第29話 ベニングセン市の悲劇(2)
ミルルは大学で一般教養として受けていたドラゴン学初等論の授業を思い出した。女たらしで有名な教授、名前は……そうハウザー教授。
「いいか、学生諸君。ドラゴンは人間の住む地域を襲う場合、まず、都市を狙う。そしてやることは、まず、周辺地域を焼き払う。これで住民は逃げられなくなる。そして、絨毯爆撃だよ。まず、9割方生き残れない。ドラゴンが炎系や氷系なら、生き残る確率も多少あるが、最悪は毒ガス系だね。毒ガスをはくグリーンドラゴンは、軍には戦いやすい相手だが、災害を起こす相手としては厳しい。毒ガスだと住民の死亡率はぐっと上がるね。まず、助からない。」
(ドラゴンの種類がグリーンだったら……)
ミルルはアナウンスに合間に、双眼鏡で遠くのドラゴンを見ている課長に叫んだ。
「課長、ドラゴンの種類は?」
「赤い奴が2頭、ブルーが1頭だ。あと2頭がグリーンっぽい」
課長が学校を出たのはずいぶん前だ。おそらく、グリーンドラゴンが都市にとって最悪な相手とは忘れているだろう。やはり緑の霧状のガスは毒ガスだったのだ。
「課長、グリーンドラゴンの毒ブレスを受けたら、シェルターなんか意味がないです。いえ、それ以前にシェルターの耐久力はドラゴンなんか耐えられませんよ!」
そもそもシェルターの耐久力は、地震や火事を想定したものに過ぎなかった。誰もドラゴンの力を知らないからだ。
「だとしても、もう我々に逃げ道なんかないぞ! 街道を抜ける道は火の海だ。ミルルくん、とにかく、市長が来るまで避難を促す放送だ。マニュアル通りやるしかない」
(役に立たないマニュアルなんて……)
ミルルは思った。都市の外周を火の海にして、その後、奴らがやるのは市の中心から破壊していくこと。この市庁舎など真っ先に攻撃されるだろう。だとしたら、自分の命は今日で終わる。
言い知れぬ恐怖で声が震えたが、避難を促す自分が怖がってビビった声を出したら、それこそ住民はパニックを起こすだろう。ミルルは努めて冷静にアナウンスを繰り返した。
「わしは何も聞いとらんぞ!」
市長のワダムスはでっぷりとした巨体を起こして馬車から這い出ると、カバンを抱きかかえて後に続く秘書室長を怒鳴った。完全に八つ当たりされた感じの室長も事態の深刻さに声も出ない。
「軍は何をしている! 警察は! 消防は! 情報が何もないじゃないか!」
怒鳴り散らしながら市庁舎に入る。素早く、この怒れる市長をエレベーターに乗せて5階の市長室ではなく、屋上の広報室へ案内したのは、エレベーターで待っていた副市長だった。彼はクロービスから派遣された若手の官僚であった。今年27歳。クロービスの大学を優秀な成績で出て、総務省に入省して五年。貴族出身でないためにこんな地方へ飛ばされたが、この若さで副市長であることはエリートに変わりはなかった。
市長は世襲の家柄で、先代市長の引退と共に市長の座についた男で、家柄の良さ以外は特に特徴にない男であった。この緊急事態に適切な指揮が取れるはずがないと副市長の青年は思ったのである。
(ならば、屋上で現実を見せるか……)
屋上の広報室が現在で一番、情報が集めやすい場所であるし、先程から冷静にアナウンスを続ける女性の声から察すると、一番、冷静に動ける部署であると思った。市役所の他の担当課はパニックで職員が右往左往しているのみである。
(こんな地方都市じゃ、人材がないのも分かるが)
「市長、屋上へ上がります。おそらく、状況が一番把握できるのがそこですから……」
「おお! マルセル君、もう登庁していたのか」
「わたしは危機管理担当ですから。といっても、当市の危機管理を担当する部署はありませんが」
「警察署長は何している! それより、パトロール艦隊は? 近くに打撃艦隊は航行していないのか?」
「連絡は試みていますが、連絡が取れません」
「そうだ! トリスタン連合艦隊はどうなっている? パンティオン・ジャッジを制した最強艦隊がいるだろう。それを呼べ!」
「市長、無理です。わたしの情報によると、トリスタン連合艦隊はまだ編成途中で、大半の戦列艦は修理中、もしくは、合流の途中であります。昨日のオレンジ島の責任者でルイーズ少将に確認したら、稼働できる空中艦は駆逐艦3隻と潜空艦数隻とのことでした」
「ば、馬鹿な!昨日のテレビでは最強の戦力などと言っていたではないか!」
「あれは将来という意味ですよ。現実はこんなものです」
エレベーターが屋上についた。広報室からは避難を促すアナウンスが鳴り響いている。
「なんだ!あれは……」
広報室に上がった市長は驚きの声を上げた。ベニングセンの街の周辺が燃えている。これでは市街に脱出できない。
そして、周辺を焼き払ったドラゴンが横隊に並んで地上を爆撃するが如く、ドラゴンブレスで焼き払っていく。あれでは、民間のシェルターなど紙の箱に等しいだろう。
「もうダメだ! みんな死ぬ! 殺される!」
ワダムス市長は、これまでいいところのおぼちゃまとしてこの市役所に入り、みんなにちやほやされ、有能な部下を付けてもらって手柄を横取りしてきた。係長、課長、部長と歴任してきたが苦労したことは一度もない。だが、現在、市長として最大の危機に直面していた。
どうして良いのか見当もつかない。
「市長、川です。ベニングセン川沿いには火が回っていません。川を使って郊外に避難させましょう」
「ダメだ、副市長、川などに市民が殺到しては溺れ死んでしまう」
「市長、あの川は深くてせいぜい、大人のひざぐらいです。幸い、ここ最近の好天でさらに水位は下がっているでしょう」
副市長はこの市に着任して以来、時間があれば現場に出て視察を繰り返していた。だから、川が浅いことも知っていた。
「ミルル君、すぐアナウンスしたまえ」
副市長の青年にそう言われたミルルは、すぐさま、シェルターに避難からベニングセン側沿いに街を出るように指示を変えた。
「市民の皆様、ベニングセン川を使って市街への脱出をしてください。繰り返します。ベニングセン川を使って……」
ミルルがそう繰り返して言った時に閃光が走った。火炎弾が市庁舎に直撃したのだ。鈍い衝撃音がして、煙が上がった。見ると1頭のドラゴンが上空で旋回している。
「2階に火炎弾が直撃、市庁舎まえの広場と西庁舎にも被弾した模様」
「マルセル君、もうここはダメだ。逃げよう!」
「市民を見捨ててですか? 逃げるにしても、我々も脱出できるのは川沿いしかありませんよ。まあ、ここにいてもできることはもうありませんが……」
放送設備にも被害が出たせいか、ミルルがしゃべってもその必死の声は外には伝わらない。
「そうだ。アドバルーンを上げましょう。キャンペーン用のがあったはずだ。ミルル君、ペンキはあるかね?」
マルセル副市長は必死にしゃべり続けるミルルの肩を叩いてそう落ち着かせるように話した。それでミルルはパニック状態を脱することができた。
「は、はい、屋上の資材倉庫に置いてあると思います」
「その垂れ幕に川沿いに逃げろと記述しよう。気がついた市民に少しでも生きるチャンスを与えるのも僕たちの役目だ」
「は、はい」
ミルルはそう言ったが、気がつくともう市長も課長も秘書室長も逃げ出していない。自分とこの副市長だけだ。だが、若いのに落ち着いた副市長を見ていると、この危機的状況を忘れることができた。広報室の建物を出ると2階から上がる煙がすさまじい勢いで上がっていた。火の手は3階まで達している。地上を見ると人間が蜘蛛の巣を散らすように逃げ惑っている。先ほど、市長たちが降りていった外付けの非常階段も途中でひしゃげて壊れているのが見えた。
(あの人たち、無事に地上へ降りられたのかしら?)
ミルルは妙に冷静になっていた。自分たちは地上に降りる手段がないと理解しているのにだ。街を見るとグリーンドラゴンの毒のブレスで街が次第に緑の毒霧に包まれていくのが分かった。あれでは助からない。幸い、風のおかげで川沿いへは流れていかないが、毒霧に覆われたところは生きているものは皆無であろう。
課長の席から拝借した鍵で倉庫を開けると、アドバルーンが置いてあった。それを副市長と一緒に引きずり出した。垂れ幕にペンキで大きく「川沿いに逃げろ!」と書いた。これなら、遠くからでも見えるだろう。
コンプレッサーを使ってからアドバルーンに空気を入れる。これは膨らますためのものだから、普通の空気である。これを空に浮かべるには付随する小さな浮遊石をアドバルーンに付けるのだ。
小さな保管場所から、浮遊石を取り出すとアドバルーンの天辺に取り付けた。
大きなアドバルーンがゆっくりと上がっていく。
それを見上げながら、ミルルは自分の人生最期の仕事をやり終えたと思った。急にここで死ぬんだと思うと体が震えてくる。下を見るとドラゴンの毒霧が市庁舎の1階部分に漂ってきて、周辺はたくさんの人が倒れているのが見えた。遠くには5匹のドラゴンは暴れ続けて、街を廃墟に変えている。
「ごめんね。君を巻き込んでしまって」
ふと見ると副市長が横に立って震える自分肩をそっと抱き寄せてくれた。自然と体の震えが止まる。
「いいえ。市長たちと逃げても死んでいたでしょうから」
逃げていれば毒霧で今頃は、市庁舎前広場で転がっている死体の仲間入りだろう。
だが、状況から察するに、死ぬ時間が多少延びただけかもしれない。2、3階が火災で下に降りられない5階の屋上。地上は毒霧に覆われている。毒を吸って死ぬか、焼け死ぬか、ドラゴンの餌になるかだ。
ミルルの家族も無事ではないだろう。母親は小学校の先生で父親は警察官である。無事に逃げてればよいが、二人共責任感の強い公務員だ。おそらく、身を挺して殉じているに違いない。
「副市長様もとんだ貧乏くじでしたね。こんな田舎に派遣されて、ドラゴンに殺されるなんて。エリート様でもアンラッキー」
「いや、アンラッキーじゃないさ。最後に君みたいな可愛い女の子と死ねるならね」
そう言って、マルセルは片目をつむった。
だが、結果的にマルセルはアンラッキーではなかった。アドバルーンを上げたことで、上空から突如現れた潜空艦によって、2人とも救出されることになったからだ。
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「市庁舎の屋上で二人を救出しました。副市長と職員だそうです。エヴェリーン少将」
「ひどいもんだな。これではジェノサイドだ」
「川沿いに逃げた市民約800名は、ルイーズ少将の駆逐艦で救出しましたが、後は生存者はなさそうです」
副官からそう報告を受けて、エヴェリーンは思わず壁を拳で叩いた。ベニングセンの街の人口はおよそ二万人。救出した人員は1000名少々。死亡率95%の大災厄である。市庁舎からの呼びかけがなかったら、川沿いに逃げたものは少なく、もっと生存者は少なかっただろう。危険を冒して救出作戦に出たルイーズ少将と自分たちがいなかったら、それこそ生存率は限りなく0だったであろう。それほどドラゴンのジェノサイドは徹底していた。




