忘却の朝
ハワイ土産のアメリカンサイズの歯ブラシに、これまたハワイ土産の『ココナッツフレーバー』の歯磨き粉を塗布する。歯ブラシそのものにも赤、青、緑とカラフルな三本線が入っているというのに、そこに黄土色の歯磨き粉による一ラインが追加される。視覚情報としては「ケバケバしい」以外の何も得ることが出来ないようになってしまった。
本来清々しさを得るための〝歯磨き〟という行為が、洗面台に向かう男に今、苦痛をもたらしているのだ。
「歯科医にぶらさがる何百、何千という企業が、競合他社を出し抜くために様々な商品を世に送り出している。この歯ブラシのようにカラフルなものから、この歯磨き粉のように味付きのものまで……それを創意工夫に満ちた企業努力の成果だと称揚するのもいいだろう。だが、そこに現場の―末端消費者たる我々の視点は入っているのだろうか? 得意先の歯科医が『かさばらなくて、目立つものがいいかな?』。そういったから営業マンは『スリムサイズの、カラフルな歯ブラシってウチで造れない?』と、開発部門なり上司なりに相談を持ちかけ、企業としては『そこにニーズ《売上》があるから』で生産状態に入るわけだ」
男は歯ブラシを持ったまま、姿見の前でかれこれ十分ほど仁王立ちしている。
「細いから奥まで届く? そんなのは副産物に過ぎない。味付きだからお子様に歯磨きの習慣をつけさせるのにも便利? 食紅メーカーとの談合だろうよ。だいたい昔の人は木の表面を削ったもので歯を磨いてたんだ。それに唾液そのものにも口臭予防効果、つまりは殺菌力はあるんだよ。歯磨きなんてのは本来そういうもんなんだ。現在の歯磨きは、医療の皮をかぶった拝金主義者共の作り上げたイメージ戦略に過ぎないんだ!」
男は姿見に歯ブラシを投げつけた。ココナッツフレーバの歯磨き粉が姿見にへばりつき、重力にさらわれねっとりとした調子で垂れていく。
「おぞましい……俺はこんなものを口内に突っ込もうとしていたのか?」
男はコップに水を注ぎ「がらがらぺっ」と口内を禊いだ。
「そうだよ。本来うがいだけでも事足りるのさ」
男は口元を袖で拭い、コップを置いて振り返った。
「あっ!」
振り返った先で男は驚愕した。嫁が大きな姿見を持って立っていたのだ。
「そんな口で愛を語られたくないわ。さようなら」
「まっ、待って……!」
合わせ鏡の迷宮に囚われた男は発生した空間の歪みに巻き込まれ姿を消した。後には姿見をナメクジのように這うココナッツフレーバーの歯磨き粉だけが映されていた。
「ごめんなさいね。あなた」
嫁は持っていた姿見を置いて洗面台に向かう。そしてついさっきまで夫が手にしていた歯ブラシを拾い上げ、姿見にへばり付いた歯磨き粉を手にしたブラシで掬うと、何のためらいもなく歯磨きを始めた。




