魔女は失踪する
スピカ=ルーンは走っていた。
あまり体力がある方とは言えないので、
少し走っただけで息が切れてしまって
いる。
顔はつねではないほど紅い。
それでも、彼女は走るしかなかった。
もっと遠くに。もっともっと遠くへ。
魔法は使えない。あまり強い術を使って、
倒れるわけにはいかない。
なので、スピカはない体力を振り絞って
走っていた。
白い髪は半場解けてくしゃくしゃ。
紅い目は涙で潤んでいる。
酷い有様であったけれど、今の彼女に
身だしなみを気にする余裕はなかった。
「アルト……」
彼にはもう会ってはいけない。
そのはずなのに、スピカは会いたくて
たまらなかった。
紅い目から雫が垂れ落ちる。
前会わなかった時も、たえがたい痛みが
胸を刺していたのだ。
だが、永遠に失うよりはマシだ。
たえなくてはならない。絶対に……。
スピカは歯を食いしばって胸の痛みに
たえていた――。
その様子を、一人の少女が見ていた。
ためらいがちな視線である。装飾の施された
ナイフを握る手は、震えていた。
彼女は、スピカの暗殺者、ディオナ=
コーラルである。
「スピカ=ルーン……」
今なら彼女を殺せる。
彼女はこちらに気づいてもいない。
なのに、なのに……。
どうしても手も体も動かなかった。
このナイフには、致死量の毒が仕込んであった。
投げつければ、いくら魔女であろうとも、死ぬ
はずだ。
だけど、殺せない。手が少しでも動けば、殺せる
のに。
ディオナはまだ誰かを殺す事をためらっていた。
かなり前に、この魔女を傷つけた事がある。
その時感じた胸の痛みは、今も胸にある。
「兄さん……私、どうしたらいいの? 兄さんは
あいつを、スピカ=ルーンを憎んでるの?」
小声で呟いても、それに答える声はない。
彼女の兄はもうこの世にはいないのだから。
彼女はどうしても動く事が出来ないまま、
スピカ=ルーンが、敵である少女が、
通り過ぎていくのを見つめていた――。
スピカは完全に息を切らしていた。
ずっと走っている。体力のない彼女に、たえ
きれるものではない。
スピカは少し立ち止まった。無理をして
走っていたからか、『占い喫茶カッサンドラ』
からはかなり離れていた。
……しまった! 舌打ちをしながらスピカは
後退する。彼女は、いつの間にか、村に来て
いたのだ。
両親と、愛しい妹アネット=ベルの思い出が
残る、村に。
何も考えずに走ったのが悪かったようだ。
「魔女だ!! スピカ=ルーンがいるぞ!!」
どうしよう、このままでは捕まってしまう!!
スピカの顔からだんだん血の気が引いて行った。
もう走る事はできない。
それに、この村に今はリイラ=コルラッジは
いないのだ。
「教会に連絡しろ! ここに魔女がいるぞ!!」
スピカは何もかもを諦めてへたり込んだ。
唯一の救いは、そばにアルトがいないことだろう。
スピカを発見した男が、彼女の白い手を掴もうと
した、その時だった。
鈍い音を立てて、巨大な箒が落下して来たの
である。
それは古臭かったが、頑丈そうな造りだった。
迷っている時間は無い。
スピカはそれをひっつかむと、何も考えずに
またがった。
何の前触れもなく箒が浮き上がる。
スピカは、数秒後には空を飛んでいた。
「魔女が逃げるぞ――!!」
男の怒声を聞きながら、スピカは安心した気持ちで
空をただよっていた。果物のポプリの匂いが、さらに
気持ちを高揚させる。
師匠の匂いだった。師匠が助けてくれたのだ。
スピカは別れ際の彼女の言葉を思い出していた。
『たとえ別れても、あなたは変わらず私の弟子
だから。いつでも見てるよ、あなたを。いつでも
助ける』
師匠は、ちゃんと見ていてくれたのだ。
ちゃんと、約束を果たしてくれたのだ――。
その頃、アルトとメリッサ=ウォーカーは、心配
そうな顔になっていた。
買い物に行ったはずの彼女は、いつまでも帰って
来ない。
それに、リイラの事も心配だった。
いつもは几帳面なはずの彼女が、休憩時間がとっくに
過ぎたというのに姿を見せない。
客の切れ間に、アルトはリイラがいる部屋へと
向かった。
「リイラさん?」
声をかけるが、返事がない。訝しげに思って扉を
開けると、倒れ込んでいた彼女が見えた。
「リイラさん!!」
慌てて駆け寄る。息をしているのが分かり、アルトは
少し安心した。揺り動かすと、彼女の目がぱちりと
開いた。
「スピカ!!」
リイラの第一声は、せっぱつまったような悲鳴の
ような声だった。
思わずアルトはびくっとなり、小柄な体を竦ませる。
「スピカ! スピカ! スピカ!!」
「落ち着いてください! スピカさんは、買い物に
行ったんですよ」
リイラはようやく落ち着きを取り戻したらしく、涙が
浮かんだ目でアルトを睨みつけて来た。
「買い物ですって!? そんな訳ないわ! スピカは、
旅に出るって言っていたんだもの!!」
「旅!? なんで!?」
そんなことは初耳だった。目を大きく見開くアルトに、
苛立ったようにリイラは叫んだ。
「魔女狩りが始まったの!! あんたを巻き込ませない
ために、スピカは一人でいなくなったのよ!!」
「スピカが……」
アルトは強いショックで口が利けなくなった。
ずっと一緒にいたいと思った少女が、黙って姿を
消してしまったのだ。
しかも、心配させまいと嘘までついて。
アルトは泣きそうな想いで立ち尽くした――。
その頃、『占い喫茶カッサンドラ』では、
やきもきしながらメリッサがアルトの帰りを
待っていた。
上の空でケーキを作りながら、ため息をつく。
と、その時だった。
どんどんどん!!といきなり戸が乱暴に叩か
れたのだ。
「おい!! 開けろ!! 魔女がいるのは分かって
いるんだぞ!!」
メリッサは青くなり、作りかけのケーキを床に取り
落とした――。
スピカが突如としていなくなった
後、アルト達がようやくスピカの
不在を知ります。自分がどうしたら
いいのかと迷う暗殺者コーラル。
一体、物語はどうなってしまう
のか!? シリアスパートはしばらく
続く予定です。ほのぼのパートが好きな
方すみません。