使い魔の過去
アルト=ハルメリアは、貧乏貴族の末っ子と
して生を受けた。
三人兄弟の中でも、勉強は一番出来て、その
せいでよくいじめられた。
親に言えばもっとひどいいじめが待っている
ので、アルトには耐えるしかなかった。
アルトが逆らわないので、兄達のいじめはだん
だんエスカレートした。
暗い物置に閉じ込められたり、家から追い出して
鍵をかけて入れないようにしたり、犬をけしかけて
怪我をさせようとした事もあった。
この時は、アルトが上手く逃げられたので、怪我は
しなかったけれど。
「おにいさまたち、なんでぼくをいじめるの?」
当時五歳だった幼いアルトが、泣きながら言うと、
兄二人は意地悪そうに口元を歪め、お前が嫌いだから
だよ、と言い返した。
幼いなりに聡明だったアルトは、その一言でひどく
傷ついた。
そして、五年間にいたるまで一度も抵抗はしなかった
し、両親にいいつける事もしなかったのだった――。
が、十歳になりたての頃、アルトが兄達に反抗する
という事件が起こった。
当時、アルトは兄達に疎まれていたので、メイド達や
使用人達もあまり彼に構う事がなかった。
会釈やあいさつはするが、それだけなのだ。
小柄でどちらかというと可愛らしい容姿をしているアルト
とは違い、二人の兄はがっしりとした体つきで強面な顔立ち
をしており、腕力も強い。
だからそんなアルトの兄達に逆らう事や、彼らの機嫌を
損ねてしまう事が皆怖かったのだ。
意見して容赦なく殴られてしまった者も、メイドや使用
人の中にいた事もあるし。
それでも、まったく話をしない者ばかりではなかった。
まだ八歳のメイド見習いの少女だけは、アルトに仲良く
してくれたのだった。
名前はアネット。アネット=ベル。
風変わりな少女らしく、他のメイド達からはつまはじきに
されていた。
肌がやけに白すぎるせいからか、白い髪に紅い目という
取り合わせからか、神秘的な印象がした。
そもそも紅い目はこの辺ではあまりない。
白い髪をポニーテールにした彼女は、いつも桃色の花の
髪飾りをつけていて、とてもよく目立ってアルトには
映った。
アネットは無邪気で活発な娘だった。
体が弱いのだが、そうは見えないほどに性格は明る
かった。
「あたしね、教会の娘なのよ」
つたない声で彼女はアルトに、いろいろな事を教えて
くれた。
優しい姉の事、厳格な父と母の事。姉の親友で、もう一
人のお姉さんのように接してくれる少女の事。
「この髪かざり。お姉ちゃんのおともだちがくれたんだよ。
東方の国のおはななんだって。たしか、モモっていうの。
かわいいでしょ」
「うん、かわいいね。アネットに良く似合ってるよ」
「ありがとう、アルト」
アルトは友達が出来て嬉しかった。
初めての、友達だった。彼女のしゃべり方は、情感たっぷり
で、とても楽しそうに話すので、アルトもつられて笑顔に
なってしまうのだった。
「アナマリアお姉ちゃんはね、とっても頭がいいの。あたしに、
いろいろなことおしえてくれたんだよ。まどうしょのこととか、
つかいまのこととかね~。お母さんたちにはないしょねって
言ってたけどね。お母さんたち、そういうの嫌いなんだって」
「へえ、そうなんだ」
アルトはこういう時相槌を打つ事しか出来ない。
元々、人と話すのは得意ではないのだ。
あまりいい事は言えないアルトに、アネットはつまらない、
と投げ出す事をしなかった。
無邪気な声で、いろいろな事を毎日話した。
だが、幸せは長くは続かなかった――。
兄達は、メイド達からアネットについての報告を受け、
彼女に嫌がらせを始めた。
アネットの病気に効く薬を隠したり、わざとぶつかっ
たり転ばせたり、挙句の果てにはアネットに薬を売らぬ
よう、街の薬屋全部に圧力をかけたのだった。
アネットはだんだん体を悪くしていき、咳を繰り返す
ようになっていった。
アルトには知られないように、空元気でも笑顔を通した
ので、アルトは全く気付かなかった。
それ所か、元気になったのかと思っていたのだ。
アルトはその考えを、後に苦悩する事になる。
兄達はアルトに近づくのを止めないアネットに、次第に
苛立ちを募らせていった。
大嫌いな弟が誰かと仲良くするのが気に食わなかった
のである。
直接アルトにはもう会うなと告げた兄達に、アネットは
強い感情をむき出しにして反感を示した。
「あなたたちなんかに、あたしはしたがったりしない!
まちがってるのは、あなたたちのほう! アルトは、
ちっともわるくなんかない!!」
まだ小さい子に真実をつかれた兄達は、カッとなって
彼女を使われていない倉庫に押し込めた。
誰もほとんど立ち入らない場所だった。当然、暖房など
なく暗くて寒く、とても病気の少女がいるべき場所では
ない。けほけほ、と苦しそうな咳が響く。
アネットの紅い目には涙がにじんでいたが、兄達はただ
あざけるような笑みを浮かべる
意地の悪そうな顔でアルトに近づかなきゃ出してやる、と
言った。
それでもアネットは首を振った。苦しいだろうに、必死に
言葉を彼らに投げつけた。
「あなたたちなんかだいきらい!! アルトはしあわせになら
なきゃいけないの。あんないい子なんだもの。あたしなんかと、
なかよくしてくれたんだもの!!」
咳まじりの声でアネットは叫んだ。顔がひどく青い。
彼女はもはや、気力だけで立ってしゃべっていた。
熱が上がったのか、アネットが倒れそうになった、その時
だった。
「何をしているんですか、あなた方!!」
響いたのはアルトの声だった――。
気絶したアネットを抱き止め、アルトは敢然と兄達に立ち
向かった。普段ならば彼が兄達に力で勝てるはずもなかった
けれど、唐突に反旗を翻した弟に兄達は完全に怯んでいた。
怪我をしつつもアルトは兄達との戦いで勝利を掴み、無事
アネットを守り抜いた。
アルトを恐れたからか、単に罰が悪かったからか、この日
から、兄達のいじめはなくなった。
騒ぎが大きくなり、両親にこの事を知られてしまい兄達が
叱責と罰を受けたというのも一因だろうが。
しかし、アルトの気分は晴れる事がなかった。
なんと、アネットがいなくなる事になってしまったのだ。
メイド見習いを、自らやめた、というのである。
「あたし、お家にかえらなきゃならないの。これ、読んでね」
彼女は薄桃色の封筒をアルトにくれた。
その真ん中には、モモの髪飾りを模した印章が押してあった。
「どうしても行ってしまうの?」
「うん……」
最後くらいは、家族のもとで死にたいから。
その言葉を、アネットが口にする事はなかった。
言ったら、死ぬのが怖くなりそうだったし、
アルトを悲しませたくはなかったのだった。
アネットは自分の死期を悟っていた。
薬を長い事飲んでいなかった弊害が、アルトが兄達に反抗した
翌日出て来たのである。
「いっしゅうかんだよ。いっしゅうかんしたら読んでね」
そう言い残し、アネットは汽車に乗って行って
しまった――。
そして、一週間が経ったある日。
手紙を開けたアルトは、文面を見てギョッとなった。
手紙には、こう書かれていたのだ。
アルトがこの手紙をひらくころ、あたしはもうこの世には
いないの。ごめんね、アルト。あたし、いっしゅうかんごに
しぬのがわかってたの。でも、アルトには言えなかった。
言うのがこわかったの。しなないで、っていわれることがこわ
かったの。だって、しぬことは、もうかえられないから。
あたしね、ほんとうは家出だったの。本でよんで、メイド
をやってみたくてね、おかあさんたちにだめだっていわれ
ちゃってね、家を出たの。どうしてもやりたかったから。
アルト、アルトも、じぶんにしょうじきに生きなきゃだめ
だよ。やりたいことがあったら、家を出たってやりとげなきゃ
だめだよ。あたしはもういないけど、ずっと、空の高いところで
アルトをみまもってるから。さようなら。
アネット=ベル
アルトはぼろぼろと零れる涙をぬぐいながら、もうこの世
にはいない少女の手紙を読んでいた。
それでも、その手紙から感じとれた物は悲しさだけでは
なかった。
アネットが病気を押してでもやろうとした意思の強さ、
そしてやり遂げた彼女の決意。
それがひしひしと感じ取れた気がした。
だからアルトは思った。自分も、彼女のように死ぬ前に
やりたい事をやりたい、と。
アルトはすぐに両親に自分のやりたい事を告げ、それを
許してくれるように頼んだ。
アルトはどこかへ奉公したかったのだ。
家事はすこしずつ練習していたし、料理の腕も悪くは
なかった。
主人となる誰かのために、誠心誠意お世話をする。
それがアルトがずっとやりたいと思っていた夢だった。
だが、貴族だという事を重んじていた両親は、アルトの
言葉を頭ごなしにはねのけた。
アルトはもう一度アネットの手紙を読み、手紙と身の
回りの物とお金を少しだけ持って、家を出た。
アネットと同じように汽車に乗り、旅に出た。
その選択が正しかったのかは、その時はわからなかった。
アルトは寝過してしまい、お金を汽車で全て使い果たし、
挙句の果てに降りた街で人攫いにあったのだから。
その後、アルトは五年間にわたり、オークション会場を
転々とすることになった。
上玉だからと、なかなか売られなかったのだ。
そして、ようやく売られることになった運命の日に、彼女と
会ったのだった――。
スピカ=ルーンに会った時、アルトの心臓が跳ね上
がった。
初めて会ったのは、人身売買のオークションだった。
本当に、アネット=ベルの髪の色と目に、彼女はとても
良く似ていたのだ。その事をのぞいても、とても
可愛らしい少女だった。
綺麗な目で自分を見て、鈴のような声で名前を呼ばれ、
アルトはそんな彼女に恋をした。
悪魔的というイメージを貫きたいらしいが、とても心
優しく、儚げな少女に。
自分を買い受けて助けてくれた、幼い女主人に。
アルトは今では、選択は間違いではなかったと
心から思えるのだった――。
アルトの過去話です。
スピカに出会う前の彼の
境遇を書いてみました。
近いうちにスピカの過去
話も書きたいと思っています。