第29話 ベニングセン市の悲劇(1)
その日、ベニングセンの住民は気持ちの良い朝を迎えていた。穏やかに晴れ、心地よい風がそよぐ。休日にあたるので誰もがランチをバスケットに入れて、ピクニックに行きたいと思うほどであった。
ベニングセンは人口2万人のメイフィアの中では小さな都市であるが、風光明媚な農村地帯の中にあって、マーケットも充実しており、休日には周辺地域からも買い物客で賑わっていた。
そんな辺境地の家からを朝早く出発し、買い出し用の荷馬車でベニングセンの中央にあるマーケットに向かっていた農家の一家。今年6歳になる娘がピクっと体を震わせた。荷馬車は幌馬車で引かせている動物はユニコーンであることを除けば、ちょっと昔の地球のどこかの国を連想させた。
「お父さん、風が来るよ!」
小さな娘がそう言って、南の方向を指差した。
突風
まさに突風であった。
凄まじい風に幌馬車は横倒しになった。中に乗っていた妻を案じつつ、咄嗟に娘をかばって抱きかかえた父親は、突風の後にこちらへ向かってくる黒い5つの影を見て体を縮こまらせた。
(な、なんだ! あれは?)
ギャオオオオオオッツ……。
咆哮を上げながら、その5つの影は今から向かおうとしていたベニングセンの街に向かっている。
「あ、あなた、あれは!」
荷馬車の荷台部分にいた妻がはい出てきた。どうやら怪我はないらしい。
「ドラゴンだ……。5匹も上陸を許すなんて」
慌てて荷台に置いてあったはずの魔法石ラジオを探した。ぐちゃぐちゃになった荷物の中にそれを見つけると、父親はスイッチを押す。
ガーガーという雑音
だが、ふいにアナウンサーの悲痛な声が聞こえていた。
緊急警報です! 緊急警報です!
ドラゴン非常事態宣言発令、ドラゴン非常事態宣言発令!
場所はスロットランド地方
対象は真っ直ぐにベニングセンに向かっています。
情報は錯綜しています。
あ、只今、入ってきた情報によりますと、5頭のドラゴンがベニングセンに向かっているとの情報です。住人の皆様、大至急、避難をしてください。最寄りの公共施設、軍の駐屯地、自宅のシェルター等に隠れてください。
父親はベニングセンにまだ入っていなくてよかったと心の底から思ったが、それは最悪の状況を脱しただけに過ぎないと思った。すぐさま、横倒しの馬車は捨てて、2頭のユニコーンに妻と娘を乗せて、元来た道を引き返ことにした。家に帰り、食料を持って逃げるのだ。
ドラゴンについては、子供の頃に学校で学んだ知識しかなかった。それを思い出したのだ。奴らはまず、人間がたくさん暮らしている都市を攻撃する。都市の周辺を焼き払い、逃げ出せなくしてから、絨毯爆撃のように各種のブレスを地上に対して行う。場合によっては、地上に舞い降りて物理的攻撃で建物を破壊する。
都市に取り残されたら、間違いなく殺されてしまう。その後、周辺地域を掃討するように魔法やブレスで破壊を繰り返す。
500年前には1つの都市がたったの3時間で廃墟になり、住民のおよそ9割が死亡する自体が頻発したという。
「あなた、どうするの?」
「早く家に帰り、森に隠れよう……。できれば山裾の横穴に身を潜めるんだ。奴らは人間の住処をことごとく破壊するからな」
そう言って父親は幼い娘をギュッと抱きかかえた。自分たちは運がよかったが、町の住人のことを思うと心が張り裂けそうであった。自分たちも森に逃げてからその後どうしたらよいのか何もわからなかった。
(パトロール艦隊はどうしたんだ? いや、一番近くには、トリスタン連合艦隊がいるんじゃなかったのか?)
昨日のテレビでは、このスロットランド地方はパンティオン・ジャッジで覇者となった第5公女が指揮するトリスタン連合艦隊の駐屯基地であるオレンジ島が近い。よって、その豊富な戦力から、ドラゴンの襲撃に最も強い地域として紹介されていた。
安全だからという理由で、首都メイフィアから移り住もうという金持ち貴族の取材もやっていた。ただ、トリスタン連合艦隊が本居地を移したのは最近の話だったので、移住のブームはまだ起きていなかったし、昨日の番組はこの地方の開発を行う不動産会社の陰謀ではないかと父親は思ってはいた。
この父親に限らず、大抵の住人にはドラゴンに対する危機感が欠けていた。なぜなら、普通の住民はドラゴンを実際に見た事がなかったからだ。ドラゴンは大陸から遠くでパトロール艦隊やドラゴンハンターが討伐し、自分たちのところへは来ないという認識なのだ。危険な生物と教えられても、実際にどれだけ危険か実感がなければ、人は危機感を感じないものだ。それが何十年も何百年も続けば、忘れてしまって当然だろう。
それでも学校や地域でおざなりの避難訓練をしていた。いつか来る災厄に備えて……であったが、その訓練もベニングセンの大半の住民を救うには至らなかった。
ウーウーウー
大音量の警報を街中に鳴り響かせ、大きな声でアナウンスを繰り返すミルル広報担当官は、今年、ベニングセン市役所に就職した女性であった。白いビジネススーツに青い腕章は、役所内での制服であったがはつらつとした彼女の容姿にぴったりであった。ショートカットの赤い髪が活発な性格を予想させる。落ち着いたアナウンスを繰り返す彼女は、昨年までクロービスの大学に通っていた新人であった。今年の春に実家があるこのベニングセンにUターン就職をしたのだ。
この地方は産業らしい産業もなかったので、やむを得ず、市役所勤務を希望したのだが、本当はテレビ局でマスコミの仕事をしたかった。一応、希望はかなって市の広報担当にはしてもらったものの、この部署は4人しかいないところで、ミルルの仕事は朝と昼と夕方に定時の放送をするのが主なものであった。
だが、今は声の続く限り、マイクで住民に避難を呼びかける。よく通る、ちょっとアニメ声のハリのある声が的確な指示を住民に告げていた。
「住民のみなさん、ドラゴン非常事態宣言です。速やかにシェルターのある場所へ避難してください。繰り返します! スロットランド地方にドラゴン非常事態宣言が出されました」
「どうして、急に非常事態宣言なんだ! 軍は何をしていたんだ!」
ミルルの上司で真っ白な白髪の広報課長が怒鳴っているが、それに答える者はいない。まだ、市役所も開庁時刻でないために出勤しているものは僅かであり、市の防災担当課ですら大混乱で機能していない。
ドゴーン……ドゴーンっと遠くで音がする。
ミルルは窓の外を見る。市庁舎は5階建てであるが、この広報部はアナウンスの関係もあって屋上に置かれた展望台上の建物に設置してあった。360度、ガラスに囲まれて市内の様子が確認できた。
ドラゴンが5頭、市の周りを飛び回り、ブレスをはいていた。町の至るところに火の手が上がり、黒い煙が何十っと上がっている。緑色の霧で覆われている地域もある。地獄絵図というのがあるのなら、まさにミルルが今見ている光景がそうだろう。そこには「絶望」という文字が赤く浮き出ていた。




