定されたとしても、瑛はすでに確信を持っているのだから同じだ。
考えてみれば、彼にしかできないことなのだから。
「悪かったですね、邪魔をして。それとも、わたくしがあそこで割り込むのも、あなたの台本の中にあったのでしょうか」
「……皇后様は、陛下をかわいがっておいででしたからな」
「今でもかわいいですよ」
「そう言うのは、あなたくらいでしょうな」
確かに。今の珀悠は皇帝であり、彼を『かわいい』などと評するのは瑛くらいだろう。彼女は肩をすくめた。
「珀悠の力を、官吏たちに見せつけたかったのですか? そんなことをしなくても、彼は立派に皇帝の役目を果たしているはずです」
内政において、優れた臣下に恵まれたのもあるが、珀悠は有能である。少なくとも、皇帝として必要な知識、決断力はあるし、わからないときは素直に尋ねる素直さもある。ここら辺は付け込まれると危ないのだが、今のところ、主な相談相手は瑛なので、彼女はしばらく様子見を決め込んでいた。
「……皇后様。あなたは、ばらばらだったものが一つにまとまるのはどんな時かご存知ですか」
「共通の敵がいるとき」
「その通りです。では、皇帝が国を一つにまとめようとするとき、何が一番効果的だと思いますか」
「……圧倒的な力の差。そして、温情」
「私と同じ考えです。さすがは津の娘です」
「……」
津、と言うのは、瑛の父の名だ。夏侯津。それが、瑛の父の名であり、䔥宰相の親友でもある男だ。本人たち曰く、腐れ縁ともいうらしい。
「珀悠陛下は、優しい。だが、だからこそ、臣下になめられる……皇后様。あなたは、ご自分が国家の負の部分を担おうと考えたのかもしれません」
ぴくっと瑛は震えた。䔥宰相を見て、目を細める。
「女性が国家の裏を担うことは、珍しいことではなくってよ」
「その通りかもしれません。しかし、あなた様は、陛下に甘すぎる」
それは、否定できない。瑛自身が、珀悠に甘い自覚があるからだ。
「ですが、陛下もあなた様に甘い」
「……」
それも否定できない。珀悠は瑛に甘えてくるが、同じくらい、瑛のことを考えてくれていると思う。瑛にとって珀悠は特別だし、珀悠にとっても瑛は特別なのだ。
「その甘さを理性で制御しているあなた様は、確かに優秀です。あなた様と珀悠様の子なら、きっと優秀でしょうね」
突然、話が飛んだ気がする。瑛はぐっと顔に力を籠めて表情を動かさないように努力した。
「それを決めるのは、わたくしではないわ」
瑛は珀悠の妻だ。決めるのは珀悠であり、瑛ではない。
「いろいろ言いましたが、私はあなた方お二人の力を買っているのですよ」
「それはどうもありがとうございます」
すさまじい棒読みで言ってのけた。䔥宰相はかつて、友人の娘に見せていたような笑みを浮かべると、退出していった。
『あなた様は、陛下に甘すぎる』
わかっている。余計なお世話だ。
瑛はそう思って、ため息をついた。
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